集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2010年4月11日

《復活節第二主日、》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ20:19〜31

  復活節第二主日、
  讃美歌16,151,502、交読文20(詩90篇)
  聖書日課 民数記13:1〜2、17〜33、?コリント4:7〜18、ヨハネ20:19〜31、
       詩篇145:1〜13、

 復活の朝の出来事を読み、主イエスの甦りを喜び、私たちの新しい命を仰ぎ望むのが、私たちのイースターです。これは、前主日の礼拝で済んだ、という感じをお持ちだろうと存じます。
ところが、本日の聖書と主題は、またまた復活です。
 復活は、一時点の出来事ではなく、ある期間にわたって起こった出来事の総体を指しています。週の初めの朝早く、空虚な、空っぽの墓を見出したことに始まり、その後 弟子たちに、そして最後に、月足らずに生まれたようなサウロ・パウロに顕れました。
 この一連の出来事が、《復活顕現》という言葉で表現されています。

これは、パウロが?コリント15章に書いているとおりです。3〜8節
「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生れたような私にも現れました。」

 ここに記されたことどもは、キリスト復活に関する最古の証言である、と聖書学では認められています。

 最初の復活証言は婦人たちによってなされました。それは、生ける主イエスとの出会いではなく、空の墓とそこにいた み使いの言葉の伝達でした。
 このことを聞いた弟子のうちのある者たちは、墓に急ぎました。
 そしてペトロは、亜麻布を見出しました(ルカ24:12)。興味深い復活顕現を、幾つか書き残すのは、ルカです。多くの婦人たちが墓へ行ったこと、エマオにおける二人の弟子への顕現、その報告とその家での顕現、ここでは主が魚を食します。更に聖書を語り、宣教を命じられます。最後は昇天となります。

 これらはすべて《復活顕現》になります。本日のヨハネ福音書は、そのうち、空の墓が報告された日の夕刻の出来事から始めます。
「春分の日の後の、最初の満月の日の後の、最初の日曜日」。その夕刻のことです。
 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」、自分たちがいる家の戸をしめ、鍵をかけていました。
弟子たちにとって、イエスを襲った悲運は、自分たちをも襲い得るものであることが、良く分かっていたのです。むしろ、何故あの時自分たちも捕らえられなかったのか分からず、いかにも幸運であった、と感じていたことでしょう。次は自分たちを襲い、捕らえ、殺すのではないか、と恐れていました。弟子たちは、イエスが、王国の主であると信じていました。支配が確立するときには、王の右左に座を占めることを願っていたほどです。間違いなくイエスの仲間であることを自覚しています。

ローマ総督ピラトは、イエスの十字架の捨て札に「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かせました。弟子たちは、ローマ皇帝(その代理が総督ピラト)とヘロデ王に対する反逆者として殺されてもおかしくはありません。恐れて、閉じこもって、当たり前です。
鍵をかけ、誰もこの家の中に入ることが出来ないようにしました。
突然、主イエスがその姿を顕しました。そして言います。「平和があるように」。
ユダヤの挨拶の言葉です。シャロームの意味です。
同じ言葉ですが、この場合、もっと深い意味があるだろう、と考えて訳したようです。
ユダヤ人とその殺意に恐怖と不安を抱いている弟子たちを、平和と讃美へと導こうとされたのです。閉鎖空間と暗黒の中にいる弟子たちに、明るい光と平安を与えようとされました。み言葉の力が、それを可能にし、実現します。

 人間の社会で、不安と恐れに満ちている人々に対し、主はご自身の側から、その閉ざされた心の中に入ってきてくださいます。私たちは、主であることに気付かないでいます。
心を鎮めて、神を見出すことが出来ます(詩篇46:10)。

 21節以下になると、主イエスは、もう一度「平和があるように」と言われます。繰り返すほど、大事な言葉なのです。平和は、何もしないで閉じこもっていることでは達成されません。平和を達成するために主は、弟子たちを派遣されます。罪の赦しのために遣わされます。そうであれば、罪の世界へ派遣されることになります。
 罪の世界を逃れて、安全な家の中に閉じこもろうとする私たちを、主はもう一度、元の罪の世界へ派遣されるのです。現代の私たちも同じです。安全な教会へ閉じこもろうとする私たち、礼拝が終わると、元の世界へと派遣されるのです。

