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2005年10月16日

《マムレの樫の木の下で》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記13:1〜18

洗礼式執行(宮内茂樹)、讃美歌22,186,199、241、


映画の題みたいだなァ、と自分で思います。「パリの空の下、セーヌは流れる」。

説教ですから、そんなにロマンティックではありません。はじめに、お断りしておきます。

旧い翻訳は「テレビンの木」となっていました(口語訳)。


アブラムが聖所を築いたところの名が似通っていて、私も戸惑います。はっきりさせておきましょう。

 「マムレ」とあるのは、現今のラーメト・エル・カリール、ヘブロンの北4,5キロの村落。創世記13:18には、はっきり「マムレの樫の木」のところに住み、祭壇を築いた、とあります。創世記12:6には、シケムの聖所、「モレの樫の木」まで来た。そこで主が彼に現れたので、そこに祭壇を築いた、と記されます。

「モレ」は同じくジェベル・ドゥーヒ。普通モレの丘(標高561m)と呼ばれ、士師記6〜8章、ギデオン物語に現れ、この丘の南の麓、シュネムにミデアン人が陣取ったところ。

 ついでにギデオンに関係のあることを、ここでお話しておきましょう。出エジプトのイスラエルがカナンに定着し始めた時代のことになります。恐らく1100年代のことでしょう。

砂漠の民ミデアン人が、風のように現れ、収穫した労苦の実りをさらって行ったのです。彼らには素晴らしい道具がありました。「らくだ」です。ミデアン人とアンモン人が持っていたらくだは、「海辺の砂のように多かった」と士師記7:12は語ります。BC12世紀、ちょうどこの頃、砂漠の奥地の人々によって、らくだの馴致が成功しました。後に「砂漠の舟」と呼ばれるようになります。平和なときも、戦争のときも、乗り物、荷物運びに用いられました。戦車の記録もあります。持久力と速力双方を併せ持つ動物は、便利です。

らくだは、100万年以上も前から生息していたことが、化石などによって知られています。

元に戻ります。アブラムは、エジプトを出てネゲブに帰って来ました。飢饉のため逃げるようにエジプトに下りました。命一つ無事であればよい、と言うような気持ちだったことでしょう。ところが、命を全うして、もっと豊かになって帰ってきました。2節は「アブラムは非常に多くの家畜や、財産を持っていた」と強調します。豊かさも健康も神が祝福しているしるし、と考えられた時代の事です。凱旋将軍のような気分であってもおかしくはありません。しかし、追いかけて来るかもしれない、と考えると不安に駆られるのです。

 後の時代のことになりますが、伝道者パウロはピリピの信徒に向けた手紙でこのように語ります。4:11「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と。与えられたものに満足する。そこに祝福に満ちた平安があるのです。

 今回、アブラムたちは、ネゲブに滞在はしませんでした。余りにもエジプトに近いためでしょうか。ファラオが考えを変えて、追いかけて来ることを恐れたのかもしれません。更に北上します。エジプトから遠くなって安心できるところは、カナンの中央部に位置するベテル、シケムの辺りでした。12:6「モレの樫の木」とありました。アブラムの聖所です。12:7には、「そこからベテルの東の山に移りそこに天幕を張った」と記されています。ここでやっと安心したことでしょう。最初に祭壇を築き、主の名を呼んだところでした。

古代人としてのアブラムにとって、とりわけ思い出深いところ、主の手に守られていることを感じられるところだったに違いありません。甥のロトも一緒です。二つの家族と言った方が宜しいでしょう。彼らはこれまで肉親として互いを尊重し、愛し、支え合い、歩みを進めてきました。共に豊かになりました。

この土地にはカナン人、ペリジ人という先住民族が住んでいます。先住民は、何処であれ、当然一番良いところに住み着き、生活しています。武蔵の国、秩父山系に秩父往還が通っています。現在の国道になります。入り口は鉢形城のあった寄居町。その東は熊谷市。

西へ進むと荒川の源流となり、国有林の中へ消えてゆきます。深くえぐられたような荒川の渓谷、かなり高いところを道路は走っています。ドライブをして気付くのは、南に面した高いところに大きな古い家が多い事です。低い場所になるほど新しい簡略化されたような家が多くなります。観光目的のお店のようなものです。そうした所は大雨によって増水すると流される危険が大きい、と言うことでした。

良い場所は先住民が占めているよ、と書かれているのです。その余りの所にアブラムたちは天幕を張ることが許されたのでしょう。たくさんの天幕を持っていたと言いますから、とても場所が足りなかったのではないでしょうか。祝福を受けて、多くの働き人、家畜、財産を持つようになったために、逆に不足を感じるようになってしまうのです。皮肉な事です。多くのものを持ち、豊かになったからこそ、不足が生じるのです。その結果に注目しましょう。何が起こるでしょうか。

争いが起こったのです。家畜を飼う者同士の間で。牛飼いとか羊飼いと呼ばれるようになります。自分の家の、家畜のために水と草を確保しなければならない、それも安定的、継続的に。それが彼らの務めでした。カナン人、ペリジ人は、この争いの外にいて、見ているようです。他民族の内輪もめであり、自分たちの領域を侵さなければ何も問題にはならないのでしょう。よそ者同士が争うのは好都合かもしれません。漁夫の利を得ることも可能です。

