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2006年12月31日

《ベツレヘムを目指して》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ2:1〜12

本日の玉出教会礼拝では、柴田牧師が、日課に従い同じ聖書で「東方の学者たち」と題して説教しています。
説教題を変えました。余裕があれば、毎週の題を日課とは違うものにしたいほどです。
ひと月分、予告が出ますので、変えるのが間に合えばこれからも変えたいものです。
日課の主題は教会暦としては、申し分ないのでしょう。しかし、町内の人たちや、門前をを通る見知らぬ人に語りかけることを考えると、不充分ですし、不満足です。自分が満足な題を付けることが出来るわけでもありませんが、もう少し自分で努力してみたい、と考えています。

さて、本日の聖書ですが、良く知られ、好んで読まれるところ、ということになるでしょうか。たいへん美しい光景です。よく田園的、と言われます。
この光景は、ハリウッドの大作『ベン・ハー』の冒頭で、まるで絵を見るように展開されていました。御覧になり、記憶しておられる方もおありでしょう。あの映画そのものは、スペクタクル巨編というキャッチコピーで売り出しました。その意味では冒頭の場面は、何故こんな長ったらしいものを見せるのか、不思議に思ったことでした。その後数十年経ってから、小説を手に取る機会がありました。

ベツレヘムを目指す東方の賢者・賢い人たち、博士たちとも呼ばれます。
聖書の言葉ではマギ、複数形のマゴイが用いられ、その訳語の違いです。

私たちが今日、「賢い」と言うのとはだいぶ様子が違います。私たちは、幼い孫が良い答え方をすれば、それだけで「おお、賢い子だね」と言うでしょう。知恵ばしった者、知識ある者、知恵豊かな者、皆賢いとします。
この人たちは、日夜、夜空を見上げ星を観察し、記録し、分析してある種の判断を結論しました。そのため、マギを占星術の学者と訳すこともあります。誤解されやすい言葉です。「占い」には、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言った、出たとこ勝負、運任せのような一面があるようです。

 天体の運行と地上の出来事を詳細に調べ、その間の連絡を明らかにし、地上で何が、何時、何処で起こるか事前に知ろうとしました。
現代の水準から見ても非常に科学的な態度で天文学の研究が進められていた、とされます。
単に利発、知恵ばしっている、という程度でなく、もっと深い知恵・知識を持っていた、ということです。恐らく祭司の役割も担っていた、と考えられています。
 その賢い人たちが、王の誕生を告げる星を見つけました。聖書には、ユダヤ人の王としてお生まれになった方、と記されます。常識的にはヘロデ大王に王子が与えられたか、と考えるでしょう。宮殿にヘロデを訪ねたのは当たり前のことです。

 ヘロデには、当然心当たりはありません。律法学者や祭司長たちを集めて、調べさせます。彼らは旧約聖書を調べました。預言者ミカの書に該当するものを見出し答えます。それが、マタイ2:6に引用されたもので、ミカ5:1に拠っています。
 ベトレヘムは、ダビデ王の出身地(サム上16)、彼の子孫と考えられた「メシア」も同じベツレヘムに生まれる、とされました。 
ヘロデがもたらした情報に従い、学者たちは出かけようとします。その学者たちにヘロデは求めます。「行って、見聞きしたことをすべて報告せよ。私もその方を礼拝したいから。」

 学者たちにとっても、このみ告げは不思議なことでした。
何故自分たちに教えられるのか。御告げを受けたのは何故だろうか。遠いユダヤの出来事らしい。あのように小さな国、民族のことなどどうでも良いのに、と考えたでしょう。
この世界の救い主! 一体、何処でお生まれになるのだろうか?
ユダヤといっても、そう簡単ではありませんよ。北から南まで、結構あります。

