今朝からしばらく、創世記をご一緒に読んでゆきます。
全50章、かなりの量です。終わりまで読み続けようとすると、皆さんの側で疲れてしまうかもしれません。1年ぐらいで中休みを入れるかもしれません。
今、何故、創世記なのか? いくつかのことを考えておきたい。
礼拝とは何か、キリスト・イエスの甦りを記念すること。これが御言葉です。その故に、応答としての讃美・告白が重視されることになります。
説教とは何か、甦りの証言である。新約聖書、とりわけ福音書が重視される理由なのです。
それでは聖書の他の部分はどのような意味を持つのでしょうか。
新約各書は、最初の出来事と、その目撃証言とそしてその解釈が記されます。
旧約各書は、歴史における神の働きかけを証言し、その解釈を示すものと言えます。
教会は、絶えずこれら各書をバランスよく読み、学び、福音に触れる必要があります。
レフ・トルストイは、「山上の教えだけ残れば、他の聖書すべてが失われても差し支えない」と語ったそうです。彼は「戦争と平和」などで知られるロシアの文豪、その思想は人道主義、ヒューマニズムだから、それでよいのです。赦しの恵みを信じ、伝える福音信仰とは違うのです。
そこで私はこのようにしてきました。常に教会の集会のどこかで福音書、書簡、旧約聖書が読まれるようにする。各会の集会は、皆さんが主体的に選ばれるのです。そこで、少なくとも私が責任を担う部分では、バランスを考えるようにします。
礼拝は創世記、聖書研究会はエフェソの信徒への手紙、夕礼拝ではマルコ福音書。
旧約の中から何故創世記なのか?
面白いから、皆さんも興味をお持ちのようだから。あまり読まれること、語られることがないから、などの理由を挙げることが出来ましょう。その中の現代的なものに着目するからです。
もう一つ大きな理由があります。長大な書を読み続けるには、体力、気力、知力を集中させねばなりません。私たちすべてが、それに耐えうるのは今を措いてない、と思います。
説教の長さも問題になります。長くてつまらないから何とかしろ、面白いけれど長くて疲れるから礼拝に出られない、いろいろなご意見、感想がおありでしょう。お聞かせください。説教は、説教者と会衆の共同作業で生み出されるものです。共有物です。ご一緒に。
創世記の原題は、ベレーシース(・バーラー)。英訳でイン ザ ビギニング。
それは、何の初めなのでしょうか? 全聖書66巻の初め。地球の初め、歴史の初め、時間の始まりでもあるでしょう。イスラエル民族の初め、と考えた時代もあります。
内村鑑三は、元来、アメリカで農業科学を学んだ人。彼の聖書研究は面白い。
あの時代にあって全巻にわたって注解を書く姿勢。その中でもこの部分について、日本の創造神話と対比させて書いている。壮大さ、華麗なること、しかも知性的であることを高く評価しています。万物の始め、そして神による救済の始めであると記します。
多くの人が、創造物語を読む時、大きな疑問にぶつかり、放り出したくなります。
「誰がこれを見ていたのだろうか」、真面目な顔してこんなもの読めるかい。
これは、天地創造物語を、甦りの証言と同じように考えているからです。結論的に、大胆に申し上げます。創世記は、大きな問題を抱えた民族が、その危機的状況の中で民族の一致を保持するために打ち出した信仰告白です。
今、此処に奴隷になってしまった一群の人々が居る、と考えてください。
彼らは戦争に負けたので、その国が二度と戦争を仕掛けられないように捕虜となり連れて来られた指導者たちです。政治、行政、軍事、産業、宗教、技術、さまざまな分野の指導者です。誇り高き人々です。
このような人達の心の中には、いったい何があるでしょうか。ある人達は、負けじ魂を発揮するでしょう。復讐心の塊になっている人もいるでしょう。あるいは現実に目覚めるべきだと言い、現状を受け入れ信仰的にも現地と一体化しようと考える人もいるでしょう。
多くの人々は、何故自分たちがこのような状態になったのか考えました。悩みました。
信仰を持っていたからです。「どうして神様は救ってくださらなかったのだ」。
「一体我々には、この世界に存在する意味などあるのだろうか」。
これの人々の心は、暗澹たるもの、将に光を失い、混沌たる状況でした。故郷を失い、家族からも引き離されどうなったか判らない。これから何十年この状況が続くのだろうか。
恐らく永遠にこのままかも知れない。
紀元前587年頃からイスラエルの人々は、ちょうどこのような状態でした。
東の大国バビロニアと戦い、敗れて捕虜となり、奴隷とされていたと言います。いわゆるバビロニア捕囚です。地理上は、現在のシリヤからイラク、そしてイランにまで勢力を伸ばし、南のエジプトを狙っていました。その途中で邪魔をしたのがイスラエルでした。エジプトと組んで果敢に戦いを挑み、一蹴されます。多くの者が捕虜となりバビロンへ連れて行かれました。このことの意味を考えようとするのが申命記資料と呼ばれるものです。
