此処から、もう一つの天地創造物語となります。
1章を振り返ってみましょう。短い時間にたくさんのことを詰め込みすぎたかもしれない。
1章は、紀元前6世紀後半、バビロン捕囚のイスラエル人たちが、信仰を告白したもの。
繰り返しの多い、荘重な文体で、礼拝などで読まれる目的があったのでしょう。
悲惨な状態の人々がそのまま、神の民であり、愛され、守られ、世界を委ねられている。
拘束され、束縛されている民族が、神の自由と愛を潅がれ、内に神の似像を抱いている。
捕囚のイスラエル人は、これらを信じ、民族の誇りを固くし、将来への希望と、命の尊厳を確保した。イスラエルの神は、このバビロニアの地をも創造した神、時間と空間の支配者である。
これらが、重々しい文章で語られていました。私たちの福音となったでしょうか。
さて、それらに対して、もう一つの創造物語は何を語ろうとするのだろうか。
混沌たる状態は語られません。野の木、野の草は地上になかった。それは雨がなかったからです。土を耕す人もいなかったから、と記されて始まります。創造は、既に大地のある状態から始まったことになります。そして水が沸き出て、地を潤す記述に進みます。
土のチリに水分を加えると粘土状になります。形を作り易くなるわけです。然し、ここではそれ以上に、人体には水分が非常に多く含まれていることを知っていて書き記した、と考える方が妥当性を持つでしょう。
同時に、人間は、土の焼き物のようにもろいものであることが、語られます。たいへん不思議な事ですが、落とせば割れる。壊れる。そのくせちょっとしたことでは壊れない。
更に人は、決して清い素材で創られているわけではないことも指摘されています。土の塵は、陶器師なら、舐めて試すこともするでしょう。普通は致しません。
決定的に大事なことは、人は、自らの力で生きているのではない、という事です。
神の霊によって始めて生きるものとなりました。霊とは何か、これは大きな問題です。
混沌たる水の上を覆っていた、包んでいたものです。更に、人の鼻に吹き込まれれば、その人を生きるものにしてしまう神の力なのです。神の霊によって、人は生かされて生きているのです。神の息、神の霊なしで生きているように見えるとき、その人は生ける屍と同じなのです。
霊についてもう少し考えておきましょう。新約聖書にも出てきます。それらも同じ聖書ですから、同じように理解できるでしょうか。
ヨハネ3:5、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」。
使徒言行録2章、聖霊降臨。ローマ8:15、「神の子とする霊を受けたのです」。
それぞれに、それぞれの新しい生き方が始まることが語られます。
先ず一人の人、アダームが土の塵、アダマーから創りだされました。創造主は、たいへん懇切丁寧な方です。創られた人を置くべき所も用意されるのです。それがエデンの園です。
「エデン」という言葉の意味はよく判りません。語源は、「歓喜」あるいは「荒野」と考えられていますが、これも今ひとつはっきりしません。
「主なる神は東のかた、エデンにひとつの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」。
口語訳では8節はこのようになっています。新しい訳は少し説明的な感じがしますから、一般には判りやすいでしょう。
最初の生活の場が東のかたであった、ということは、「人類は東方から」という観念の基になっているのです。この東は、何処から見てのことでしょうか。方角には、必ずその基準点があるはずです。
大阪で生活している人にとって、名古屋は東、静岡、東京、仙台も東。神戸、岡山、広島、福岡は西。判りきったことです。仙台の人にとって、東京も広島も西になります。福岡の人なら、大阪も仙台も東なのです。
この8節の言葉、「東の方」は、11:2でも用いられ、人類が東から来た、という考えを補強しています。その基準は、聖書の世界であって、更に東の方から人類はやって来たと言うのでしょう。10節以下に従うなら、それほど遠くの東ではなさそうです。
マタイ福音書2章の降誕物語に、東の方で不思議な星を見て、その光に導かれた学者たちの到来が描かれています。東方で見た星、光は東方から、Richit von Osten。
