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2010年4月25日

《キリストの掟》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ13:31〜35

復活節第4主日、労働聖日(働く人の日)

  讃美歌  88,369,354、交読文21(詩91篇)
  聖書日課 レビ19:9〜18、?ヨハネ4:13〜21、ヨハネ13:31〜35、詩編34:2〜8、

 4月下旬になってもまだ、寒さを感じる日があります。暖冬傾向の中でもこうしたことがあるのだ、などと妙な納得の仕方をしています。納得させているのかもしれません。
それでも確実に、季節は新緑の時へと移っています。桜から皐月へと変わりました。

 4月23日金曜日、午前中だったでしょうか、消防車が走る音。きっと遠くまで出動だろう、と思っていました。2時過ぎ、郵便局へ行くため、出かけました。岸玉駅の手前で、左側に消防の多目的車が駐まっているのに気付きました。自転車の速度を緩めて、ゆっくり進むと、なんと山中眼科です。レンガ風の外観に異状は見えません。それでも、開いている窓や噴出し口は黒くなっています。出入り口やガラスの破れた窓からは、建物の内部が燃えた跡の状態に見えました。天井・屋根もなく、空が見えます。

 地震、雷、火事、親父、これは恐ろしいものの代表です。
強盗がどれほど恐ろしいといっても、持てるだけのものだ、持って行かせろ、と留守番をするときに聞かされました。「それくらい、働いて取り返せる。火事は、何もかも持って行ってしまう。これが怖い。火元に気をつけなさい」。教えられたものです。
 山中眼科の東隣に、最近開店した飲食店があります。客がつき始めたようでした。お気の毒に、暫くお休みします、と張り紙していました。サービスランチの時間だったでしょう。開業費用の回収も出来ない時期の火事騒ぎ、大損害に違いありません。

 周辺の人出はいつもと変わりなく、足を止める人もないようでした。
一階から出火、火の回りが速く、二階も燃えてしまった、という事だろうかと推測しました。 冬のような寒さでした。暖房器具からの出火かもしれません。消火器具も備えていたはずです。いざ、という時の役に立たせるには、普段の訓練が必要です。私たちも、日常生活の中で、変わる条件に従って正しい備えをして行きましょう。

 消火器の投げ込み事件が、また連続しています。平日にも広げられて来ました。
用心もしにくいことです。犯行現場は、これまで一度も目撃されていません。当初は、恨みや憎しみから始まったとしても、今では愉快犯並みになり、楽しみとなり、やめられない感覚になっているのではないでしょうか。依存症です。襲われたら、またみんなで掃除をしましょう。

 本日は、《キリストの掟》という主題の下、ヨハネ13:31〜35をお読みいただきました。
 暫くの時間、ご一緒に学ばせていただきます。
このところは、主イエスが弟子たちと共に、最後に過越しの食事をされる場面です。
過越しの食事は、すべてのユダヤ人が一年に一度、定められた時に守ることです。主イエスも、30数回、守ってこられています。「御自分の時」を知るイエスは、今回が最後のときである、とご存知です。

 それはマルコ14:12〜21、マタイ26:17〜25、ルカ22:7〜23、が記すことです。
ヨハネは「過越しの前のことである」と書いています。どれほど前であったかも分かりません。聖書学者も、これはお手上げ、と言います。多くは、三福音書にならって、最後の晩餐、過越しの食事、と考えているようです。そしてヨハネの記述も、前の晩とするようです。

 それにしても何故、ヨハネは、過越しの「前に」食事の席を整えたように書いたのでしょうか。共観福音書は、イエスご自身が過越しの子羊であることを示そうとした、と考えられています。するとヨハネは、そうではない、と主張しているのでしょうか。私にとって、ヨハネこそ、子羊イエスを主張しているように感じられます。
すると、どの様に考えれば良いのでしょうか。

 ここでは1節と2節を分けて読むようにしたらどうでしょうか。
 1節は、13章全体の導入であって、概説になります。イエスが時を知り、弟子たちを極限まで愛し抜かれたことを語ります。その内容を次節で語ります。

 2節から、食事の席のことになります。概説を具体的に書き記し、説明して行きます。
ここで一番の出来事は、洗足です。師匠であるイエスが、腰にタオルを巻き、弟子たちの足を洗いました。この時代、道路事情はよくありません。すべてが舗装されているわけではありません。でこぼこがあり、ゴミがあり、水がたまっていたりもします。そうしたところを歩いています。随分汚い足のはずです。履物はサンダルです。足をソックリ包むようなものではありません。映画『ベン・ハー』で知られ、当時の流行になった「ベン・ハー サンダル」です。客人を迎えるときは、必ずその足を洗うものでした。豊かな家では、そのために専門の奴隷を置くほどです。また家の入り口には水がめが用意されていました。どう見ても主イエスの仕事ではありません。

