創世記の第二回目になります。前回少し話しかけたことがあります。それは、言葉による創造ということです。
日本は言霊の国と自認しています。然し聖書の言葉とは、だいぶ様相が違っているように感じます。わが国では、人が自らの言葉に真実を与える。それに対して、聖書では、言葉自身が力を持っている。言葉が発せられるとその通りになります。
それは、神は約束をたがえることはない、ということに結びつきます。
バビロン捕囚の時代、預言者などが神の言葉を告げました。「やがてイスラエルは、その故郷へ帰ることが出来るようになるだろう」、と告げました。隆盛を誇る、強大なバビロニアが、イスラエルを帰らせることなど起こりそうにない、と思えます。然し、その時に、神の言葉は必ずそのとおりになる、と告げたのです。不安と絶望のうちに沈みそうになる人々にとって、大きな望みを与えるものでした。
それに続くのは、光の創造です。仮にこれを始めの光と呼びましょう。
この始めの光は、何でしょうか。太陽ではありません。
私たちの中に潜む太陽崇拝の傾向は、拭い難いものがあります。
此処での光は電磁的なもの(内村)、オーロラの光と同じであると指摘しています。
14節以下に、昼を治める光と夜を治めるより小さな光を創られたことが記されます。これは、明らかに太陽と月を指しています。従って、始めの光は、それ以外の光、ということになります。
これらは、その一つ一つを調べていると、いつの間にか、実際にその通りに世界が作られたかのように思い込んでしまいます。全体として、イスラエルの信仰告白に耳を傾けるようにした方が良いでしょう。そうするとここでは、自然界の秩序、異国に連行されていても変わりはないことを確認している、ということに気付くでしょう。
唐の時代の詩人、杜甫の「春望」を思い起こす人も居られるでしょう。
次におかしなことがありますので、お話しましょう。5節、8節、13節、19節、その他に「夕べがあり、朝があった。第一の日である」とあります。夕となり朝となった。
イスラエルの一日の数え方は、日没から日没までです。夕となり夕となる。何故朝なのでしょうか。イスラエルは、今、夕べの状態です。闇に突入してしまいました。人々は光を失いました。然し、そのままではいません。闇の先には、光が回復される朝が来るのです。
闇は必ず終わりのときを迎える。なんと望みに満ちた言葉でしょうか。朝になれば、哀歌の言葉を、私たちは思い出すことが出来るでしょう。「われらのなお滅びざるはエホバの慈しみにより、その憐れみの尽きざるによるなり。こは朝ごとに新たなり」。3:22,23.
21節には面白いことが記されます。「大きな怪物、うごめく生き物を・・創造された」。
わたしたちの知らない、滅びた生き物がたくさんあるようです。それらの多くは、人間から見ると役に立たない、恐怖を引き起こす類のものであったかもしれません。滅亡を喜ぶのです。積極的に退治しよう、とするのです。然し、それも神の創られたものです。
人間社会でも同じことが起こってはいないでしょうか。『エレファントマン』と言う映画がありました。私は見ていませんが、怪物扱いされる人の悲劇を描いたもののようです。
これは特別なことなのでしょうか。多くの人と同じでない、と言う理由でどれほど多くの人が、怪物扱いされてきたか。あるいは、肌の色、言語、生活習慣。被造物なのです。
捕囚のイスラエルは、バビロニア人からすれば、汚らしいうごめく生き物に過ぎなかったでしょう。それもまた、神の創造するものと宣言しているようです。
人は神に似せて創られました。とすると、どこかに神様のソックリさんがいるのだろうか。
五百羅漢、林竹次郎が書いた五百羅漢が小樽にあります。林文雄の父。
鶯谷駅から国立博物館へ行く道に五百羅漢。
小川町の陣屋台、昔天領の時代、代官の陣屋があった所。今は二面のテニスコートが小山の中、森の木立の中にある。その傍らに小さなお宮があり、これまた小さな羅漢像の列がある。盗まれたり壊されたりしているだろう。20体ぐらい。
自分に似た像を探し出すことが出来る、と言われる。
さて私たちは誰と似ているか?
ゴリラや、チンパに似ていると言われて嬉しいだろうか?
捕囚のイスラエル人は、人間以下の扱いを受けることもあったかもしれない。
明治以来の日本は、脱亜入欧、西洋列強に追いつけ追い越せ、富国強兵、などをスローガンに国造りに励んだ。役に立たないものは邪魔者であり、人目に付くときは国辱物、非国民とされました。このようにして、ハンセン病者はまるで怪物であるかのように恐れられ、目に付かないところに強制隔離され、押し込められました。「人間として認めてくれ、それだけでいいのだ」、と言う悲痛な叫びがあがったこともあります。
現代社会でも、同じようなことが起きている。
小さいころから、子どもの自信を失わせるような言葉が乱れ飛ぶ。何しているの、そんなことが出来ないの、そんなことジャーあの子に負けるわよ、もっと頑張れ、早く。
自信喪失、自己嫌悪の塊になり、友達も出来ない。
ペットの犬や猫には優しい声、言葉をかけるのに、子どもはそれ以下の存在なのか。
そして高齢者、何も出来ないのか。出来なくしてはいないか。
それだけではありません、出来ないからこそ助け合っていくのではないでしょうか。出来るあなたの力が求められ、必要とされるのだから、喜び、感謝しても良いのでは?
助けることが出来る力があるとき、私たちは感謝することが許されています。
人間の生命の尊厳は、ただ掛け声だけでは、すぐに地が出てきます。
根底に、神への恐れが必要なのです。
そうした中で、人間は神に似せて創られた、と言うこのメッセージは素晴らしい響きを持っています。私って、神様に似ている。本当かな?
何が出来ても出来なくても、そのままで神様の作品です。神様に似せて創られているのです。その上、神様に代わって、この地上を治めるようにされているのです。
敗戦国の人間が、戦勝国で過酷な扱いを受けている今、神に似ている、と言われ、神の代理に統治しなさい、と言われたのです。全く破天荒なことです。信じがたい出来事が現れました。
最後に、神の像に似ている、とはどういうことか考えましょう。外側の形ではありません。内面の形、本質を指して言っているのです。そうでないと、どこかによぼよぼの、長い髭のお爺さんがいることになります。神は創造に当たりご自身の本質を顕されました。
愛と自由です。人のうちにもこれを与えられたのです。私たちは、自由であるために失敗もします。逃げ出したくもなります。憎むこともあり、悲しませることもあります。自由であり続けることは、困難を伴います。E.フロムは、「自由からの逃走」を書きました。
勇気をもって、愛と自由な人間になって行こうではありませんか。
欄外
「春望」 杜甫
国敗れて山河あり 城春にして草木深し
時に感じては 花にも涙を潅ぎ
別れを恨みては 鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり 家書萬金にあたる
白頭掻けば更に短く すべて簪に勝えざらんと欲す
10人兄弟で育った。地元大塚の駅前商店街、元は天祖神社の門前町。
この顔は名刺代わり。信用があった。持田兄弟とすぐわかる。似ている。
「われわれに似せて人を創ろう」26節。神が複数形で表現されている。資料が修正されないまま記載されたもの。この場合、尊厳の複数、として考えるべきだろう。