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2005年9月11日

《洪水の後》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記10:1〜32

讃美歌16,177,298、

 

アメリカ同時テロの日、日本では総選挙の日、台風14号が襲来した時、豪雨災害。

洪水の後、ノアの息子たちを基に諸民族が輩出しました。箱舟は救いの徴、洪水は、神の裁きのしるしでした。諸民族の勃興は裁きの後に起こったことなのです。裁きを受けて世界は再生した筈です。創造の秩序の回復になるのだろう、と感じました。

諸民族のありようは、ノアの息子たちから決まっていたようなものです。

ハムの息子カインが呪われたように、この諸民族の中には、多くの悪がある。

そしてそれは、イスラエルの王国時代のイスラエルと諸民族の姿に外ならないのです。

何故人口が増してゆくのか。食糧問題、領土の問題、力の問題などを王国時代の人々は担っていたはずだ。そうした問いかけに答えようとしているもの。



1節以下、三人の息子について記されている事を見てゆきましょう。全体として、紀元前10〜6世紀の西アジア世界の諸国諸民族が、ノアの三人の息子の系譜となっているものです。これは、ほとんど同じ内容で歴代誌上1:4以下に記されます。

先ずヤフェトの子孫です。三人目の息子から始める、というのは何か理由があるのでしょうか。聖書に見られる多くの系図は、長子から順次記しています。ここと歴代上1章はこうした順序を採用しています。末子相続に関係するのだろうかと考えてみましたが、あまり関係なさそうです。むしろ、先に傍系となるものを説明しておいて、整理した後に本流・、嫡流を書きしたためようと考えたようです。

ヤフェト系のまとめは5節です。これに拠れば、これらは「海沿いの国々」であるとされます。小アジア、現在のトルコの先住民族、諸国家です。恐らく記述以上に広範囲の地中海世界を指していたようです。

タルシシュは、ヨナ書1:3「しかしヨナは主の前を離れてタルシシへ逃れようと、立ってヨッパに下っていった。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので・・・」。

イザヤ、エレミア、詩篇などにも現れています。



6節から20節までは二番目の息子、ハムに関わるものです。

ヤフェトが地中海世界の北側とすれば、ハムの系統はその南側、アフリカと考えられます。クシュはエジプトの南部、ヌビア、エティオピア。プトはリビア、カナンは地中海の東岸の一部、今日パレスティナと呼ばれている地方を指しているようです。

その子孫の中で「ニムロド」の名が特別に扱われています。この背後には、何らかの伝承があり、それに従って記されたのでしょう。数十年前のことになりますが、英国が空中戦闘管制機を製造したことがあります。それにつけられた名が「ニムロド」でした。一体どんな意味があるのだろう、と考えたので記憶しています。

ニムロド伝説が、どこかの土の中から発見されるときが来るだろう、と考えると楽しくなります。その王国は、バベル(バビロン)、ウルク(シュメル以来の都市)、アッカド(メソポタミア最初のセム系王国の首都アガデ)。更にアッシリアに属する地名が出てくる。

南はシリアから始まり、後のアッシリア、バビロニア帝国に匹敵する古代王国を建設したことになります。何か雄大な物語を想像してしまいます。



カフトル人は、クレタ島の人を指します。アモス書9:7「ペリシテ人をカフトルから」。

クレタ島の文化を築いたのはフェニキア人といわれます。

フェニキア人については未だにその出自が明らかになっていません。北方の騎馬民族が南下して、海を渡りクレタ島でその文化を築き、納まりきれないので、海を渡り、東にペリシテを南にカルタゴを築いたという学(仮)説を読みました。

すべては、発展し続けているように見えながら、やがて必ず滅び去っていきます。



15節は、9章後半で見て来たように、ハムの息子とされるカナンに関する記述です。カナンの地は、フェニキア、シリア、パレスティナの諸族を指しています。とりわけパレスティナは、東地中海の沿岸地方(レバンテ)を指していたようです。19節に至りますと、その領土が次第に東の方、内陸部へ進出した様子が記されます。カナンの子孫は非常に力に満ち、勢力を拡張してゆきました。

この地域で後に、出エジプトのイスラエルと、土地と生活を巡って厳しい戦いが繰り返され、カナン人が駆逐され、イスラエルが定住するようになります。王国時代のイスラエルにはその記憶が鮮明です。カナン人は元同族である、という認識を持ちながらもそれを低く見て、奴隷としてきた。そのような歴史的事実を背後に抱いているのです。9章から引き続き、イスラエルの自己正当化が見られます。それにも拘らず、神の計画の中で産み出され、増し加えられたものであることも事実であり、忘れられてはならないのです。



21節から31節は、セムの系統になります。「彼はエベルのすべての子孫の先祖である」とあります。気が付かない事ですが、このエベルこそヘブル、イブリに通じるものでした。セムこそイスラエルの民すべての先祖、これこそ神の祝福を受けたものであり、われわれはその嫡流、本流である、との強い主張がなされています。