 ヨハネは、12:3で、ラザロとその姉妹マルタとマリアのことを伝えています。過越しの六日前、とはっきり書いています。(マルコ14章、とは違います。)食事の席に着いておられるイエスのもとに、一人の女が近づきます。
非常に高価なナルドの香油を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。」
本来、その家の主人が、大切な客人のためにすることです。

 シモン・ペトロが言っている事は、当然のことです。彼は言いました。
「決してわたしの足を洗わないで下さい」。
別段、謙遜な思いで言うことでもありません。むしろ恥ずべきことのように感じます。

 イエスの愛は、弟子に対しても、仕える者になることとして示されました。
単に、足を清浄にするためではなく、愛の掟を具体的に示すために、足を洗われました。
ですから、正しく聞こえるペトロの言い分も退けられます。
「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる。」
主イエスは、徹底的に仕えることを示されます。

 この仕える事こそ、イエスにおいて神の栄光が顕されることです。ある人は書きました。
「栄光は、神が御自身を顕す啓示のことである。言葉が肉体となる出来事である。」
ヨハネは手紙も書いた、と信じられています。その一、3:16以下にこのような言葉があります。新共同訳444ページです。ご覧下さい。
 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも、兄弟のために命を捨てるべきです。・・・」
 18節「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」
 行いと真実をもって愛し合おうではないか。

 私たちの愛は、どうしても自己保存的・自己防衛的に働くものです。
ヨハネは、主イエスを仰ぎ見つつ、わたしたちの自己中心性を打ち破ろう、と訴えかけます。金持ちの議員」が、永遠の命を受け継ぐために何をしたら良いか、イエスに質問した話がルカ18:18以下にあります。ご承知の通りです。
 「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」

 売り払い、分け与える事は、イエスに従うことの前段階のことです。
ここで私たちの自己防衛意識が働いています。無一物になってしまったら、生活が成り立たない。それはみ旨ではありません。自分の生活は確立、確保して、イエスに従いましょう。イエス様にご迷惑をおかけしてはなりません。これは一理あります。自分で出来ることもしないでおいて、神様救ってください、お与え下さい、というのは怠惰、横着、無作法というよりほかありません。自分のなすべきことをなし終えてから、主なる神にお委ねするべきです。信仰を、怠惰の言い訳にしてはなりません。

 この自己中心的な愛について、私は無関係だ、などというつもりはありません。
よく物乞いがやってきます。彼は物乞いとは認めないでしょう。働かせて欲しいのに、それがないから貰うだけのこと、というでしょう。教会の伝える福音は、貧窮からの救いではありません。これを盾に断ることが出来ます。しかし、自分が暖かいところにいて、食べることが出来るのに、断ることが正しいだろうか、とわたしは悩みます。くだらない、かも知れません。もっと大きなことを悩みなさい、教会員のことを考えていればよろしいのです、と言われるかもしれません。そうしても自己中心、自己防衛であることに悩みます。

 自分で自分の生活は守らねばなりません。そのとき私たちは、良い模範を求め、考え、決断すべきです。例えば、カーネギーという人がいます。岡山の石井十次もその一人です。

 よく知りません。聞くところによれば、アメリカの百貨店王、熱心なクリスチャン。合衆国政府から、政府の要職につくよう招かれたが、日曜学校の仕事を選び取ったそうです。また、全収入の十分の一で生活し、その他はすべて捧げた、と。その献げ物は、日本のYMCA同盟の建築事業にも用いられた、と聞きました。神田美土代町にあった立派なビルです。

 石井十次は岡山で孤児院を始めました。子供たちの食事にも苦労したようです。必要が満たされるように祈る毎日であった、と言います。支援者たちが現れ、さまざまな形で協力しました。教会員の木下良子さんは、その支援者であった薬屋さんのお孫さんになります。お話を伺いたい、と願っています。

 自分を守る必要はあります。法的には、過剰防衛という考えがあります。自分を守る行動は認められます。正当防衛です。それを越えて、過剰なものは認められません。
ルカ12:13以下の『愚かな金持ち』の譬は、将に過剰防衛に相当します。

 正当な範囲で分け与えているなら、その後の事はお任せできるのです。
それが、『それからわたしに従え』という言葉です。
伝道、牧会、社会事業に献身した者は、多くこの覚悟があり、信じて委ねているものです。
掟を守ることで永遠の命に与るのではありません。神の豊かな愛によって救われ、永遠の命に与らせていただいているから、この愛を生きましょう、というのが、クリスティアンの行き方・生き方になるのです。

感謝して祈りましょう。