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2010年2月21日

《荒れ野の誘惑》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ1:12〜15

  復活前第6・受難節第1主日
  交読文21(詩91篇)
  聖書日課 ヘブライ2:10〜18、エレミヤ31:27〜34、マルコ1:12〜15、詩編91:1〜13

 まだまだ冬の寒さが頑固に残り、冷たい風が吹いています。それでも日が長くなり、陽射しも明るく、強くなりました。もう一息で春の到来となりそうです。常緑樹の葉が落ちて新しい葉が出て来ました。花芽のふくらみを見るのが楽しみになる頃です。
カナダでは、世界の若者が活躍しています。これも花芽のように感じられます。冷たい風に会うこともあるでしょう。負けずに乗りこえ、いつか咲いてほしいものです。ある人は桧舞台で大輪の花となり、多くの人は観る者もいないような日陰で咲いて、周囲の人を喜ばせるだけかもしれません。そんな人にこそ「頑張れ!」とエールを送りたい気持ちです。

 本日は、教団では復活前第6主日、伝統的な諸教会の教会暦では「四旬節第一主日」となります。歴代の教会は、主イエスの甦りに先立つ40日間を、主の御苦しみと甦りに備える期間としました。そのため、克己と節制がこの時期の特徴とされます。ローマ教会の勢力が強い地域では、この時期の始まりの日、灰の水曜日には謝肉祭が催されます。レスピーギの作品に『ローマの謝肉祭』があります。ブラジルのリオ・デジャネイロ市のカーニバルはたいへんよく知られています。サンバのリズムに乗った華やかなパレードが有名です。それはこの日に続く40日間が、苦難を偲ぶ日々だから、その前に思い切り楽しもう、とするものでしょう。

 四旬節の最初の主日には、「荒れ野の誘惑」を読むのが伝統になっています。ただその時の読まれる福音書は、毎年違うものになります。今年はマルコ福音書になりました。全体としても短い福音書ですが、荒れ野の誘惑の記事に限っても、そっけないほどに短いものです。
 こうした場合、どの様に読み、説教したら良いのでしょうか。他の福音書からの補いによって、ほぼ完全な「荒れ野の誘惑」の記事にする。これは「荒れ野の誘惑」に限った主題であればよろしいと考えます。しかし、マルコ福音書を読む意味が薄れてしまうのではないでしょうか。

 マタイ・マルコ・ルカ、この三つを一括して『共観福音書』と呼びます。共通の視点をもっているし、共通の資料によっているため、と言えるでしょう。視点というのは、イエスの生涯をどの様に見るか、ということです。資料は、「原マルコ」を共通にしながら、マタイ・ルカが独自の資料を利用している、ということでしょうか。ほぼ同一のこともあるし、同じ事柄のはずなのにだいぶ違う、ということもあります。
 「荒れ野の誘惑」の記事は、マタイ・ルカはほぼ同じ、マルコだけがかなり違います。このような場合、違うことを重要なことと考え、そのところから語り出されることを見出し、考えることがよろしいと感じます。
 
 マタイ4章は11節25行に及びます。ルカは13節29行の長さです。24字
 マルコは、2節4行、なんと短いことでしょうか。100字足らず。

 人間の生涯でも、意味のない長さと、意味のある短さがある、ということに気付かされています。人の生涯には、その長短によらず、意味があります。聖書は意味がないという事はあり得ない、と考えられます。聖書の一言一句には意味があります。短いことにも意味があるはずです。

 岩波版新約聖書で読んでみましょう。佐藤研という学者が訳されました。すると、霊がすぐに彼を荒野に送り出す。そこで彼は、サタンによって試みられ続けながら、四十日間荒野にいた。そして彼は野獣たちと共にいた。そして彼は野獣たちと共におり、御使いたちが彼に仕えていた。
 さてヨハネが[獄に]引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。「そして」「神の福音」を宣べ伝えながら言い[続け]た、[この]時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音を信ぜよ。

 三福音書を読み比べて分かる違いは何でしょうか。
 マルコは、空腹になったことと、誘惑の内容を書いていません。
 マルコは、野獣が一緒にいた、と書きます。
 サタンによる試みは40日間、御使いたちが仕えていた、と三福音書は告げます。
 そして、荒れ野へ霊によって送り出されたことも共通しています。

 マルコ福音書の記者は、自分の関心を寄せることに集中しようとしています。それ以外の事は、知っていても書こうとはしません。空腹になった事と誘惑の内容は、マルコの関心を引きません。野獣が共にいた事は、彼の関心を引きました。荒れ野で野獣と共にいる、これはたいそう恐ろしいことのはずです。一体、このことの何がマルコの関心を引いたのでしょうか。恐ろしさでしょうか。