西欧の歴史研究の中では、文明の光は東から到来した、と考えられています。それはドイツや、フランス、スペイン、イギリス、イタリヤなどから見れば、ずーっと古い時代に、東は偉大な文明を持っていたのです。そのギリシャ、メソポタミア、インド、中国、エジプトなどの影響を受けてヨーロッパの文明は発展しました。
面白い話しですが、聖書が伝えようとしているのは、そのような文明論ではありません。
むしろ大切なのは、園の中に、神は必要なものを備えてくださった、という事です。
人間が生きるために必要なものを備えられました。それは、食べるもの、生命の木、善悪を知る木でした。どれほどの数であったかは記されていません。生きるために必要なだけのものがあったに違いありません。15節を見ると「耕し、守る」ようにされた、とあります。最初の人間は、遊び暮らすことが出来たわけではないのです。大地を耕すこと、それを守ることは、始めから、造られたアダームの働きとして求められていました。
今日、働く意味が判らないから働かない、という人が増えています。いわゆるモラトリアム人間です。視点を変えて、人は働くように造られている、と考えてはどうでしょうか。
労働が苦痛になるのは、第4章に語られますが、罪の結果です。それ以前、人はなんら苦痛を感じることなく働いていました。
エデンの園を潤す一つの川があります。詩篇46編4節、を思い出してください。
「一つの川がある。
その流れは神の都を喜ばせ、
いと高きものの聖なる住まいを喜ばせる」。
エジプトや、メソポタミヤの王宮を考えているのかもしれません。大河のほとりの都ですから。エルサレムには、川はありません。それだけに、都に川を求める気持ちが大きかったのでしょう。
潤した後、流れ出て、四本に分かれます。ハビラは、アラビヤ半島の一地域、ピションは、「跳ね出るもの」の意味であるが、実際の川の名はわからない。ラピス・ラズリはは、エジプトなどでよく用いられる宝玉、青い色が美しい。日本にも入ってきて、顔料としても利用されていた。第二の川、ギホンは、クシュの地を流れる。クシュの地は、現在のエチオピヤ、エジプトの南方ヌビヤ地方を指すので、ナイル川が想定されているのだろう。
チグリス、ユーフラテスは今日に至るまで同じである。これらの地名を確認できることは決してないだろう。川の源流が黒海方面とアフリカ内陸部に分かれてしまうのだから。
さあらに、多くの民族が、自分たちの故郷こそこのエデンであると主張している。有名なところでは、黒海の南に広がる高原地帯。シリア南方のベッカー高原。ここは、現在戦場となったり、難民キャンプとなったりしているが、昔は中東で最も美しい渓谷であった、と言われる。
神が備えたものによって、人は豊かに、過不足なく生きることが出来たのです。
たいした人間ではないのに、穢れた人間なのに、神の息によって生かされ、生きている。
備えられたものによって生かされている。
第二の創造物語は、人は神によって生かされて、生きるよう、すべてが備えられていることを主張しています。その背景、もうひとつの時代の信仰告白であることについては次回、お話しましょう。
欄外
・神Yahaweh は、古代イスラエルの神名。伝統的には「主」と訳される。
・伝統的に「耕す」と訳されてきた動詞アーバートは、「仕える」「働く」が原意。
・大地の支配者(1:16)は、同時に大地に仕える存在でもある。
・「大地」はアダマー、「人」はアダム。「塵」は水分を含めば粘土になる細粒子。
・「命の息」、生命の息吹。動物にもある。息は、ルーアッハ。風、息、霊などに訳される。
東について
判らないのは東洋と西洋です。中学生の時、疑問に感じましたが、判りませんでした。日本からは、アメリカもヨーロッパも東と言えるじゃないか、という事です。曖昧な基準ではなく、はっきりと地名で呼ぶべきだ、と感じました。
西洋は文明国で、東洋は遅れた文明しかない国や民族、という考えは間違っています。ヨーロッパ・アメリカが世界の基準ではありません。さまざまな文化、文明があり、それぞれの価値を認めるべきです。
人は東から
最近の学問研究は、これとは反対のことを考えています。人類の先祖は、アフリカ大陸の中央部で木から降り、直立二足歩行を始め、ほぼ一万年かけてメソポタミアを通りインド、中国、アメリカ、そして南米の先端に至った。その途中で残るもの、更に南や北へと移動するものなどがいた、と考えています。そのことは、民族に残る伝承や、考古学の調査によって裏付けられようとしています。方角のことはそれほど重要視する必要はないでしょう。