 み告げの星についても、後世の人々は研究し続けました。
大学生の頃、渋谷に東急プラネタリウムが出来ました。数年前、使命を終え、廃止されました。日本で始めての商業プラネタリウムだった、と記憶します。小学生ぐらいが、課外授業で随分利用していました。私も2・3度利用しました。クリスチャンの館長さんが、聖書の星座を解説してくださる、という時でした。昼寝でもするか、と思って行きましたが、まるで眠れません。面白く、楽しい時でした。
ヨブ記のプレアデス、オリオン。マタイのみ告げの星。ルカの輝く星。もう忘れた。

 「東方では、長い間クリスマスは1月6日に祝われていました。アルメニア教会では今日でもそうです。より一般的にはこの日は、キリストが三博士の前に現れた、その顕現を祝う日であり、彼らは象徴的な意味で、ユダヤ教以外の世界の異教徒たちを代表するのです」。聖書は、何処にも「三人」とは書いていません。お捧げした宝が三種であったので、捧げた人も三人、と後の人が考えました。
「マタイは博士たちを導いた星について述べています。ベツレヘムの星は多くの説を生み出してきました。ハレー彗星(紀元前12年に接近)だと考えた人もいます。天文学者ヨハネス・ケプラーは、前7年の木星と土星の同黄径上の接合がその星と関係があるという説を出しました。」1週間もすると公現日1月6日です。エピファニー、顕現祭、栄光祭。

ベツレヘムを目指した多くの人が居ます。現代に至るまでの巡礼たち。
治安も悪く交通機関も整っていない時に、大変なことだったでしょう。
その治安を守るためと言う大義名分を掲げたのが、12世紀ヨーロッパの十字軍でした。
 現代でも、大勢の人たちが、エルサレム、ベツレヘム、主イエスが踏みしめた大地をこの足で、一度で良いから踏んでみたい、と願い、足を運んでいます。アメリカのある大きな教会の牧師は、そのような信者の願いを叶えようと、毎年巡礼団を組織して、やって来るそうです。そうした巡礼の最初は、このマタイ2章にある東方の博士たちです。

イギリスの歴史家ビード(735没)は、三人の名を呼んでいます。
バルサザール、メルキオール、ガスパール。多分、これを基に、名作を書いた人がおります。ヘンリー・ヴァン・ダイク。書名は『もう一人の博士・・・アルタバン物語』です。
集合場所に急ぐアルタバン、その前に痛みに苦しむ人が現れる。それを助けるために、携えてきた宝のひとつを費やす。しかも時間に遅れ、出発され、一人取り残される。しかし彼は諦めません。追いつけるぞ、追いつくぞ。同じ星を目指して旅立ちます。
家畜小屋に着いたときには、エジプトへ出発した後です。あそこに見えるのがそうなのです、と言われ急ぎ後を追おうとする。また困窮者。宝をひとつ。見失い、さまよう。30数年後のことです。十字架に架けられたイエスにまみえるのは。
 何もささげることも出来なかったけれど、イエスの眼差しに、すべてを知り、理解し、赦し、受け入れてくださる大きな愛を見出し、アルタバンは深い喜びに包まれたのでした。
 「人を愛し思いやる心があれば、毎日がクリスマス。その愛の心を一年中持ち続けよう。
でもひとりでは続けようがない」。これはヴァン・ダイクの遺した有名な言葉です。

賢い人にも分からないことがあります。
何でも知っているように見えても、実は知っていることしか知らないのです。
・ 彼らには、その主がどのような方であるか判りませんでした。
・ 彼らは、誰に会おうとしているかも判らなかったのです。
それでも良いのです。無知蒙昧、野蛮人とされたすべての異教徒の代表として、メシア・キリストを拝することが許されました。その場所がベツレヘムでした。これは「パンの場所」という意味です。主の祈りは、「日毎の糧を与えたまえ」と祈ります。その日の「パン」です。人を生かすものです。神のご計画は、クリスマスの主によって、命を与えることでした。学者たちは、何も知らずに命がけで旅をしました。報いが与えられました。

私たちのベツレヘムは何処でしょう。聖書が、礼拝が、ベツレヘムであれば幸いです。
ベツレヘムはそこにある、ここにあるというものではありません。地図上の一点ではありません。私たちが、命のパンを受けるところ、それがベツレヘムです。