 今では、あの周辺には大型の野獣はいませんが、かつてはメソポタミアとアフリカ北部を結ぶ一帯にはかなりの種類、数の大型肉食野獣がいたようです。気候変動の結果、餌となる小動物が減り、更に人間の進出で自然界が破壊されたことにより、いなくなりました。特に樹木の伐採は、野獣の住処を奪いました。加速度的に野獣は少なくなり、この地には戻ってこなかった、と聞きました。
 マルコの関心をひいたのは、この地にいるはずのない野獣の姿を見たためかもしれません。滅多に見ないし、その名前も良く知らなかったのではないでしょうか。「野獣たち」とだけ書いて、その名前を書きませんでした。知っていれば書くのが普通です。40日間、肉食獣と一緒にいて無事であった。このことにマルコは驚き、同時に聖書の預言を思い出したのでしょう。

 それが、イザヤのメシア預言です。11:1〜10、1078ページです。そのうち、特に6節以下にご注意下さい。その時代に知られていた野獣の名前もあります。

狼は子羊と共に宿り・豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち・小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草を食み・その子らはともに伏し・士師も牛も等しく干草を食らう。(6,7)
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ・幼子は蝮の巣に手を入れる。(8)

 これがメシア・キリスト到来の時に起きること、と預言されています。

 これだけではありません。マルコは、異邦人への伝道者パウロのことも思い出したことでしょう。
 パウロは、皇帝に上訴したため、軍団兵士に護衛されてローマへ向かいました。途中嵐のため、マルタ島に漂着します(使徒28:1)。焚き火に枯れ枝をくべようとしたパウロを、蝮が噛み付き、彼の手からぶら下がります。彼は、これを焚き火の中に払い落とします。島の住民は驚きます。折角海から救い出されたのに、蝮に噛まれるとは、神様が生かしておかないのだ、と言いました。とこらが何にも起こりません。
 パウロを人殺しの大悪人と思った村人ですが、この様を見て「この人は神様だ」、と言い始めました(使徒28:3〜6)。神の力を目の当たりにした、という思いでしょう。
これはイザヤの預言の成就です。神の力、神の支配、救い主の到来です。

マルコは、救い主の到来を告げています。

到来した救い主は、何故誘惑に会われねばならなかったのでしょうか。
そのまま、時をおかず、十字架の使命を果たされれば良かったのではないでしょうか。
究極の苦難がやって来ることを知りながら、3年もの間、ガリラヤからユダヤに至る地域を歩き、人々を教える。まるで拷問を受けているように感じるのは、私だけでしょうか。

 誘惑とその後、3年間の歩みはキリスト・イエスにはどうしても必要な期間でした。
イザヤが預言した受難の救い主となるために必要でした。
救う者は、救われる者を理解していなければ、救うことが出来ません。悩み苦しんでい
る人は、周囲の一人びとりを見て、直感的に理解してくれているかどうか見極めます。この人なら、と感じると近寄りますが、相手側では準備が整っていないため、気付かないで離れてしまうこともあります。私たちの間では、助ける事は、たいへん難しいのです。

 最近、一つの電話を受けました。「高齢者向けのマンションです。精神病の方もいます」と言って始まりました。「最近入居してきた方が教会へ通いたい、と言っていますが、そちらにお世話をお願い出来ますか。送り迎えから初めて全てのことを」。ケアー付きのマンションとして宣伝されているものでしょうか。随分細かなサ−ビスをしているなあ、と感じました。
残念ながら、と言って実情をお話しました。現在此処におられる方のお世話もできません。お世話したくてもできかねる状態です。
助けを求める方がいても、その求めに応え、必要を満たす事は、随分難しいことです。

 今は外的な助けを例に挙げました。これが内的な助けであれば、もっと困難になります。
 悩み、問題を表現することも、外部の人間がそれを理解することも難しいだろう、と想像します。私たちは、心の悩みをどの様に他の人に伝えることができるでしょうか。誰でも思いがけない悩みを、密かに抱えているものです。その人にとってはとても重く、苦しい問題、誰にも理解してもらえないだろう、と考え、事実想像することも出来ないようなことです。人に言えない秘密を抱え、苦しむ人々、最近の風潮は「自己責任」かもしれません。聖書はそうは言いません。理解し、助けてくれる救い主がいることを告げます。

 それが、本日の使徒書簡、ヘブライ人への手紙2:10〜18です。402ページの下段。
特に17・18節をご覧下さい。この手紙では大祭司キリスト論が有名です。
 書いた人は、知られていません。昔は、これもパウロによって書かれたもの、とされていたようです。今では文体も違うし、思想的にも独自のものである、などの理由で他の人によるものと考えられています。木下順治先生は面白いことを主張されます。ギリシャ・ローマの思想・文化とユダヤ宗教に詳しい人物と言えば、テモテかプリスキラであろう。中でもプリスキラはローマの女性で、ポントス州出身のユダヤ人アクラと結婚している(使徒18章)。このプリスキラとアクラの夫婦がこの書を書いたのではないか、とその著書『パウロ』に書いておられます。

 2:18「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。4:15にも同じことが書かれています。
 私たちの救い主、イエスキリストは、苦しみを受けて苦しまれることによって、私たち全ての者の弱さを共感することが出来ます。同情することが出来るのです。
この方から助けをいただくために必要な事は、大胆に恵みの御座に近づくことです。
私たちは恵の御座に近づくことが許されています。
 ハレルヤと歌いつつ、感謝して歩みましょう。