 日本キリスト教団は、近年、口語式文を改定、新しい式文を作ろうとしてきました。
現在『式文、試用版』が出来上がり、提供されています。その礼拝次第には、祝祷の後に、牧師の派遣の言葉があります。
『平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。』そして?コリント13:13の祝祷です。

「平和のうちに」と言うことには疑問があるかもしれません。しかし、閉ざされた家の中でイエスの言葉を聞いた弟子たち同様、今礼拝で、この「平和があるように」、というメッセージを聴いた会衆は、将に平和のうちに、と言うことが出来るのです。

 24節からは、『疑い深いトマス』の名で知られています。
いつも間の悪い人ではなかろうか、と感じています。私たちの間でも良くみられることです。大事な時、居なくてはならない時に居たためしがない、などと言われる人がいます。
決して排除されてはいないし、嫌われてもいないのに、遠慮がちで、どうも間が悪い。タイミングが合わない。自分のことを言っているような感じになってしまいます。

 主イエスがおいでになられた時に、トマスも居ませんでした。みんなが閉じこもっていたのに、彼だけは、外へ出て行きました。事情は分かりません。一人、祈りに出た、とも言われます。勇気がある事は確かです。
ラザロが病気で死にそうだ、という知らせを聞いた時、このトマスは、言いました(11:16)私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか、と。勇気はありました。
イエスを見た弟子たちが、そのときの様子を語ります。見る、という事は、「逢う、出会い」をも意味しています。それを聞いてトマスは、言います。
「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。甦りの主イエスと出会っていないトマスの言葉です。

 この時から八日の後、同じ場で新しいことが起こります。日の数え方は、イスラエルではその当日からはじめますので、八日目は同じ曜日になります。4日から始まる八日目は11日です。
週の初めの日、主が「平和があるように」、と言われたにも拘らず、弟子の群れはいまだに、戸を閉じて、鍵をかけ、閉じこもりです。
こうしたこと、変化には時間がかかることを教えられます。焦ってはなりません。

 イエスが、家の中に現れ、「平和があるように」と言われます。今回は、あのディディモと呼ばれるトマスも一緒です。そこでトマスに言われます。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 ここでは足の釘跡が示されていません。足は、ゆるく縄で縛られていたためでしょう。
手と脇の傷痕が示され、触れるように招かれます。ここでトマスは翻然悟ります。
『まことに主イエスは甦られた。今も生きておられる』と。
触れることなく、指を入れることなく、言葉を信じました。イエスを信じました。
見ることは、信じることとは別のことです。
 手を、指を差し入れなくては信じない、と言っていた実証主義者が、主イエスの言葉を信頼したことが、この信仰を引き出しました。出会いの成立です。
 甦り以前の状況は、主イエスが墓の中におられる時のものです。暗く、寒く、寂しく、悲しいときです。一緒に居るのに、みんなが独りぼっちになり、恐怖と不安の中にいました。そうした人たちの只中に主イエスは立たれます。そして温まりと光と喜びを与えてくださるのです。

 昨年、ビートルズの《太陽が昇る》と言う曲を知りました。
『雲の向こうには、いつも太陽が輝いている』と言う諺を思い出しました。
ビートルズは、太陽に主イエスの復活を見ていたかもしれません。ご紹介しましょう。

 《太陽が昇る》ビートルズ ナンバー
  Here comes the sun,here comes the sun,
 ほら太陽が昇る ほら太陽が昇る、
 そして僕は言う もう大丈夫

 愛しい君よ 長くて寒い 寂しい冬だった
 愛しい君よ 何年も続いたような気がするよ
 ほら太陽が昇る ほら太陽が昇る
 そして僕は言う もう大丈夫

 愛しい君よ みんなの顔に微笑が戻ってきた
 愛しい君よ 何年かぶりみたいな気がするよ
 ほら太陽が昇る ほら太陽が昇る
 そして僕は言う もう大丈夫

 太陽が、太陽が、太陽が ほら昇る
 太陽が、太陽が、太陽が、ほら昇る
 太陽が、太陽が、太陽が、ほら昇る
 太陽が、太陽が、太陽が、ほら昇る

 愛しい君よ 氷がゆっくり解けて行くのを感じる
 愛しい君よ 晴れたのは何年かぶりみたいな気がするよ

嘆き悲しむ人々が、大丈夫な状況になりますよう、命を受けるために、この書は書かれました。感謝して、祈りましょう