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2010年3月21日

《十字架の勝利》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ10:32〜45

  復活前第2・四旬節・受難節第5主日、
  交読文19(詩篇84篇) 讃美歌25,125,348、
  聖書日課 哀歌3:18〜33、ローマ5:1〜11、マルコ10:32〜45、詩篇22:25〜32、

 最近、と言うか昨夏以来、とかく出億劫、出不精になっていました。木曜の午後、教会の一角をひと回りしてみました。驚くほどの春色です。沈丁花、コブシ、木蓮、梅、桜などに、花を見ることが出来ました。教会の中にも春は来ています。君子蘭、春蘭、シンビジューム、フリージャなどの蕾が大きくなっています。皐月や桜の花芽も大きくなりました。春を感じます。杉の花粉は山を越し、次のヒノキ花粉が始まった、と聞きます。
 でも、この外にはもっと豊かな春が見えました。

 私の高校はすでに廃校になりました。その教室の窓から見ると、校庭があり、谷合の向こうに山林が広がります。その中に白いコブシが咲き、近くに山桜が咲いていました。緑の中の白やピンクの花は、とても綺麗でした。若い高校生の眼を楽しませてくれたものです。授業中でも見ていたのでしょう。入学式は、強い風の日でしたが、校庭の桜が一斉に花を散らしており、花吹雪だったことを久し振りに思い出しました。これも昨日午後からの強風のおかげです。
昨日の暖気と雨のおかげでしょうか、庭の桜は一気に蕾を大きくし、二輪だけですが開花しました。多分午後にはもっと咲くでしょう。少し期待しながら、早過ぎる、と感じています。

 本日の主題は《十字架の勝利》となっています。聖書は、先ほどお読みいただきましたとおり、マルコ福音書10:32〜45です。ここでは三度目の受難の予告に続いて、ゼベダイの子等、ヤコブとヨハネの願いが語られます。

 《十字架の勝利》という主題は、教会の中では、当然のこととして受け取られましょう。
しかし良く考えると、決して当たり前のこと、当然のことではないはずです。十字架は罪人を処刑する方法です。時間をかけ、苦しめて殺す、残忍なものです。十字架は、さまざまな側面を持ちながらも、敗北、挫折、失敗の徴です。私たち一般の人間は、主題のように勝利とは考えられません。にも拘らず、それを勝利であると言うのは何故でしょうか、それが本日の課題となります。

 受難と復活の予告は、8:31が最初です。主は弟子たちに教えられます。これはペトロを叱責することに繋がり、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という言葉になります。そして変貌山の出来事となりました。

 次は、9:30以下で、ガリラヤを通って行くとき話されます。弟子たちはこれを聞き、分からなかったが質問することができないほど怖く感じられた、とあります。これに続いて、12人の者たちの間で『誰が一番偉いか』という論議が交わされたことが記されます。

 今回の予告には、前二回を受けて、弟子たちの様子が変わってきていることが記されます。イエスは一行の先頭に立って進み、エルサレムに向かわれます。これまでは、先生を出氏たちが包むようにして、問答をしながら歩いておられたのでしょう。従う弟子たちは、これを見て、驚きと恐れに満たされています。「いったい、これは何事だろうか」。
 そこで主イエスは弟子たちを呼び寄せ、受難と復活の、三回目の予告をします。今回は、言葉も多く、丁寧になされています。

 人の子は祭司長、律法学者たちに引き渡される。
 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。

 福音書記者マルコは、注意深く言葉を選び、予告を再現しようとしたのでしょう。ユダヤの文章法、表現では、同じことを三度繰り返すのは、そのことの重要性を表すことである、と聞きました。同様に言葉を変え、繰り返し語るのは、そのことの重要性を印象付けているのでしょう。ここで「引き渡す」が二度用いられます。

 祭司長、律法学者たちは、イエスの同国人、同胞です。国民・市民を守り、養い、導く役割を担う者のはずでした。その人々がイエスを引き渡す。この翻訳が正しい事を認めます。そのうえで、同じ言葉が裏切りを意味するし、そのように訳すことが出来ることを承知しておきたいものです。彼らは同胞であるイエスを「異邦人に引き渡す」。同胞に対する裏切りそのものです。

 その前には、祭司長、律法学者たちに引き渡される、とあります。これは弟子の一人が主イエスを裏切ることです。弟子が師匠を裏切る。事前にそのことを知っている。悲痛、悲惨なことです。

