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2008年11月30日

《来臨の希望》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ローマ13:8〜14

待降節第一主日、讃美歌88,284、交読文7(詩24篇)

   聖書日課 イザヤ2:1〜5、マタイ24:36〜44、詩編24:1〜10、

温暖化傾向が声高に語られる中、今年は11月中に寒波が到来しました。これが本来の寒さではないか、と感じながら、一方これでは堪らぬ、と囁く声が内側にありました。

私が御殿場に来た年、東山湖の岸辺に氷を見ることが出来ました。「最近まで全面結氷していたのに」と聞いたものです。ここまで上ってくる途中も木陰には冬中雪が固まっていました。車が滑るのではないか、と心配したことを思い出します。

今日からアドベント、教会の新しい一年が始まります。待降節の意味を教えられ、その中で福音を耳にし、キリストを見ることが出来れば幸いです。



 主題は教団の聖書日課に基づきます。聖書は、玉出教会ではマタイ福音書24:36〜44になっていますが、こちらは使徒の書簡を選びました。そしてローマ書13:8以下ですが、特に11節以下、「救いは近付いている」という小見出しがアドベントにふさわしく感じられます。8〜10節は、今回省略させてください。

二年ほど前のことになるでしょうか、玉出教会の信徒の方たちが、スタディバイブルを20冊ほど購入してくださいました。一冊一万円ですから、キリスト教書店は喜びました。お勧めした責任がありますので、私もそれを読み、引用するようにしています。特に、本文の欄外に言葉の簡単な説明があります。結構、聖書理解に役立つことがあります。

ローマ13:11にはこのようなことが記されています。

「パウロはしばしば手紙の中で、キリストがこの世を支配するために再び来る日について語った(?コリント15:20〜28、フィリピ3:20、21、?テサロニケ4:13〜18)。パウロはこの日がすぐに来ることを期待していた(フィリピ4:5)。この日はまたイエスが信徒たちを救うときでもある。救いは、神の子としてのイエス、また世界の救い主としてのイエスを信じる人に訪れる。」

このところは本来、キリストの再臨について語られたもの、ということが理解出来ます。
そのことからアドベントの意味が深められてきます。ベツレヘムの家畜小屋で生れたもう嬰児イエスをお迎えする、という降臨への準備。そしてやがて来る、再臨の救い主イエスをお待ちする、という二重の意味で待降節なのです。

先ず、降誕。ベツレヘムの家畜小屋、その飼い葉桶の中に嬰児は横たえられました。

数年前、大変珍しいことですが、私にクリスマスページェントの役割が与えられました。
宿屋の主人です。普通は宿屋の夫婦ですが、私の場合、やはり女房はいません。
単身赴任のはずもないから、先立たれたか、などと考えました。これは冗談。
それでも初めてのお芝居のようなつもりで取り組みました。セリフを読みました。
この場面の宿屋の主人になって考えました。

どのような気持ちだろうか。この時の態度は如何かな?
この人の経歴は判らない。それでも、いろいろな旅人のお世話をしてきた人に違いない。奉仕の心を持っている。とすれば、ゆったりと受け入れる姿勢ではないでしょうか。

話が逸れますが、ドラマ・セラピーの意味が分かってきたように感じました。
さまざまな精神・心理疾患を治療する療法のひとつです。演劇療法でしょうか。
役割を演じることで、他者の感覚になり、異なった考えの存在に気付き、他者の存在を意識するようになる。こうして人間関係を、上手に築くことができるように仕向ける。

私は、人間関係、人付き合いは苦手です。いつも劣等感があります。自信がありません。自信満々の人を見ると、自分から遠ざかってしまいます。そんな私を見て、教会学校の古谷校長夫婦が、治療を試みたのかもしれません。ちなみに、なくなられた古谷洋さんは、演劇青年で、訓練も受けておられました。有り難いことです。
どのような年齢になっても、人間は変わることができるし、成長し続けるのです。

さて話をもとに戻しましょう。

宿屋の御主人は、多くの人で混雑する客間よりも、暖かい家畜小屋のほうが安心して子を産むことができ、その後もゆっくりできる、と確信したに違いない、と感じました。それに常々、小屋の内外も綺麗に保つようにしている、という自負もあったはずです。
汚い所ですが、というよりも困窮している若い夫婦に良い所を提供できる、という喜びがあったに違いありません。

