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2001年9月30日

《キリストの教えに立つ》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ福音書25:31〜46(イザヤ58:6〜12、アモス5:24、ミカ6:8)

使徒言行録を読みますと、その11:26に興味深い文章があります。
「このアンティオキアで、弟子達が初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。この古代都市は、シリアのオロンテス川を地中海から20数キロさかのぼったあたりにある美しい街です。大変豊かであり、文化的な人々が生活していたようです。
パウロの伝道活動を支援し、初代教会の拠点、基地として知られています。この街の人々は、ステファノの事件をきっかけにキリストの福音に触れるようになりました。エルサレム教会は、バルナバを宣教のため派遣しました。アンティオキア教会の盛んな様子を見て、バルナバはサウロこそこの地での宣教にふさわしいと感じ、見つけ出し共に働いたのです。
 バルナバは、慰めの子と言う意味です。その名に相応しいお人柄です。大抵の場合人の中には功名心が働いて、良いものを分かち合うことはなし難いものです。今日の人間を見れば、よく判ります。乃公出でずんば、と言う意気は盛んだけれど、人の労苦の実りだけを欲するような、いわゆる良いとこ取りが多いいようです。野心満々の政治家に良く見る姿ではないでしょうか。バルナバはその名の通り、主イエス・キリストの慰めを人々のうちに満たすために、サウロ、後の名をパウロと共に働きました。
 そのような姿を見て街の人々は、彼らの仲間をクリスチャンと呼び出したのです。これは伊達や酔狂で報告されていることではありません。呼ばれたもの立ちのほこりと確信を感じます。
アンティオキアは、ギリシャ・ローマ的な町です。たーくさんの神々が祭られ、崇められ、礼拝されています。或いは、哲学や思想、技術が重んじられるところです。そうしたものが主とされている只中で、クリスチャン。キリストの者たち、キリストに学び、倣い、従い、キリストだけを主と仰ぐ者と呼ばれたのです。神々に従わず、人の思惑をも気にせず、眞の神が何を求めておられるかだけを考えた人々と評価されたと言うことでしょう。
 クリスチャンとは何か、キリスト信者とは誰か、と問われた時私たちはどのように応えられるのでしょうか。キリストを信じるもの。キリストを唯一の基準とする人々です。そのキリストの基準は、聖書を通してよく知ることが出来ます。
厳しく言えば、聖書以外に基準とするものがあってはならないのです。

 マタイ25:31以下は、天国のたとえ話の一つとしてよく知られています。
40節と45節にいわゆる、譬の結語のようなものが記されています。
自らは知らずに他の人に対して行ったことの責任を問われている、と考えると随分厳しいものです。キリスト教保育連盟の機関紙に小さな文章を、何回か書いたことがあります。「貧しいと言われるアジアの青年が、なんと優しいことか」と言う個所が、編集者の目に触れました。差別的と取られます。先生が気をつけている事は判りますが、此方で直させてください。気付かずに傷つけることが如何に多いことか、恐ろしいほどです。神山教会でもそのようなことがあったら、どうぞお許しください。そしてご忠告してくださるようお願いします。
 ここで語られている事は、愛の教えです。愛は他を生かすもの、共に生きようとするものではないでしょうか。それは、旧約の中でも既に語られているものです。少しだけお読みしてみます。
イザヤ58:6 私が選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、
   しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
          新共同1339ページ
アモス5:21以下 (1663ページ)
  ここでは、正義と公平が行われていないならばおまえたちの礼拝は受け入れられない、と語られるのです。
その言葉を踏まえて、今日の譬が語られ、マタイ7:21以下で「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父のみ心を行う者だけが入るのである、と語られるのです。
そしてこの主イエスの言葉、心は、使徒パウロによって正しく受け継がれています。
ローマ12:17以下復讐は神の業。裁くな。悪に対しても善をもってしなさい。

天の国とは何か、考えます。バシレイア・トゥ・ウーラノイス。
バシレイアは、支配と言う意味です。やはりキリスト・イエスを主と崇め、その御
心に従うと言うことです。大空の向こうの遠く何処かにぽっかり浮かんでいるようなものではありません。今この私達の只中に起こって来るものが御国なのです。




 さてここで私達の只中の出来事を考えてみましょう。2001年9月11日の事です。
悲惨なテロ事件が起こりました。ニューヨークの世界貿易センタービル2棟が、ハイジャックされた旅客機に突入され、爆発・炎上・崩壊、死者不明・6000人以上と言う大惨事です。その日、遅くに帰りテレヴィのスィッチを入れた途端に、黒煙をあげる1棟とその向こうから回り込むように突入する航空機が見えました。次の瞬間、ブアーツと広がる赤い炎。目を疑いました。無謀、残虐、一体だれが何のために。誰であろうと、天人共に許さざる非道な行為、捕まえて叩き殺せ。これは偽りのない思いです。感情です。犠牲者のために、そのご家族、とりわけ小さな子ども達がこの事でどれほど大きな影響を受けるだろうかと考えました。復讐だ。まだ血の気が多いのです。
翌日だったでしょうか。ブッシュ大統領の演説を聞いている時に、肝が冷えるような感覚に襲われました。
 「私が裁く。誰であろうと探し出し殺す。報復する」。
私と同じ事を言っている。鏡で自分の姿を見て、ガッカリするのと同じなのかもしれません。キリスト教国アメリカを指導する大統領がこれで良いのか。
犯人はビランデル、かくまっているのはアフガンのタリバーン。これはアメリカの刑法が禁じている予断です。陪審制度をとり、公正な裁判をする国のはずですが、そのためには予断を排除しなければならない。クリスチャンなら、感情に流されてはならない。理性的な信仰によって判断すべきだ。憎しみに燃えている時なのはわかる。感情が主となっている。キリストが主なのだ。主に委ねるべきだ。
 テロリストには、法律に従った厳正な裁きを行うのが当然。
テロを生み出す土壌に対して私たちは戦いを宣言すべきだ。富の偏った蓄積、資源の浪費、力の一方的な行使。歴史的に繰り返され、怨恨と憎悪が蓄積され膨大なエネルギーになっています。武力の行使は一時的には国民の支持を受け、選挙にも有利に働くでしょう。然しやがて、憎しみは拡大再生産され悪循環を造っている事に気付くでしょう。
 私達に必要なのは、この悪い連鎖を断ち切ることです。われらの主の支配に服し、悪に対して善をもってする。愛しながらの戦いを展開すべきです。貧困に対する戦いを真剣に展開しなければなりません。血で血を洗う復讐は犠牲者が求めていません。ご遺族も「流血はもう止めてください」といいました。あの方達の命を、その死を無駄にしないためにも、諸宗教はその本質に帰るべきです。人を生かすこと。
私達の全生活において考えるべきことです。主を主とする。他の何者にも従わない。