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2006年12月10日

《旧約における神の言葉》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書4:14〜21

教会暦では、この日の主題は、ある年には『旧約の預言』で、イザヤ61:1〜4と同じルカ福音書4:16〜21が用いられています。
今朝は先ずルカ福音書を学びましょう。

 主イエスの公生涯、という表現があります。PCでは、高度の障害となってしまいます。
聖書では、おおやけの一生、という意味です。それは、ヨルダン川のほとりで、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたときに始まります。その後、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダン川から帰り(恐らくガリラヤのナザレ)、荒野でサタンの誘惑に会われます。40日間にわたりました。モーセ五書の言葉を以って、サタンを退けます。その結果、更に聖霊に満たされて、ガリラヤに帰られます。それが本日の始まり部分です。4:14 

 生まれ故郷、と言いたくなりますが、お生まれになったのはベツレヘムです。その後、ヘロデを避けてエジプトへ下り、ヘロデの死後、ガリラヤのナザレへ来て、そこでヨセフ、マリヤ、幼子イエスは生活をしています。
 その集落にはシナゴーグがあります。ユダヤ人10軒あればシナゴーグを一つ。
このシナゴーグは、その集落の中心です。会堂と訳される安息日の礼拝所です。会堂には会堂司がいます。管理人と言えるかもしれません。ただ管理の領域がだいぶ広いようで
す。建物を管理します。礼拝の準備をします。あらかじめ、聖書を決め、その巻物を整え
ます。それについてお話をする人を選び、依頼します。話題の人にお願いできると嬉しい
ですね。
平日は教育を担当します。地域の子どもたちに聖書を教え、掟を守るよう指導し、神の民として恥じることのないようにします。さらに福祉も担当します。豊かな人には寄付を依頼し、それを集め、貧しい人、やもめ、孤児に配ります。公平にしないと不満がおおやけにされるようです。
このように、ユダヤ社会の歩みは、会堂司によって担われる部分が随分大きかったもののようです。有能な司を持つ会堂、その集落は幸いです。

ルカ福音書が、イエスに渡され、イエスがお読みになったとするのは第三イザヤ(56〜66章)に属する61章でした。これは、ご自身で選び取られたものではありません。会堂司が、あらかじめ選定し、用意しておいたものです。スタディバイブルの注では、『預言者イザヤ(前740〜701年)』と記します。これは誤解の基になります。
 旧約聖書のイザヤ書は全部で66章あります。現在の定説として、これは三つに分けられます。第一イザヤ(1〜39章)、これはユダの貴族、アモツの子イザヤの預言。スタディバイブルが指しているのは前8世紀の第一イザヤです。
第二イザヤ(40〜55章)、これはバビロン捕囚のユダの人々のうちにいた預言者、詩人の預言と考えられています。苦難の僕の歌が有名です。
第三イザヤ(56〜66章)は、その正体は全く判りませんが、『残りの者』の思想でよく知られています。
 ここで読まれているのは、イザヤ書61:1,2節です。従って、そのイザヤは第三イザヤ、前6世紀、第二イザヤより少し後の人と考えるほうが良いでしょう。

 主は、イザヤ61:1,2節を読まれました。そのときは、私たちが読むのと同じように読まれたことでしょう。しかし、ルカが福音書を書くときには、手元にイザヤ書があり、確認することが出来たわけではありません。記憶に頼り、他の人に確かめることしか出来ません。不正確な引用となります。それでもおおよその内容は、決してはずしません。
 イザヤは貧しい人、砕かれた心、捕らわれ人、つながれている人、と重ねました。
福音書は、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人と変えています。
これは記憶に頼り、内容を判りやすく整理したように感じられます。不自由な人たちに自由がもたらされることを告げています。これが救いであり、救い主が到来したときに起こることです。これが今ここで実現していることです、というのが話されたことです。

 21節「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した。」
救いの預言が、今ここで現実のこととなった、と言われるのです。救いの今日性、救いの現実性などといわれます。それに対して、私たちはどの様に感じるでしょうか。救いが、確かにここにある、と答えることが出来るでしょうか。
多くの錯覚があります。誤解もあります。無理解、拒絶などがあります。感情のもつれなどもあります。そうした中で私たちは苦しみ、もだえ、悩んでいる。ある人が言うように、『曰く、不可解』ではありませんか。
時代は混乱しています。21世紀はテロ攻撃で幕開けでした。この国では絶えることなく、子どもが関わる事件が続いています。被害を受けることはもちろん、加害者になることもあります。その場合でも、子どもは長い期間にわたる累積被害者である、と指摘されます。

これほど理不尽なことがあるでしょうか。キューブラー・ロスと言う医学者がおりました。『死ぬ瞬間』というベストセラーを書きました。この先生は、多くの人に影響を与え、生きる勇気を与えました。むしろ、死と向き合う勇気かもしれません。
先生は、ご自分の人生に計画を持っておられました。年齢によって区切り、何をすればよいか。しかし予期しない時に死がやってきました。残酷だ、と感じます。
 どれ程良い業績を積み上げても、人の一生は、思い通りにはなりません。だから不幸だ、ということにもなりません。ロスは死を受け入れることを教えました。自らも受け入れたことでしょう。
 市は、私たちの究極の敵、最も強く理不尽を感じさせられるものです。どの様に受け入れられるか、回答の持ち合わせはありません。僅かに答えうるとすればこうです。
私たちは悩み、苦しみを見続けているとますます落ち込みます。自分の内面だけをのぞきこんでいると、這い上がれなくなります。目を転じて、贖いの主イエスを仰ぎ見るなら、力と望みを与えられ、困難も受け入れられるようになるでしょう。

 旧約の日課は、同じイザヤ書ですが、第二に属する55:1〜11です。
何も持たない者、必要な水を買い求める値も持っていない者、そのまま私の許に来なさい。
水、穀物、ブドウ酒、乳、そして何よりも魂に命を得ることが出来る。命を保障する宣言です。そしてそのことが偽りではないことを10、11節に語ります。
 何も持たない者にとっては、このことは素晴らしく善い知らせです。福音です。たくさん持っている者にとっては、これしきのことは何の感動ももたらしません。また私の所有が増える、ぐらいのことです。
 ここにイザヤ61章、ルカ4との共通点があります。神の救いは、不自由な人、持たない人のために備えられます。これは困る、と思う人は、自分が何を持っているか、考えると宜しいでしょう。私たちは、神から与えられたもの以外は何も持っていません。持っていると思うものは、自分を喜ばせるためではなく、安心させるためでもなく、他の人の必要に備えて預かっているのです。そのように考えると、私たちは、神の救いに与るべき者です。自由だ、と考えてきた人もそうです。実は自分が不自由であり、束縛されてきたことに気付いていないのです。社会の決まりごと、人の間柄、親子の絆、それらは否定することも不要です。大切なものです。それでも縛るものであることに変わりはありません。

 救い主の到来は、それらを一変させます。縛り、束縛と感じられたものは、愛の積極性によって打ち破られます。フランスのラ・ロシュフコーは言いました。
『束縛は、その中に入ってしまえば自由となる』。
それだけでは不十分です。たとえば、仕えるという事。
いやいやながらでも他の人に仕える。これはその中に入った状態で、自由と感じられるでしょう。でもいやいやなのです。本当の自由ではない。しかし相手を愛するようになれば、いやいやではなく、喜びをもって仕えることが出来ます。
 現代日本社会の病気は、愛することが分からないことにあります。
来たりたもう救い主、キリストに愛することを学びましょう。