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2010年2月28日

《悪と戦うキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ3:20〜27

  復活節第5・受難節第2主日
  讃美歌31,276,522
  交読文16(詩57篇)
  聖書日課 エレミヤ2:1〜13、エフェソ6:10〜20、マルコ3:20〜27、詩編18:2〜7

 2月最終の週は、随分気温の高い日が続きました。木曜午後はセーターも脱いでしまうほどでした。雪中花とも呼ばれるスイセンは、暖かくなり、そろそろ終わり、代わりにラッパスイセンの花芽が膨らんできました。楽しみです。陽射しはすっかり春めいてきました。明日からは三月。春を迎える準備を早めなくてはなりません。
オリンピックも終盤、相変わらず雪不足が続いていますが、同じ北米でも東海岸、ワシントンでは大雪のため死者が出る騒ぎになっているようです。
南米チリではM8超の大地震がありました。被害が心配です。

 本日の主題は《悪と戦うキリスト》です。キリストが戦う悪とはいったいどのようなものでしょうか。
 玉出教会は、昨年9月に消火器を投げ込まれました。プロテスタント教会ばかりを狙った連続事件でした。単なる器物損壊ではなく、礼拝妨害の意図があるのではないか、と疑わせられます。とすれば基本的人権の中で保障されている信教の自由を侵犯するものです。警察は、このような事案には余り本気で関わろうとはしないようです。

 11月末まで続き、ついにテレビでも扱われました。そのために止んでいるのかもしれません。普通のケースでは、テレビで扱われ、自分も有名になったと思い、更に犯行を重ね足がつくものです。この案件は違います。ことによると、家族など身近な人々が気付き、その監視が厳しくなったのではないか、と考えています。

 このまま事件は終息するかも知れません。しかし、それでは、この事件は何のために起こされたのかが、分からないままになってしまいます。それは困ります。何を目的に、このようなことをおこしたのか、明確にして欲しい、と感じます。私たちの側に考えるべきことがあるはずです。本当は名乗り出てほしい、と感じています。それが無理なら、せめて声明文を出しなさい、と言いましょう。

 私たちにとって、消火器を礼拝堂に投げ込んだ人は悪人です。その所業は悪事です。しかも礼拝堂は主イエス・キリストに捧げられたものです。投げ込み犯は主キリストに対して挑戦している、つもりはないでしょう。それでも、主キリストに敵対する、という形になります。主イエスは、これをどの様になさるでしょうか。この実行者に対して何を語られるでしょうか。
 マルコ福音書3:20〜27は、新共同訳の小見出しに『ベルゼブル論争』とあります。同じことがマタイ福音書12:22以下にあります。スタディ版には、そのところの註で、『ベルゼブルの名称は、カナン人の神バアルの名に由来する。悪魔の頭(かしら)はサタン(神の敵対者)や悪魔としても知られていた。』とあります。

 ルカ福音書11:14以下も同じ記事ですが、そのスタディ版には次のように記されます。 『ベルゼブルはカナン人の神の名で、バアルの君、力の主を意味する称号に由来する。ヘブライ人はその名を「蝿の主」と言う意味のベルゼバブと呼んで皮肉った。
 マタイ9:34「悪霊の頭は、ベルゼブルとしても知られる。ベルゼブルの名称は、カナン人の神バアルの名に由来する。悪魔の頭はサターンや悪魔としても知られていた。」

 ベルゼブルという名称について、この程度の予備知識をもっていただき、この所をご一緒に読んでみましょう。
 マルコ福音書は、基本的に時系列を追っている、と考えられてきました。言葉の使い方がそのことを示します。安息日や日が落ちて、それから、など時間を示す言葉を良く用います。それでも、私たちにとっては理解できないことが多くあります。
 それは福音書が、毎日の記録ではないからです。数日間は勿論、数週間も欠落させているのではないか、と考えられます。

 この20節に、「家」とありますが、ナザレにある家ではなく、イエスが活動の拠点とされたカファルナウムの家ではないでしょうか。
 21節には、「身内の人たちは・・・取り押さえに来た」とあります。これはナザレから出てきた、と考えられます。
 イエスの周辺に群衆が群れ集う様子が記されています。食事をする暇もないほどであった、と言うから凄いものです。評判の良い医師がこの状態になります。
私が通うクリニックもこれに近いかもしれません。午前の診療は12時半まで受付となっています。私は11時ごろに入ります。12時ごろに診察の番が来ます。受付終了の時間前に診療所を出ますが、まだまだまだまだ待っている人が何人もいるし、やって来る人もいます。
 生きるための救い、いやしを求めてくる人を拒むのはたいそう難しいことです。

