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2008年11月16日

《主に喜ばれることです》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイ3:18〜4:1

降誕前第6、讃美歌28,264,356、交読文26(詩104篇)

聖書日課 マタイ5:38〜48、申命記18:15〜22、使徒3:11〜26、
詩編77:17〜21、

急速に秋が深まってきました。冬の寒気が近付いている、と言うべきかも知れません。
町へ出ると、日中は軽装の人が多いようですが、夜ともなると、コート姿が多くなります。
柿の葉も綺麗な色を見せ、同時に、その葉を振り捨てて身軽になり、冬支度です。そうした中で、三つ葉は、先頃の植木屋さんの仕事で刈り取られましたが、新しい葉をつけています。本当に青々とした、柔らかい色を見せています。春を思わせられます。
南天の実は赤みを増し、きれいになりました。生け花にも使えそうになりました。

この11月末には、待降節に入ります。教団出版局が出す教会暦によると、今の時期、「神の創造と救済の意志を学びながら、御子の降誕を迎える準備をする」となっています。従来の待降節・アドヴェントの前に四主日を加えて、降誕前節としました。誰がしたか、私には良く分かりません。教団総会の議決事項かと思いますが、出版局の中の、聖書日課編集委員会の作製、ということのようです。教団の機構図を見てもどこにもありません。
間違っているかもしれません。その場合お詫びいたします。お許しください。



 前回の所で、触れることができなかった言葉が幾つもありました。

とりわけ17節、「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」、とありました。これはキリスト者の生活全般にわたる、一つの挑戦と考えられます。

 私たちはその生活のあらゆる面で、何かをしようとするなら、そこに動機があり、目的、目標があるものです。「イヤーそんなものはありませんよ。ただブラッと、お散歩です」と言う時も、暇つぶしであったり、健康増進を願っていたり、脚が弱ってきたから、というようなことが背景にあります。自己理由の動機、目的です。

 そのような私たちに対し、このところは、動機は主イエス、目的は父である神への感謝、と教え、勧めています。そんな生活、とてもじゃないが窮屈でやりきれないよ、という向きもあります。本当にそうなのか、ご一緒に学びましょう。

最初に妻に対する勧告が記されます。何故、妻からなのか、と考えさせられます。そのような疑問を持つのがおかしい、と言われればそうかも知れません。しかし新約の大部分では男性の名が多く、しかも女性より前にその名が記されます。例外的に、ローマ16:3には『プリスカとアキラ』とあります。プリスカはローマ女性の名前、プリスキラです。アキラはユダヤ男子の名。

ある学者は、プリスカはローマ貴族の娘、腐敗したローマの生活を逃れてアキラと結婚したもの。そうした身分上の制約があり、ここではプリスカが先に出たのだろう、と推測します。

当時の考えでは、女性は男子よりも弱い者、劣る者でした。この女性を先に整えることに意味がある、と考えたのではないでしょうか。


私は、ここに記され、語られることは、倫理・道徳の教えである、ということに反対はしません。しかしそれ以上にこれは勧告・勧めである、と考えます。

勧告は、ギリシャ語ではパラクレーシスと言います。パラカロー、側へ助けに呼び寄せることが原意。そこから懇願、訴え、願い出ること、奨励、激励、勧め、慰めることを意味するようになりました。聖書の中には、道徳的な教えが随分あります。それは私たちを教え、支え、守るものです。その故に、私たちへの慰めのおとずれなのです。聖書の勧告は、強制し、縛るものではなく、慰め、励まし導くものです。この慰めを先ず弱い者、劣った者に触れさせよう、と考えたのでしょう。福音です。

私たちはこれをしばしば戒め、と感じて敬遠したり、無視したりします。そうではなくて、慰め、励ますものとして受け止め、感謝したいものです。



 このところの順序に関して、スタディバイブルは、次のように書いています。

古代ギリシャ思想において、家は夫婦、子供たち、奴隷たちから構成される。3:18〜4:1はこの考えが反映され、夫と妻、両親(父親)と子供たち、主人と奴隷たちの順に教えが語られる。これらの教えは当時のギリシャ思想とユダヤ教との両方の一般的なものであった。それゆえ、機械的にこれらの教えを家庭の倫理として今日の社会秩序に当てはめるには無理があろう。

 この順序は変えられています。弱い者を慰め、力付けるためのものでした。

ここでもう一つ、内容を考えましょう。

 妻に対して、「主を信じる者にふさわしく」夫に仕えなさい、と勧められます。
主を信じる者は、イエスを救い主と信じる者です。その家庭においても、主は十字架のイエス・キリストだけです。この主イエスにおいて顕された神の愛を生きることが、ふさわしいことです。うわべだけ従うのではなく、真心をもって仕えなさい、ということです。


