讃美歌21,183,276、神学校日・伝道献身者奨励日。
秋晴れの美しい空が、朝から広がっています。イスラエルの空は湿度が低い分、もっと澄み切っています。その空の下をアブラムは流離い続けます。
実は、先週の礼拝後、一つの質問を頂きました。「アブラムは父親の生存中にハランを出発した。父を置き去りにする決断は並大抵のものではなかった。という感激的な説教を聴いたことがある。死後の出発は数字の上からもおかしいのではないか」。
テラがアブラムを得たのは70歳の時です(11:26)。アブラムがハランを出発するのは75歳。そのときテラの歳は145歳のはずです。しかし、11:32ではテラは205年の生涯を終えた、と記されます。60年間生きているではないか、と数字の上ではなります。
聖書学者の間では、これを「謎の数字」と呼んでおります。文章からは、ごく自然に「テラの死後出発した」、と読めるのです。サマリヤ五書と呼ばれる旧い聖書は、テラの一生を145歳にすることで、問題を整理しています。そこまでする必要は感じません。アブラムが生まれたとき、テラ70歳、同時にナホル、ハランも生まれたかのように書かれています。可能ですが、普通ではありません。数字に対して関心が少なかったのでしょう。その後のアブラムの移動についても、その時間の経過を記そうとはしません。文章の流れを追うのが、このところの読み方であろう、と存じます。
アブラムは、悲しみの中で、神の言葉を聞きました。やはり、ここでもどのような形で語り掛けられ、聴いたのか、記されません。聖書記者たちは、最小限のことだけに止めています。省略の名人、と申し上げました。それによって、私たちが興味を持つもの、持つ事柄と、神が語ろうとすることとの違いをはっきりさせています。現代の私たちは、マスコミの教育を受けて育ってきました。学校教育も同じです。文章を書くときは、何時、何処で、誰が、何を、どのように、どうしたかをはっきりさせなさい。いわゆる五W一Hです。これは、聖書記者には関係ありません。神の言葉は、そうしたことを超越します。そうした態度を、私たちはいらいらするような気持ちで読みます。我々人間を無視している、と。決して無視しているのではありません。時間や場所などを越えて、すべてのものに語りかけるためなのです。時間を追いかけて、世界史の中でその位置を確定しようとする方もあります。
アブラムが聞いたこと自体に関心を集中させましょう。「私が示す地に行きなさい」。
これこそ私たちに与えられる言葉です。その時々に示されることに従う事です。ある教会員が、教会から1時間ほどのところに転居しました。10分ほどのところに教会があるのだけれど、転会したほうが良いのだろうか。答えました。神様が、やがてその道しかないという状況を調えられたら、そうすれば良いのではありませんか。
これには約束が付いています。大いなる国民とする。あなたは祝福の源となる。
この約束は、成就したのでしょうか。確かに民族の数としては大きくなりました。資産も。
しかし、その歩みは決して良いことばかりではありません。むしろ苦難の方が多く、茨の道であったというべきでしょう。カナンの地に国を建て、栄えた時代もありました。やがて、アッシリア帝国による、北十部族の壊滅と離散。バビロニア帝国の捕囚と離散。帰還と再建の一時期はありますが、ローマ帝国による祖国の喪失、離散。以来民族の土地は失われたままでした。イスラムのアラブ人との平和的共存の時代もあります。キリスト教徒による迫害は長く続きました。ナチ・ドイツによるホロコースト。第二次世界大戦後、英国の委任統治を脱してイスラエル国家が樹立されます。昨日まで隣人として生きてきたアラブ人と銃を構え、殺し合うことになりました。今に至るまで戦争状態は続いています。
これが、神が約束された祝福なのでしょうか。ユダヤ人は、神の祝福を信じてガス室へ歩みを進めました。苦難の彼方に祝福の成就を見たのでしょうか。信じたことは確かでしょう。神の言葉同様、その祝福も私たちの考えとは異なります。我々の思いをはるかに超えたところで祝福は成就されます。
アブラムの一行は、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。
シケムは中部パレスティナ、ゲリジム山とエバル山の間の町、前1900年ごろから都市国家として栄えた。ヨシュア記24章参照。モレは古くからその付近にあった聖所(申名11:30)。そこからベテルに移る。ベテルはシケムの南約40キロ。古くから聖所があり(28:19)後に南北分裂王国時代の北王国の国家聖所がここに置かれた(王上12:29)。アイ(廃墟の意)は後にイスラエルの民に滅ぼされた、と伝えられる(ヨシュア8:1以下)。