 家族の者たちは、「あの男は気が変になっている」と人々に言われて、取り押さえに出てきました。何がそのように言わせたのでしょうか。主イエスは、御自分のことをさておいて、人々の求めに答えようとされました。ご自身のことを二の次、三の次にしていると、一般の人たちは、それはおかしい、先ず自分のことを済ませなさい。ご自身のものを確保しなさい、と言うものです。それをしないで、他の人たちのことをしていると、それは間違っている、おかしい、気が変になったのではないか、と言います。
 こうした事は日本の社会では良くあること、と言われて来ました。横並び社会の特徴です、と。誰もが同じようでないと不安になるのでしょう。ひとりだけ違うことをしていると、それは違う、おかしい、変だ、同じようにしなさい、となります。同じことが、古代イスラエル、ユダヤ社会にもあったのです。現代社会は、この点で成長し、変化を遂げた面があります。他と違うことを良しとする。
 「君は私と考えが違う。しかし、その違う意見を語る自由を私は守ろう」。
 成熟した社会では、違いを大事にし、それを豊かさと考えるようになりました。
 たったひとりの人の発想、発言であっても、それを社会全体が大事にする社会。なんだか胸がときめいてきます。

 律法学者たちは、普段はエルサレムにいます。そこで教え、論争を楽しむような生活をしていました。そして、時に地方で評判の学者、説教者などが現れると、そこへ行き、その語ること、行うことが正しいかどうか、調べるのが常でした。判定は、ひとりで下す事は出来ません。必ず複数の人によって審理され、判定される必要がありました。此処でも「律法学者たち」と複数になっています。多分、イエスの名がエルサレムにも知られるようになりましたが、そこへ行けば直ちに判定できる、と考えられていたのでしょう。

 案の定、律法学者たちは、イエスの教えと奇跡に対して判定を下しました。
 「あの男はベルゼブルに取り付かれている」
 「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と。
 イエスが何をなさったか、という事よりもその形を問題にしているのでしょう。
 あるいは、その働きの結果何が起こったか、を考えるよりも、その力の中に自分たちの権威・権力にとって不都合なものを感じ取ることを重んじたのでしょう。
 内容的には、サターンも神の支配に服していることを忘れています(ヨブ1:6、詩89:6)。 

 悪霊の力によって語り、教え、悪霊を追い出している。悪霊は神に敵対するものだから、この男のする一切のこと、語る全ての言葉は、受け入れてはならないものである。
 これが律法学者たちの判断でした。
 
 イエスのもとに来ていた多くの人々にとって、これは受け入れることの出来ないものです。しかし学者たちは、受け入れさせる権威を授けられている、と確信しています。権威の由来は、エルサレムの神殿とサンヘドリンと呼ばれる最高議会です。

 このような権威は、自分たちよりも優れたものが存在することを許しません。
 自分たちが考えることも、思いつくこともできない教えを語る事は許せません。
 自分たちがなすことの出来ない力を持つ人間がいる事は許せません。
 この被造世界の秩序は、選民である自分たちを中心として保たれなければなりません。
 どれほど優れていても全ては否定され、拒否されます。
 
 学者たちの真理によらず、権威により頼み、権威を保とうとする企てに対して、主イエスは譬で話されます。悪霊の頭に取り付かれ、その力で悪霊を追い出している、と判定した学者たちに語られます。

 国家であっても家庭・家であってもその内側で分裂し、互いに対立して争っていたら、それは成り立ちません。滅びてしまいます。個人と言う人格を考えれば分かることです。
現代の人間は、一人格の分裂について多くを語ります。それ以上に家庭内の不和とそれが子供に及ぼす影響を考えるほうが良く分かるはずです。夫婦の不和・いさかいが子供を如何にだめにして行くか、そのままで家庭は崩壊してしまっているほどです。
 その回復にどれほど大きな力と時間が必要になるか、私たちは知っています。

 主は、ご自身の働きは、そのような内部分裂ではないことを明言されます。主のお働きは、聖霊によるものであって、それをベルゼブル呼ばわりするのは、聖霊を汚すことであって、決して赦される事はない、と言われます。
 「聖霊は人を生かす神の力です」。私たちの信仰も、この神の力・聖霊が働いて本物になります。私たちの全ての罪は赦されます。私たち・人間の弱さが原因であるから。しかし、神の力・聖霊を汚すもの、その働きを拒絶するものには、赦しは決して与えられません。

 私たちは自己防衛本能をもっています。それは、過剰に働くこともあります。自分を守るため、先に攻撃することもあります。自暴自棄になり、自己破壊的な傾向になっても、これは働いています。それほど、本能に基づくものは強いものです。そしてこの本能が誤って働いて他の人を傷付けることもあります。これが私たちの悪との戦いの一つの形です。

 主イエスの戦いは、個々の罪、悪事に対するものである、とは考えられません。
 聖霊を汚す罪を悪とされたのですから、この悪と戦っておられる、と考えます。
 私たちを信仰へと導き、引き上げる神の力が清く、豊かであるように、私たちのために、私たちに代わって戦ってくださるのです。
 ここに平安の源があります。感謝しましょう。