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2005年6月26日

《エデンの東》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記4:13〜26

前回は、カインとアベルの礼拝のことでした。神様が、礼拝を受け入れてくれない、と言うのですから、安気な私たちも驚かされるわけです。実は、私たち以上に驚いたか、成る程と納得したのは、繁栄しているイスラエル王国の人々でした。経済、軍事、宗教その他、すべての面でうまく行っているのですから、意気揚々たるものがあったでしょう。
その時に、「お前たちカインを見て御覧なさい。あれは実はお前たちの姿ですよ」、と言われたようなものです。礼拝の問題が、いつの間にか家庭、家族の問題になってしまう。
これは現代の問題なのだ。と考える人はたくさん居ました。家庭が宗教を捨てたとき、信仰の共有を不用なものと考えたとき、家庭は、危機的な状況へ突入し始めたのです。ひとつの主を拝することがなくなったとき、家庭の崩壊が起こるのです。
 
今朝の説教題は「エデンの東」となりました。これはジョン・スタインベックの小説の題名、社会派作家の代表作のひとつ。たいへん長いものです。先週、看板を御覧になった方が、映画の題名ですね、とおっしゃいました。映画のつもりでおいでになる方がいたら困るぞ、と思いました。エリア・カザン監督の名作映画の題名、1955年ですからちょうど半世紀前。スタインベックの小説の一部分を題材としています。
 ジェームス・ディーンの初主演作、一躍大スター、この作品の後、「理由なき反抗」、「ジャインアンツ」に出演、スタジオ内で車の事故のため死去、24歳。実は一つも見ていないのです。しかし、彼の名声は普及のものとなり、いまや伝説と化している。
「愛されないほどつらいことはありません。愛されないと心がねじけます」。
これは、映画のセリフのひとつだという事です。(インターネットから)

「カインの末裔」は、有島武郎の作品の題名。神に見放された貧しい農民、仁右衛門の姿を描きます。

この人類最初の殺人事件は、多くの人の興味、関心を引いています。
せっかくの、神の警告の言葉もむなしく、カインは弟アベルを殺してしまいました。
その後、どうしたか、読んでみましょう。

「カインよ、お前の弟は何処にいるのか」。ここでは、取り返しのつかない出来事に対する神の深い悲しみが響いてきます。お前もまたふさわしい助け手になることが出来なかったのか。そうなのです。カインは、この機会にアベルから礼拝を学ぶことが出来たのに、教えを求めることが出来ませんでした。兄弟は、競い合って成長するものです。しかし同時に、競争相手となってしまうために、兄弟仲は悪くなることが多いのです。
カインは答えます。「知りません。私は弟の番人でしょうか」。それは尤もだ、弟に縛られた人生になっては可愛そうだよ、と言いたくなるかもしれません。兄は弟の番人です。
これを読むと、いつも私自身の経験を思い出します。中学生ぐらいの時だったと思います。昭和22年2月22日生まれの弟がいます。5歳なら、私は12歳。そんな頃でしょう。
母が私に、弟は何処にいる、と尋ねました。(実は、デコと呼ばれていました。高嶺秀子がデコなので秀彦も)。兄が一人、弟は3人妹が5人、大勢の事ですし、私は学校から帰ってきて、自分のやりたいことに熱中していました。たぶん本を読んでいたのです。答えました。「知らないよ、弟の番などしていないよ」。叱られたのでしょうか、この答えだけよく覚えています。母は、末の弟の面倒を見ることを期待していたのです。
自分の言葉が意味するところに気付いたのは、聖書を読むようになって、随分たってからのことでした。牧師になってから、この言葉を思い出したのかもしれません。

私たちにとって、「番人」という言葉は嫌なものです。拘束して、勝手な動きを禁じ、違反しないように監視する。このようなイメージがあるからです。
田の水番にしてもそうです。水を盗まれないように守る。
昔、私などのアルバイトに「線番」というものがありました。地中線埋設工事の現場で、銅の被覆をしたケーブルドラムが盗まれないように徹夜番をするのです。小さなテント、夜泣きそば・シナそばの味も知りました。これは無関係ですね。
行動を監視する、盗まれるものがあるのでそれを守る。
番をする、番人となることには、こうした二つ以上の意味があるのです。
ひとつは規制する、拘束すること。これはしたくないし、されたくもありません。
もう一つは守る、支えることなのです。これは大事なことではありませんか。
創られた人間が、独りでいるのは良くない、ふさわしい助け手を造ろう、と神が言われた。そして、あばら骨から作られた。本質的に同じもの同士が助け、守りあうのです。