これに対応するように、夫に対する教えが語られます。率直です。

「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」。恐らく、コロサイの教会の中で、このような状況があったのでしょう。それはローマの上流階級で一般的だったことです。妻のほかに愛人を持つのが当たり前、逆もあったようです。家庭内で話もしない。

今日の精神的虐待にあたるようなことが、この時代にもありました。

私たちは、あの時代と同じであってはならないのです。一人の夫、一人の妻が、その配偶者をしっかり守ることが勧められます。


子供たちに対して、両親に従いなさい、と勧められます。しかも「どんなことについても」とあります。子供の側にも言い分があるのに、これは理不尽だ、と言われるでしょう。

ここでは両親に対する、書かれていない勧めが響いてきます。
あなたがたは、かつて子供であったから、子供の心を理解できるでしょう。
叱る時にも、いらだたせるのではなく、その心に届く言葉を用いることができるでしょう。

あなたがたは、主イエスの御言葉を知ったのですから、主がどれ程あなたがたを愛してくださったか、ご存知でしょう。主が愛されたように、子供を愛しましょう。

こうして、子供たちが両親に従うことを、主は喜んでくださるのです。

そして、奴隷たちへの勧告です。先ずスタディいバイブル。

22〜4:1節、奴隷たち・・・主人たち。奴隷がその主人に仕えることは、キリストに仕えているのと同じことだとこの手紙の著者は言う。このキリストが、実際は悪い主人や悪人を最後には罰するのだと主張する。3:11参照。

私たちは、どちらかといえば、奴隷について正確な知識を欠いており、余り関心をもっていません。それは私たちの周囲に奴隷制度がないからでしょう。しかし奴隷のように扱われている者たちはいます。奴隷とは、奴隷制とはどのようなものを言うのでしょうか。

奴隷は、古代世界において、その社会を支える重要な労働力でした。今日の工場労働者以上に、重要、不可欠の存在でした。出エジプト記を見ると、古代エジプトにおいて、奴隷が生活の全領域で不可欠な存在となっていたことが知られるでしょう。彼らを手放すことなど考えられないことでした。農場でも、家庭でも、王宮でも、軍隊においてすら、重要なものでした。それにも拘らず、アリストテレスは、その『政治学』の中で「物、生きた所有物」「生きた道具」とみなしているに過ぎません。

そのため、奴隷には何らの法的権利も与えられませんでした。自由に移動し、好きなところで働く権利、今日では基本的人権とされますが、こうした一切の権利はありませんでした。奴隷となった瞬間から、剥奪されました。勿論、人格として認められません。

生きてはいるが、それは生産の手段、家内仕事の道具として生きているだけでした。生きることを認められていただけ、と言ったほうが適切かもしれません。

このような奴隷は、現代世界にはもはや存在しない、と言えるのでしょうか。
基本的な権利を認められない労働者がいるなら、それは奴隷です。
家や土地に縛り付けられ、離れることができない人がいるなら、それは奴隷です。

考えることが許されない環境、主張することができない状況、奴隷です。
伝統や、風習、仕来りに縛り付けられている奴隷もあります。
ことによると、私たちは便利な生活ができるところ以外では生きられないかもしれません。
利便性の奴隷ではありませんか。

こうした私たちに、ここでも「主を畏れつつ、真心を込めて仕えなさい」、と勧められます。「主に対するように、心から行ないなさい」と言われます。ここでは、嘘偽りは無しにしなければなりません。嘘偽りがあって良いところなどありはしません。自分のご都合優先もなしです。教会は、主の御名を利用するようなことをしてきました。主の御栄の為に、と言って侵略のお先棒を担ぐことすらありました。

私たちが奴隷であり得るなら、その報いも私たちのものになります。
「御国を受け継ぐという報い」を主から受けるのです。この地上にあって、神の御支配を受け継ぐことが許されます。正義と真理、自由と愛の御国です。

このところは、初めに「主を信じる者にふさわしく」とありました。主を信じる者は、主に愛され、主のみを愛する者です。主を愛する者は、主イエスのみを喜ばせようとします。ハイデルベルク信仰問答の第一問は、『生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは何ですか』というものです。それに対する答えの冒頭は次の通りです。

『私が、からだも魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることです』。これこそ完全な神の御国の一つの形、表現です。全く神の御支配が成就するのです。

神の言葉が約束されたものは、必ず実現します。この言葉を信じる者は幸いです。

感謝しましょう。