創世記第一章は、混乱と悲しみ、嘆きの中にあり、ばらばらになりそうな人々を纏め上げ、希望を持たせようとしています。
具体的には、祭司階級の人々が考えたようです。
口から口へと伝えられてきたさまざまな物語(口頭伝承)の中に、この状況に対して語りかけるものはないだろうか、希望を与え、慰めるものはないだろうか、と探した結果、この1章の創造物語を見出しました。これを「祭司資料」と呼びます。
捕囚時代のイスラエルは、混沌たる闇に包まれていました。この心の闇の状況を創世記の冒頭に反映させた言葉がカオス、混沌なのです。現代にも通じる言葉です。
然し、その混沌もすっかり、神の息、霊によって包まれていると書き記すことが出来ました。水の面を覆っていた。あるいは、動いていた、と訳されていますが、本来は抱擁する意味とされます。混沌たる状態、然しそのまま神の息が包み込み、守ってくださっているのだ。これは捕囚の民にとって、素晴らしいメッセージだと思いませんか。
この世界を考えるとき、普通は、私の世界、私は、といった形。主語は何時でも「私」なのです。ところがイスラエルは違いました。「神が、神は」と語り、「私を」と語るのです。この窮境の中では、もはや自己主張は出来なくなったのです。ここに信仰告白の性格が良く出ています。神が主であり、私が従であるような生き方、関係こそ信仰なのです。
創世記は、その最初から信仰とはいかなるものであるかを明示するのです。
既に、この冒頭の一語に、イスラエルの全歴史を貫くものが現れています。それこそ、直線状の歴史観です。この世界のすべての事に「初め」がある。従って「終わり」もある。
聖書も、初めがあり終わりに黙示録が置かれ、相呼応するようになっています。
現代の私たちにも同じように語りかけています。
始めがあるのだから、必ず終わりがある、と。此処に恵みがあります。
更に「光あれ」こうして光があった。闇の中にある人々が、光を見ることが出来ると告げられているのです。わたしたちは、光のない闇がどのようなものか忘れてしまっているかもしれません。次々と電灯を、蛍光灯や白熱灯を増やしています。24時間中、光が同じように輝いています。
そればかりではありません。何らかの事情で光を受けることが出来なくなってしまった出来なくなってしまった人々のことも忘れて、物を言っていることが多いのです。
「光があれ」。捕囚の人々は、確かに慰めと望みを持ちました。
今私たちも、この希望を分かち合い、共に歩みましょう。
欄外
新共同訳の言葉 (詩篇5編)で、おごる人々を誇る人、と訳していますが、如何でしょうか。おごり高ぶると言うのは、傲慢と言うことであり、誇り高いこととは違います。
「元始に神、天地を創造りたまえり」。『何の始めであるか。もちろん神の元始めではない。神は無窮であって、始めもなめれば終わりもない。ゆえに始めといえば、いうまでもなく天と地との元始である。すなわち万有の元始である。この無窮なるがごとくに見ゆる宇宙万物、これに元始があったのである』。1919年1月、聖書乃研究
「太初に神、天地を造りたまえり」。『聖書は人類救済の書である。・・・ゆえに「太初」とは万物の対処を言うのではない。人類救済の太初である。神の聖業に、すべて始めがあり、また終わりがある』。1914年2月、聖書乃研究
これは内村の考えが時代によって変化した、というのが一つ。もう一つは、すべてのことを一回に書いてしまうことは困難である、とも考えます。
内村は、万物の始まり、そして救いの初め、と考えたのです。
一般に五書の中に、四組の資料、伝承が識別される。これらは異なる時代に著作され、次第に収集されて一つの書物となった。
ヤハウィスト(前900年頃)の伝承が最初のものとみなされ、次にエロヒスト(前750年頃)、申命記派記述者(前600年頃)、祭司文書(バビロン捕囚記からその直後)と続いた。
バビロン捕囚は、587−586年。神の審判と考えられ、申命記派歴史書はその意味を説明することを主要な目的とする。
70年ほど前、来日したアインシュタイン博士は、日本独自の文化や民族性(謙譲、節制など)に注目し、それらを近代化の名の下に棄てることなきよう、また失うことのない様に忠告して帰られたとのことです。残念なことに、ナチ・ドイツへの対抗のため原爆開発を大統領に進言することになり、日本は被害を受けました。晩年は原爆反対、平和運動に尽力されました。
聖書の天地創造神話、世界の初めの始まり。文語訳は、今でも高い評価を得ていますが、読む側の力が追いつきません。簡単に捨ててはならないと思います。文字を、文学を捨てるとき、民族の自己同一性(アイデンティティー)を捨てることになってしまうからです。
4月16日、朝日朝刊、京都の教会、牧師の問題。宗教の密室性について書かれていた。どの宗教でも密室は必然である。心の闇という「密室」を扱うのが宗教だから。