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2010年8月29日

《最高の道》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?コリント12:27〜13:13

 讃美歌267、332、交読文38(イザヤ書40章)

 玉出教会の庭では、20日ごろから秋の虫たちが、鳴き始めています。何か戸惑っているのか、と思わせるほどに、心細げな鳴き方です。処暑も過ぎ、爽やかな秋になっているはずなのに、この暑さは何事だ、我らの秋はまだきていないではないか。早すぎたのか、と悔やみながらの独唱、合奏でした。涼しさが増すに従って力強い虫たちの合奏になるでしょう。恐らく御殿場では、もっと早くから虫たちが鳴き始めているだろう、と思いをはせていました。

 今日は何故か、普通ならあまり選ばない讃美歌267番を選んでしまいました。
力強い立派なコラールだが、ちと勇ましい。380番などよりはましだが、弱い私奴は、力負けするのでしょうか、なかなか選べません。それなのになぜ? 理由があります。
この式次第を造ったのが木曜の午後、机の脇ではFM放送がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を、次いでバッハのカンタータ第80番、有名なルターのコラ−ル、『神はわが櫓』を用いた曲を流しています。歌っているテノール、クルト・エクィウルツは、東京でシュッツの受難曲、福音史家を聞いて、感動した歌手です。さらにメンデルスゾーンの交響曲第五番、『宗教改革』が予定されています。これだけ、重なれば、選びなさい、歌いなさい、讃美しなさい、と求められていると考えたくなります。

 さて、本日の主題は、《最高の道》となっています。
 最高とは何でしょうか?
中学校の英語で、比較級を学んだことを思い出します。原級、比較級、最上級、忘れました。二つのうち、より優れたものが比較級。多数の中の唯一つ優れたものが最上級。
このところは、岩波版では『卓越した』と訳されています。
パウロは、コリントの教会が分裂状態となり、互いに相手を攻撃するようなことになっていることを心配しています。そこで、「教会は一つの体」である、と語ります。

 ひとつの体、多くの肢体、パウロは、12章で『体の神学』を展開しています。
神学校を出て間もない頃だったでしょうか、そういう題の書を読みました。書いたのはロビンソンだったか、と思いますが、内容と共に忘れました。パウロ特有の神学思想である、パウロが良く語るもの、と記憶しました。
 12:27は、その典型と言えるでしょう。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
大抵は、『肢体』と訳すようです。キリストは頭、首。私たち各人は、その一部であり、部分のない全体も、全体のない部分も存在しない、と語られます。

 教会は一つの体です。その部分部分は様々であり、違いがあります。
形や能力、機能が違います。互いに違うから、その組み合わせでもっと大きなこともできる。この目一つにしてもそうです。私の目は左右の視力が違います。若い頃は、右2.0、左1,5、今は、右の方が弱い感じです。乱視も出てきています。外を歩いていると、向こうから来る人の顔が分かりません。体型全体で判断しています。歩く時も眼鏡をかけたほうが良さそうです。だからといって、元気な左眼が、弱い右眼を非難するでしょうか。互いに連絡も取らないようにするでしょうか。そうなると立体感がなくなります。距離を測ることが出来なくなります。今まで以上に連絡を取り、補い合うようにしなければなりません。

 教会は各部によって形や能力も方向も違います。だからこそ、力を合わせ、働かねばなりません。ところが、その働きの方向が全く違っていて、各部分が背中合わせになったようになってしまいます。頭なるキリストのみ心に従うことが大切です。
 キリストのみ心と称してその実、人間的な自説を主張しているようなことはないでしょうか。感情をぶつけているようなことはないでしょうか。

 パウロは、このような教会の実情を27節以下で、教会内の職名を挙げて示しました。
その異なる働きを語りました。違っているからこそ、補い合い、支え合って進むのだと教えています。皆が同じということがあるだろうか、とも語りました。
そして、違うのだからそれぞれは、もっと大きな賜物を求めなさい、と勧めます。
「もっと大きな」、これは、「より上位の」とか「より豊かな」とも考えることが出来ます。
パウロが言いたいことは、そうではなく、「絶対、最高、卓越」という意味だったようです。
私たちが歩むに値する唯一の道です。険しいかもしれない。先が見えないように感じられるかもしれない。一緒に歩いてくれる人は少ないかもしれない。
それでも決して一人だけになりはしない。独りぼっちにはならない。そんな道。

 それは、「信仰、希望、愛」に連なる道。三本、三筋の道、それぞれに値打ちがある。
この中で最も優れた道、歩むべきだと考える道はどれか。パウロは『愛』である、と教えます。何故だろうか? 初めて考えました。
 信仰は、神との正しい関係です。神を正しく信頼し、素直に従うところにあります。これは、信じる者に慰めと平安を与えるでしょう。
 希望は、その人を明るくし、不屈の戦いをさせるでしょう。
 愛は、愛された人に勇気を与え、何事にも負けることなく生きることを可能にします。
また同時に、愛する人にも喜びを与え、生きる力を生れさせます。

 人は愛されて愛を知り、愛することができるようになります。
日本では、『惜しみなく愛は奪う』という言葉が良く知られています。
パウロは、この言葉を知りません。
これとは正反対の『惜しみなく与える愛』を知り、これを伝え、教えます。

 パウロがかつて知っていた愛はファリサイ人としてのものでした。律法に従い、正しい行いをして、事故の義を立て、それを誇り、他の人を蔑み、侮り、裁くものでした。主イエス・キリストとの出会いは、このパウロを変えました。これまでは自己愛でしかなかったこと。まことの神を知らず、神に背くものであったこと。このような罪人のため、その罪を贖うため、御子イエスが十字架にしにたもうたこと。これらを知りました。
パウロは、十字架のキリストに愛され、愛を知りました。

