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2005年8月28日

《雲の中に虹を見る》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記9:5〜17

讃美歌14,168,301、



毎度の事ですが、前回の部分の積み残しがあります。

驚いたことに、礼拝後すぐに、その点は如何なのでしょうか、と質問をお受けしました。

それは次回お話しすることになります、とお答えしました。約束は守らなければいけません。最近、よく思い出しますが、わたしは、紳士になりなさい、と言われ、育てられました。中身の説明なしです。紳士ってなんだろう。考えてきました。

ある牧師は、ネクタイを締めていることのように考えておられました。でもその方は、結びっきりの付け下げスタイルです。何かインチキに感じられました。別にネクタイのある、なしで紳士が決まるわけではないだろう、と考え普段はノーネクタイを通しています。

マナーや服装などで、否の一点の打ち所がなくてもそれだけでは紳士ではない、と思います。自己中心の我利我利亡者であったならば、その人を紳士と呼ぶでしょうか。

涼しい顔をしながら、自分に反対する者には徹底的に恨みを抱き、復讐する、そんな人間を紳士と呼ぶでしょうか。

このごろのお母さんたちは、優しい子どもを期待しています。優しい人間になることを求めています。でもどのような優しさなのでしょうか。結果的に言えば、優柔不断であったり、腰抜けであったりすることが多いのではないでしょうか。

正しい判断と責任を負う心、孤独に耐えると共に他者を思いやりの心が紳士の条件であり、

このような男女を育てることが、この時代にあって、特に求められているのです。

一体このようなことは可能でしょうか。教育に直接携わるもの、すべて人の子の親たるものにとって重要な課題です。

聖書は、このようなわたし達の試みをあざ笑うかのように、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」、「人の心の企ては若い頃から悪いのだ」、悪いことしか考えないと記すのです。これを読むと、現代の私たちは絶望するでもなく、これは性悪説だ、現状が肯定されているだけだ、などと考えるのではないでしょうか。性悪説のように感じるのは無理もありません。しかし聖書は聖書によって理解されねばなりません。人間創造を思い出し、考えて見ましょう。

創世記第1章26節以下。神はご自身の形に似せて人をお造りになった。これを男と女とに作られた。そうです、神の似姿として人は創られたのです。この人、男と女が根本的に悪いものであるならば神も悪いことになります。似姿とは何か、と言うことも考えました。それは、神が本来持っておられるものを人間の内面に植えつけられたのだろう、と致しました。即ち、愛と自由と平等です。全体として、神の尊厳を身に備えた人間となるのです。

そして、自由を持つ人間だからこそ、悪をなすことができたのです。紀元前10世紀のイスラエル人は、自己中心的な利益追求的な人間の姿に悩まされたのでしょう。そして、何故なのか、本来はどのようにあればいいのか、考え、語っているのです。

古代中国を考えるならば、そこには王道による支配と覇道による支配がありました。

孔子たちは徳によって国を治める王道を説き、その実践の場を求めました。

秦の始皇帝は、軍事力と規則、法による支配を進めました。この人為的な力による統制の底にあるのが、人間はそのように強制しなければならないほどに悪であり弱いものである、と言う考えです。それをひとつの説として組み立てたのが荀子であるとされます。

何も紀元前に帰らなくても現代の人間の姿を見れば、人間という存在の愚かさ、悪さは知られるはずです。



ノア以外のすべての人は滅ぼされました。ノアは神の恵みにより、ただ一人、正しい人とされました。看做された,と言うべきだと考えています。

21節にあるのは、人間の悪により大地が呪われる象徴的な出来事が洪水であった、という事です。洪水は悪逆に満ちた世代を滅ぼしました。しかし、人の心の中に存在する悪は滅ぼされませんでした。その現実の中からの叫びがここにあるのです。

 「人が心に思い図ることは悪いことばかりである」。

創造された人間に与えられた自由を自己中心的に用いるとき、そこに悪が生まれ、罪となるのです。人の悪は,人間が神に似て自由であるゆえに生じる。

 これに対しては、常にパウロの言葉を読むのがよいでしょう。ガラテヤ5:13

「兄弟たちよ、あなた方は、自由を得るために召しだされたのです。ただこの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。

これこそが、自由人の責任ある生き方です。

 

さて、ノアの一家は礼拝をささげました。このことは既にお話しました。

「焼き尽くす捧げもの」とあります。恐らく後の時代になると、祭司、レビ人が捧げ物の上前をはねるようにして、その良い所を自分たちのために取り分けてしまうことが意識されているのでしょう。更に「捧げる」ことの元の意味は、「煙を上らせる」ことにありました。神はそれを受け入れてくださいましたが、常にそうであるとは限りません。救いを求める祈りが、礼拝が拒絶されることもあります。謙遜な心をいつも忘れないで礼拝しましょう。



この後、肉食が承認されます。1:29によれば、人が食べるものは本来植物でした。

モーセの律法では、レビ記11章で細かい食物規定が与えられます。理想の時代には、すべての動物が、再び菜食になります。

律法の規定の中にあるのは、神の祝福です。律法によって守られている、清く保たれるという考えです。ここにイスラエルが神の民である、という特別な意識が働きます。食べても大丈夫なものを神から与えられている、保証されている、という特別な意識がいつも働くのです。



そして、人間も神の似姿である故に、その生命を奪う者は自らの生命を以って償わなければなりません。

 

最後の部分へ急ぎましょう。神はノアとその一族を祝福します。創造の初めの祝福を回復します。その祝福の徴として、雲の中に虹を置かれました。

? SET MY BOW IN THE CLOUDS

直訳すれば、「わたしは雲の中に私の弓を置いた」、となります。虹ではなく、戦いの武器である「弓」です。その弓を置くのは、もう戦いは終わった、という宣言と等しい事です。大相撲の一日の取り組みが終わると、弓取り式があります。最後の一番の勝者に代わって、弓取りの力士が土俵に上り、弓を受け取り舞うが如くに四股を踏みます。これでこの一日の戦いは終わったと告げています。平和を告げるもの、不戦を告げています。

神がご自身の弓を置かれるとき、同じように、もはや戦うことをしない、やめた、と世界中に告げているのです。詩46:10も不戦の宣告です。

「主は地の果てまでも戦いを止めさせ、

弓をおり、やりをたち、戦車を火で焼かれる。」

武器、兵器、力を持つと、凡人は、それを使いたくなるのです。生兵法は怪我の元です。



「雲の中に弓を置いた」。わたしは根暗なのでしょうか。「雲」と聞けば、これから雨が降るぞ、と思います。これから闇を払うときの雲もあるのです。虹は雲の中に置かれ、その後晴れてゆくのです。

甲府から御殿場への帰り道、忍野を抜けたとき山中湖の上に立つ二重の虹。

台風の去った暮れ方、山々を背景に立つ大きな虹。喫茶店に入って長いこと観ていました。

私たちは、雲の中に虹を見るとき、これから明るくなるのだ、と希望を持ちましょう。

神の約束を思い起こし感謝と讃美を捧げましょう。