「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった」と記されます。何故でしょうか。それは彼らがまだまだ成長を続けているからです。これで良しということがないのです。もうこれで十分ということがないのです。そのために将来の場所まで確保しようとすると争いは大きくなります。



アブラムは、争いが大きくなる前に防ごうとします。これまで一緒だったロトと分かれることを決断します。一面では、ロトの自立のときでもありましょう。祝福を受け、豊かになったからこそ愛するものとの別れと言う苦しい決断を迫られるのです。

アブラムは、好ましい場所を選ぶ優先権をロトに与えます。

ロトは喜んで、ヨルダンの低地一帯を選びます。緑と豊かな町があります。

このところの光景の描写は、2:10以下とよく似ています。エデンの園から一つの川が流れ出て園を潤していた。

そして、3:6にも共鳴するものを感じます。「女が見ると、その木はいかにも美味しそうで、目をひきつけ、賢くなるようにそそのかしていた」。誘惑でした。今、ロトの前に置かれたものが誘惑であることは、やがて判ります。ロトは、都市生活を選びました。それは祖父に当たるテラが退け、またアブラムも退けたものでした。

 アブラムは、カナンの地に住むことになりました。そして、ヤハウェの祝福を与えられます。それは土地を与えること、子孫が増し加えられる事です。この祝福は、ここでアブラムが謙譲であったから、と言うような理由ではありません。ただ神の自由な選びによるものです。その子孫が血肉の繋がりだけを頼りとするなら、ことを間違えることになります。何処からでも選ぶことが出来ます。バプテスマのヨハネの言葉がマタイ3:9に残されています。「『我々の父はアブラハムだ』などと思っても見るな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子達を造り出すことがお出来になる」。

私たちは、自分の何らかの誇るべきものによってではなく、ただ神の自由な選びによって神の民とされました。罪ある身のまま選ばれました。何処にも誇るものはなく、神の恵みを感謝しましょう。そしてこの恵みを出来るだけ多くの人に知っていただきましょう。

アブラムは、マムレの樫の木の下で感謝と讃美を捧げました。今、この礼拝堂もマムレの樫の木の下になります。感謝と讃美こそ、この場所に相応しいのです。
欄外

「樫の木」について。  聖地の樫は、日本種と異なり、ナラに近い。

創世記12:6、13:18、14:13、および18:1は「マムレの樫の木」。

創世記46:14、民数記26:26、ヨシュア記4:11、士師記4:11、9:37,12:12などは固有名詞として出てくる。

士師記9:6は、樫ではなく「テレビンの木」と誤訳している。

申命記11:30は「モレの樫の木」、

サムエル上10:3にも「樫の木がある。

創世記35:4の記述「人々は、持っていた外国の神々と、つけていた耳飾をヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた」の「樫」はヘブライ語が「エラー」となっているので「テレビンの木」である。

セイチカシ

ごく普通の常緑の低木、冬から春にかけてはこの樫だけに葉がある。所によってはかなり大きくなり、しかも常緑であるので、墓や礼拝の対象としても使われる。その良い例がヘブロンにある樫の木である。アブラムは、マムレに樫の木を植えた。ヘブロンの町はずれのギリシャ正教会の教会の庭に、セイチカシの大木が保存されていて、「アブラハムの樫の木」と呼ばれている。周りには何本ものセイチカシの若木が植わっている。現在の木が枯れたら、これらの中からアブラハムの樫の木が残されるのだろう。

同じことが、日本の神社の「御神木」にも見られる。

パレスチナでは更に、タボルガシの木がある。根は垂直に数メートル、水平にも数メートル広がり、樹は実に堂々として、高さ25メートルにも達するものがある。広がりも20メートルに及ぶものがある。樹齢300〜500年になるものがあると信じられている。カルメル山やガリラヤには大きなタボルガシやセイチガシがあり、大事にされている。

「らくだ」は、野生の草食動物、大きな体、強く速い走る力、尊大で反抗的。水なしで1週間も歩き続ける体の構造。砂漠の民の間では血統図を付けて売り買いされ、らくだの競走なども楽しまれたようです。創世記12:16に「らくだ」が挙げられています。エジプトではこの時代、らくだの馴致に成功していたのでしょうか。残念ながら、エジプトの古い記録にらくだは、登場しません。たとえば、ルクソールのカルナク神殿に残されたもの。よくギザのピラミッドの下でらくだと一緒に記念写真を写したものを見ます。それは現代のものです。古代エジプトでは、らくだの存在は知られていたでしょうが、用いられてはいなかったようです。牛、馬、ろばを用いていたことが知られています。

創世記は24:61で平和時の乗り物として登場させます。また32:16は、ヤコブからエソウへの贈り物に「乳らくだ30頭とその子ども」を挙げます。創世記記者は、自分たちの周辺で当たり前の風景となっている「らくだ」は、アブラム時代にも当然いたことを疑おうとしなかったのでしょう。