このセム族の名には、不明な点が多いいのです。判りやすいものだけあげておきましょう。22節です。「エラム」はペルシャ以前のイラン。「アシュル」はアッシリア? 「アラム」はシリア一帯に広がったイスラエルとの関係も深い民なのです。

26節には「ヨクタン」が登場しました。その居住地「メシャからセファルに至る東の高原地帯」は不明です。おおよそアラビア半島であろうと考えられています。そして、意外なことに彼らは交易を中心に生活していたように想定されています。廃墟だけを残す「ペトラの遺跡」などがそのことを示します。

以上が、洪水の後、分かれ出たノアの子孫です。主なる神は、ノアに対して不戦の誓いを立てられました。そのしるしとして雲の中に虹を置かれました。しかしそれは、ノアの子孫が誤ることなく、正しく歩むことを意味するものではありませんでした。むしろ人とは悪をなすものである、という神の認識に立ったものでした。案の定、というべきでしょうか、分かれ出た民は、夫々に自己主張を強くし、他の集団と争うようになりました。自分の正しさを証明しようとするとき、人の争い、民族の戦いは激しく厳しいものになります。イスラエルの王国時代は、北と南が争い、周辺の元は同族であったものたちと激しく戦った時代でした。格段の力を持った帝国が君臨する時期は、却っておさえ込まれて平和になり、帝国の力が弱まると仲間内のはずの勢力の間に争いが広まるのです。



スピルバーグの映画「宇宙戦争」を観ました。かつて観たことがあります。たこ型宇宙人が登場して、ひとつのイメージを据え付けたような映画でした。今回はトム・クルーズ主演、リメーク版です。原作は忘れましたが読んだことがあります。今回の映画には現代アメリカの課題である離婚と父親の役割が、もうひとつのテーマとなっていました。

100万年前から地中に眠っていて、時の来るのを待っていた機械の中に稲妻を通してエイリアンが入り込み動き出す。人間の血が大好きで、圧倒的な力で地球全体を荒らしまわる。もちろん抵抗するが歯が立たない。大阪では三台倒したというから我々も頑張ろう、という場面がありました。

この巨大で強力な侵入者が突然壊滅してしまうのです。

最後にテロップが流れます。彼らは人間の血を吸い、それ以外をくずとして吐き出していた。人間はこの地球上であらゆる細菌と共に生きてきた。バクテリア、ウィルス。突然の侵入者にはその備えはなかった。

H・G・ウェルスの原作はこんなハッピーエンドではなかった、と思いました。これはスピルバーグの思想でしょう。彼の中にしばしば見出す聖書的な感性とでも言いたいものです。

 繁栄しながら、自分の正しさを証明しようとして他の人や民族、国家と戦い続ける現代、それは映画と重なり合い、創世記が書かれた時代のイスラエルと重なり合います。

創世記の記者、編集者は、神は我々人間を同族として作られ、同じ祝福の中に置かれたことを思い起こしなさい、と語っています。
欄外

歴史上、ユダヤ人は迫害を受け続けた。それは何故なのだろうか。

この世界は進歩・発展を遂げてきた、とする考えがある。思想的に言えば、自己絶対化から相対的な思想へと発達してきた。人口も増し、食糧生産も対応してきた。情報伝達も人間や物資の移動も高速化してきた。はやく、たくさん、ひろく、あまねく。これを基準にするならば、確かに進歩がある。

しかし、これとは違う基準を持つ人々がいる。唯一絶対なものを基準とする人々です。

相対化しようとする人々にとっては、時代遅れ、アナクロニズム、頑固一徹として退けられるのです。相対化を生きようとする者にとって、慣用が大事な態度です。それにも拘らず、この頑固一徹な絶対主義者は邪魔者以外の何者でもありません。

ユダヤ人はイエスを十字架に架けたから嫌われ、迫害されるのだ、これはひとつの要因でしょう。でも、これはおかしな事です。主と仰がれるイエスが、彼らをお赦しください、と言っているのに何故赦さないのでしょうか。その上、十字架に付けたのは民族全体ではないでしょう。今現在のユダヤ人に、少しでも責任があるのでしょうか。

イスラムは同じ唯一絶対の神を信じます。それも強烈に。排他的に。彼らはモスクを建て、掟を守り、伝道します。その彼らの存在は誰の目にも明らかです。拒絶することが出来ます。少数派でいる限り彼らは環境に順応します。

ユダヤ教徒は、目に付きません。故郷を失い、離散の民、ディアスポラとして生きた歴史は、社会の中で隠れて生きる知恵を産みました。そしていつの間にか大きな力を蓄えているのです。周囲の人たちは、自分たちのものが奪われた、と感じています。

このあたりに、ユダヤ人迫害の大きな原因があるのではないでしょうか。