私たちは、多くの伝統的資産の影響を受けています。時には精神的風土とも言われます。

「神」と言えば、私の場合、大塚の家の近くにあった天祖神社、天照大神です。季節になると祭礼があり、神輿が家の前に担ぎ込まれます。小さな妹たちは、山車の曳き手になりました。練馬の頃は大鳥神社と氷川様でした。特に大鳥神社は暴れ神輿で、恐ろしかったような感じが残っています。そして浅草の三社様、大神輿の町内渡し、ワッショイ、ワッショイの掛け声が勇壮でした。

牧師になっても、あの影響は色濃く残っています。排除できるものでもないでしょうし、抹消しなければならない、とも考えていません。

八百万の神々という多神教・汎神教思想の影響下にある私たちは、それに飲み込まれることを注意しなければなりません。同時に伝統的な精神風土と対話するために必要な共通言語を持っていることを感謝するべきではないでしょうか。

教会も伝統を持っています。ごく単純なことにも働きます。聖書解釈の伝統もあります。

例えば、ベツレヘムの降誕物語に関して一つの有名な詩があります。

『汝(な)が自らの心のうちに』

アンゲルス・シレシウス

キリスト ベツレヘムに生(あ)れたもうこと

千度におよぶとも、キリスト汝(な)が心のうちに生れたまわずば、

たましいは なおうちすてられてあり。

十字架のみ 汝(なれ)をすこやかにせんに、

ゴルゴタの丘が十字架 汝(な)が心のうちに立てられずば、

汝(な)がたましいは とこしえにうしなわれてあり。

シレシウス(1624〜77)Angelus Silesius、ドイツの神秘的宗教詩人。
本名ヨーハン・シェッフラー、彼は、ルター派のポーランド貴族の子として生れる。ストラスブルクなどで医学を修める。1649年シュレージェンで宮廷付侍医となる。ルター派に退けられ、53年カソリックになり、一時ウィーンの宮廷侍医に任じられる。1661年グレスラウに戻りフランシスコ会に入会、司祭となる。以後修道院にこもり著述に専念。

彼の著述はエックハルトの影響下にあり、その詩は敬虔主義詩人に多大な影響を与えた。
55の論争文書により、自らの信仰的立場を弁証し、プロテスタント諸派を攻撃した。

    (この項、キリスト教人名辞典に基づく)

以来350年超、この詩は一つの伝統とされてはいないでしょうか。
私自身何回かこの詩を説教の中で聞きました。

「心の中にお迎えできるように、心を清めなさい。心は飼い葉桶です。ゲツセマネです。穢れています。大掃除をするのです。それが私たちのアドベント、クリスマスです」

偶々聴いた説教がそうだったと言うだけでしょうか。むしろ、このような解釈が、伝統的・正統的な解釈となっているように感じます。

詩人シレシウスは、キリストが、この心のうちに生まれなければ、このたましいは棄てられたままだ、と詠います。しかし、その心をきれいにしなさい、とは言いません。

アドベントの期間は、主の降誕・来臨に備える時です。
よく言われます。飼い葉おけのように穢れた私たちです。清めて、お待ちしましょう、と。
私は、きれいにしてはいけない、とは言いません。
しかし御子は、根源的に浄化不能な所へ降りてこられるのです。そしてご自身の清い血潮によって清めて下さいます。このままで、穢れたままで救われます。

これがキリストの降臨です。これが福音です。



 この所では、有名なエピソードが付いて回ります。
アウグスティヌスが回心した時、読んだ聖書の箇所がここである、ということです。
紀元4世紀、多くの人たちは、洗礼を受けることをためらっていました。
「暇がありません。忙しいのです。この世の歓びから離れられません。」
アウグスティヌスもその一人でした。「私は心の中で、自分自身について自分自身と格闘していました。こうして庭のイチジクの木のもとに身を投げかけ、目から涙の溢れるままにし、涙はついに流れとなりました。」

「ふと隣の家から一人の子供の声が聞こえてきました。『取りて読め、取りて読め』・・・
こんな遊びはない。これは『聖書を開いて、目に留まった最初の箇所を読めという神の命令に違いない』と自分に言い聞かせました」。そして聖書を手に取り、読んだのが、このローマ書13章でした。

 こうしてアウグスティヌスはマニ教徒からキリストを信じるものとなりました。

自分中心の者が、神を中心とする者に変えられたのです。

自分の心のままに、欲するままに生きようとする者が、神のみ旨を受け入れました。立身出世、生活の安定よりも、福音を伝えることを大事にする者となりました。

救いの時は近づいています。
12月25日に向かって、自分が穢れた罪人であることを深く知りましょう。

終わりの裁きの日に向かって、初めて福音を聞き、喜びと感謝をもって受け入れた時よりも近付いています。二重の降誕を喜び、待ち望みましょう。