 信仰と希望は、自分自身のものであり、直接的には、他の人にかかわりません。
しかし、愛は常に他の人に向かうものであり、他の人を生かすものです。
これが、最も大いなるは愛なり、とパウロに言わしめた理由です。
 パウロは、ガラテヤ5:13で語ります。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。

 先日、NHKテレビの『世界遺産への招待』の一部を見ました。猛暑が続いていました。子供たちからも、熱中症に注意、水を飲んでくださいよ、と言われていました。
オジイサンになった、と感じさせられます。老いては子に従います。気をつけて、水を飲みに家へ帰った時、テレビをつけたら、偶々やっていたので、終わりまで見てしまいました。夏だ、まあ良いか、といった感じでした。

 西アフリカに、かつて「奴隷海岸」と呼ばれた土地があります。現在、べナンと呼ばれています。多分ここが舞台です。西アフリカのギニア湾には、「黄金海岸」「象牙海岸」「胡椒海岸」などがありました。マレーシアのリゾート地は「ペナン」です。
 アメージング グレース、あの有名な讃美歌を作ったのは、ジョン・ニュートンです。彼は、この海岸から奴隷を運び出し、新大陸へ渡る奴隷船の船長であり、奴隷商人でした。
後半生は、良いクリスチャンとして、牧師として、詩人、讃美歌作者として生きました。

 スピルバーグの映画『アミスタッド』は、やはり、この海岸から運ばれたアフリカ先住民たちの自由を求める戦いを描きました。
 日本では余り売れなかったようです。2週間もしないうちに上映は中止されました。私は早いうちに観に行き、急がないと観られなくなりますよ、と礼拝で申し上げました。岩槻教会の何人かは、行ったけど終わっていました、と仰っておられました。
それでもアメリカなどでは、観客がいたかもしれません。
 小説は、徳間文庫から出ています。最近まで書棚に在ったのですが、今は行方不明です。

 奴隷貿易時代の実話を描いた小説があります。
『サラの旅路—ヴィクトリア時代を生きたアフリカの王女』小峰書店 2000年
  ウォルター・ディーン・マイヤーズ著 宮坂宏美訳  ペナン 

 アフリカのある王女の運命を描いた実話。19世紀半ばに西アフリカ、オケアダンの王家に生まれたサラは、5歳の時隣国ダホメー王により家族を虐殺され、捕らわれる。あやうく生け贄にされるところを、奴隷貿易廃止の使命を帯びて来ていたイギリスの海軍士官に救われ、ヴィクトリア女王への贈り物という名目でイギリスへ。以後は女王の庇護を受け、上流階級の家で育てられ魅力的な女性に成長するが、自分の本当の居場所が見つけられない。やがて結婚し、西アフリカで事業とキリスト教の布教に携わる夫とともに教育に力を注ぐが、病に倒れ若くしてこの世を去る。奴隷貿易の問題や英国人の特権意識など、サラの目を通して考えさせられる。

 ギニア湾岸を内陸に進むと、世界遺産に認定された「ダホメー王国」があります。
今お話した小説の中に登場する国です。
その王国は、王の権力、権勢を守り、拡張するために、近隣部族、さらに自国の男女を奴隷として売りに出し、富と権力を手に入れます。その150年を超えた末裔が、今も君臨しています。

 その国を、現代のハイチ人学生が訪問します。多数の人々が拝謁し、平伏する。学生たちはそれを見ている。執事のような人物が、王様と話すことが出来ます、と誘われる。
学生たちは、平伏することが出来ない。立ったままで問いかけます。
「私たちは、あの奴隷の末裔だ。奴隷に売られていった人たちに対してどの様に感じるか」
「私は、過去の出来事に対して明らかに責任がある。謝罪する」。
王は明確に謝罪しました。
過去の出来事に責任がある、と告げました。

 今はあなた方も豊かになったのだから良かろう、とは言わない。あなたがたにも責任がある、などとも言わない。どこかの国では、過去の支配と戦争に対して、どこまで謝罪するか、どこまで踏み込むことが適切か、などと論議されます。
「謝ったのだから良いだろう」というのは謝ったことにならない、と言われます。
ここまでは謝る、という限定的な謝罪は謝罪になりません。むしろ、自己正当化です。
 この王様は、おデブちゃんで、好かないタイプ。でも立派。国民を愛し、名誉を重んじ、損得を棄て、信義に立とうとしています。真の政治家だ、と感じました。
 近代の立憲君主は、君臨すれど統治せず、をモットーにしました。このアフリカの小国の国王は、かつての酋長でしょうが、成長して、愛をもって仕える王になりました。

 政治は、貧しく、力弱い者たちが、真面目に生活することが出来るようにすることです。
真面目にやって来て損をした、と感じることがない様にするのです。

  最高の道は、人が自分一身の正義を立てることではありません。勇ましい高尚な生涯を送ることでもありません。他の人を生かすために身を挺することです。この頃、パウロの実験主義のようなものを、よく感じます。それは、自分が実際に経験したことに基づいて話し、教える、ということです。彼は主イエスの十字架を見、その教えを聞き、奇跡を目の当たりにしたので、キリスト・イエスに従え、と勧めます。キリストが十字架の死に至るまで、私たち背く者を愛してくださった。この愛を受け容れ、互いに愛し合う者になりましょう、と教えるのです。

 私たちもまた、十字架の主を仰ぐとき、愛されている罪人である自分を見出します。
愛されて愛を知り、この愛を生きるのが信仰者の生き方です。ここに最高の道があります。

感謝して祈りましょう。