 ユダヤ人は人前で肌を見せてはならない、と教えられます。鞭打ちは、衣を剥ぎ取りその肌を出し、背中を打ちます。引渡しを受けた異邦人は、恐らくローマの軍団兵でしょう。
同胞にも見せない肌を、異邦人の前で露出する。これだけでもたいへんな侮辱です。

 主が苦しみを受けられ、そして死から甦る。
 第一回予告は、それに続いて『自分を捨て、自分の十字架を背負って従え』と教えられた。
 第二回の受難予告のあとには、弟子たちは『誰が偉いのか』と議論している。それに対しては、『全ての人に仕える人になりなさい』と語り、わたしの名の故にこのような子供の一人を受けいれる者は、私を受けいれるのである』と教えている。
 最後の受難予告では、驚き、恐れに満たされていた。
 彼らは何も理解していない。ただイエスが、決然と一行の先頭に立って進む様子に、恐れをなしている。先生の心のうちを知り、同じ心になったわけではない。
 そのような彼らに主イエスは告げる。「いま、私たちはエルサレムへ上って行く。」と。
エルサレム行きは、決して主イエスおひとりのことではありません。12人の者たちと一緒に行くことなのです。それなのに主イエスは、ひとりになっておられる。誰からも理解されない故に。それだからこそ、「今、私たちは」、と言われるのです。

 受難節に大切な事は、私たちひとりびとりが、主イエスの「私たち」の一人になることです。共にエルサレムへのぼって行く。十字架へと歩みを進める。

 ゼベダイの子等、ヤコブとヨハネの願いは何でしょうか。彼らはイエスと共に歩いているが、「今、私たちは」の一人になってはいません。
二人が、共にイエスの前に進み出て言いました。37節「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。

この願いは、主イエスが王となって支配される時、右大臣・左大臣にしてください、と願ったことである、と説明されます。宮廷政治の時代は分かりやすいですね。序列が明確です。日本で言えば「正・従」という宮中での序列がありました。また「勲」は、功績を示します。この二人は、自分たちの功績などとは無関係に高い位を、良い待遇を求めたもの、と考えられます。

 これに対し、主は言われます。
「あなたがたは、何を求めているかわかっていない。私が飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」。
二人は、「できます」と答えました。この時のイエスの答えは、ひきつけるものがあります。
「確かにわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかしわたしの右や左に誰が座るかは、わたしが決めることではない。」
これはこの二人が、殉教することを示しているとされます。
ヤコブについては言行録12:1に記されています。「その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」
 ヨハネに関しては不明です。

 こうしたやり取りを他の弟子たちは、どの様に見ていたのでしょうか。10人の者たちは、「ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。当然のこと、と言っても良いでしょう。これまでにも、「誰が偉いか」などと議論しています。わずか12人の小さなグループですが、その中で誰が偉いか、という事は大問題だったのです。此処での序列は、イエスが言われる『到来する神の国』での序列となる、と考えられていたからです。

 弟子たちは、勝利を求めています。彼らの勝利とはどのようなものでしょうか。
私たちが考えるものと殆んど同じだったように感じます。
他の人より少しばかり多くのものを、宝・財貨を手に入れること。
他の人より少しばかり認められ、賞賛されること。
他の人に仕えるよりは、他の人をこの自分に仕える者とすること。
要するに、偉い人になりたい。

 三回にわたる受難の予告の間、弟子たちは、その意味を知ろうともせずに、彼らの考える勝利を求めて争っていました。ついにエルサレム目指して進み始めたこのときにも、自分の利益を求め、互いに裏切るようなことをしていました。こうした自己中心的な心が働く時、所には、対立と争いがつむじ風のように巻き起こります。何時、何処で発生したかわかりません。ただその爪あとははっきりと分かります。

 主イエスの心を知ろうともしなかった弟子たちに、主は教えてこられました。
本当の勝利は、十字架にある、と。
なぜなら、主イエスの十字架は、全ての人の僕になることだからです。
「多くの人の身代金として自分の命を捧げるため」だからです。

 私たちの価値観を転換するように教えておられます。勝利は、他の人から奪い、自分のために蓄積することにはありません。散らし、与え、仕えることこそ勝利です。

 それは十字架の道です。

 私たちは、イエスを主キリストと信じるものです。あの十字架のイエスの姿に救いを見出しました。今なおこの世の勝利を求めるのでしょうか。それとも主イエスにある勝利、永遠の勝利を求めるのでしょうか。主イエスは、真の勝利の道をその身をもって開き、指し示してくださいました。

 感謝して祈りましょう。