番人、監視、と言う言葉自体に「見守る」と言う意味があります。助け手になることには、このような、見守るものになることも含まれるのです。

こうしたことが判り始めたとき、あの「弟の番人ではない」と言う言葉が如何に酷いものであるかが判って来ました。更に聖書は、昔のことではなく、たった今、この時の私の状況を告発するものである、とわかってきたのです。
コペンハーゲンの哲学者、キエルケゴールは、「聖書の同時代性」と言いました。
聖書の言葉は、時代を超えて一人一人に迫り、その状況を告発します。
3000年昔、繁栄するイスラエルは、自分のことだけを考え、神の力を忘れ、他の弱い人たちのことを見ないようにしました。

現代の世界で起こっていることを考えるとき、この聖書の言葉がどれほど当たっているか、十分にお分かりになるはずです。

カインに対する神の言葉は、その時代の様相を映し出しています。
かつて大地は、巨木が生い茂り、沃野が広がりました。しかし、もはやそれは民族の遠い記憶の彼方に薄れてしまいました。焼けた砂漠が広がり、わずかなオアシスとチグリス・ユフラテだけが地の産物をもたらしていました。羊の群れのために水と草を求めてさまよう生活でした。それは何故なのか。
罪の警告は、同時に信仰の告白へと変化するものでした。「私の罪は重過ぎて負いきれません」。遅すぎた罪の告白です。勝手に弟を殺しておいて、いまさら何を言うのか、と感じませんか。それでもイスラエルは、カインに関して、自分たちとは違う先祖のこと、と考えることを許しました。後の系図がそれを明らかにします。それでも、自分たちの中にアダムとエヴァから受け継いだものがあり、それがカイン・殺人者となることは否定できませんでした。

 人間の現実は、いつも同じです。何年経っても少しも進歩しないのです。同じ過ちを犯しています。同じ自己中心に陥っています。殺して、初めてそのことの重大性に気付く。
「私にも、神の造られた命を消滅させることが出来た。そうなら、他の人も自分を殺すことが出来る。おお、恐ろしや」。「神様、わたしを守って、殺されないようにしてください」これこそカインが言っていることなのです。ムシがよすぎる。

主なる神の恵みは、ここでも顕れます。カインが殺されないように、ひとつの徴をその額につけた、と言います。カインが殺人者であることを示すしるしになっているはずです。驚くべきことに、それが同時に、殺すな、と言う神の命令となっているのです。
この徴を考える人々もいます。ヨーロッパの人々は、これこそ皮膚の色に違いない、などといいます。有色人種はカインの末裔なのだ、と言いたいのです。そして自己優越感に浸り、差別するのです。そうした自己中心こそカインの徴なのです。殺人者のしるしです。私たちには、殺人者のしるしが同時に殺すなと言う神の命令となった、なっていると言う不思議さで十分です。「ノドの地に住まわせた」ことについても同様に、それを特定しようとする人たちがあります。学問的関心もあるでしょう。それが判ってどうしようとするのでしょうか。しるしと同様、特定されたなら、殺人者の末裔として、差別することになるでしょう。有島の「カインの末裔」は、神に見放された貧しい農民の姿を描きます。しかし、創世記は、カインにすら神の恵みが在ることを告げるのです。これら聖書の言葉、その内容は、他を差別する道具とするのではなく、この殺人者にも神の恵みが与えられたことを知り、感謝と讃美を捧げましょう。


欄外

第二次大戦後、世界中の学者がさまざまな研究をしました。あのナチスの狂気は何事か。
ナチドイツと一般ドイツは別個のものである、と戦後ドイツは主張しました。しかし、多くの研究は、それを否定します。マックス・ピカートは、「われらの内なるヒトラー」と語りました。エーリッヒ・フロムは「人間は自由であることに耐え得ないために、強力な権威を求め、権力に従おうとする」と語りました。すべての人が小なり大なりカインの末裔であることは否定できません。