カナン地方では、先住民の聖所がありました。高い所や、高い樹木のある所を聖なる場所としていたのです。イスラエル王国の時代になって、エルサレムの神殿が作られ、地方の聖所が禁じられても、引き続き聖所とされていたようです。預言者はそれを嫌い、繰り返し預言し、禁じています。
アブラムの旅は更に続き、カナンを通り抜けて、南の方、ネゲブ砂漠に入ります。ネゲブの南はエジプトの勢力下に置かれています。この境界線上の近くにキブツ・スデボケールがあります。初代首相、ベングリオンが、この地に入植したことで知られます。現在は、記念館として大事にされています。少し北に戻ると、オアシスの町、ヴェールシェバがあります。 紀元前21から19世紀にかけて、中期青銅器時代初期には農業集落があり、発掘の結果、平和な生活が営まれていた様子がわかります。アブラムは、何処へ行ってもそこで祭壇を築いて、礼拝を捧げています。これは、アブラムの信じる神が、特定の土地に縛り付けられるようなものではなかったことを意味します。この時代の宗教は、神は特定の土地と関係し、そこだけを支配すると考えられ、信じられていました。アブラムは、この時代にあって、すでに土地を超越し、全世界を支配する神を信じたのです。後になると、もっと鮮明に、イスラエルの神は世界の主、という信仰が表明されます。
本日の題は、何処となく旅行を感じていただきたいような気持ちで付けました。
初めがあれば次がある、三度目もある。旅行業界では、リピーターと呼ぶようです。間違いなく、アブラムはエジプト行きのリピーターになり、その子や孫たちも同様、リピーターになります。
私たちの旅行は、日常の生活から離れ、新しい経験を積むことで、人として成長し、充実することを目指します。そして、再び日常生活に帰ります。レジュアー、レクリエーションの考えです。アブラムは、当然ながら、そのような考えは持っていません。生きるために、生きることを可能にする場所を求めてさまようのです。明確な目的地、旅行先、と言うよりも食べられそうな所を捜し歩いているのでしょう。その一つが、旧い時代から食糧に窮することのないナイルのほとりでした。世界の穀物倉として知られています。かつてテラに伴われ滞在したハラン、北部メソポタミアも緑豊かな土地であり、肥沃な弦月系地帯と呼ばれました。アブラムは、その土地を良く知っているはずです。飢饉がやって来た時、ハランを目指すのが普通だと、わたしは感じます。
何故、南のエジプトへ行ったのでしょう。大きな理由は、距離の問題です。ネゲブから出発したとすれば、すぐにエジプトの支配地へ入り込みます。ナイルの加工の町があり、その東に湿地帯が広がりゴセンの地と呼ばれます。海岸沿いには、北へ向かう交易路が通り、エジプト兵が守備に当たっています。パトロールに出た兵士たちとアブラム一行は、しばしば行き逢っていたことが考えられます。親近感を持っていたでしょう。300キロほどで、支配地へ十分深く入ることになります。ハランへは間違いなく1000キロはありそうです。飢饉の中を旅することの出来る距離とは考えられません。
もう一つの理由は、食糧の豊かさです。定期的なナイル川の氾濫は、上流から肥沃な泥土を押し流し、遺してゆきました。アスワン・ハイダムを作るまで、エジプト人は肥料なしで、もちろん消毒や農薬なしで、豊かな小麦を収穫することが出来ました。
何よりも、ここでも神の示す方へと進んだのでしょう。そこで何をするかは別です、彼の考えが生かされるでしょう。そこには間違いも混乱もあります。
さてこの地で、エジプト王に対してしたことを、私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。妻のサライを妹と偽って、アブラムの命を助け、幸いを受ける、というのです。
アブラムは祝福の約束を忘れ、身近な脅威に対して自分で対抗措置をとった。その結果、更に困難な状況に追い込まれたが、神は助けてくださった、これが伝統的な解釈でしょう。しかし、私たちの心は、どこかでそれを受け入れることが出来ません。自己保身のためなら何でもする、私たち自身が行いかねないことだからです。アダムとエバが、禁じられた木の実を食べた責任を神に転嫁したのと同じです。神は、ノアに対し、人が心に思い図ることはすべて悪いことばかりである、と言われました。アブラムも同じです。今私たちも全く同様であることを認めざるを得ません。アブラムにも、ノアにも、そして、この私たちにも、産めよ、増えよ、地に満ちよ、と祝福を与えてくださるのです。