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2001年12月30日

《平和の契約》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記 9:12〜17

今日は、三十日。21世紀最初の一年も残すところ後一日。私達にとって、またこの世界にとってこの一年は一体どのような意味を持っていたのでしょうか。正確な評価は、もっと時間がたってから定まるでしょう。定評蓋棺。政府の叙勲も70歳を過ぎてからと言うのが、今日の基準となっています。それでも70過ぎになっても現役を続けたため、刑事事件に巻き込まれ勲章まで返上したようなケースもあるようです。評価すると言うのは中々難しいことです。然し、自分にとってと言うことなら、語ることが許されるように思います。
 端的に言えば、20世紀と少しも変わらない、ということです。
20世紀は、戦争の世紀でした。この波に上手に乗った人は、時流を巧みに泳いだとも言われ、ニ・三世代の間に権勢家となりました。財務・経済・政治の力を蓄えました。
明治維新以来の流れでした。財閥が生まれ、特権的な貴族が君臨し、無産階級という貧民層、赤紙一枚で兵卒として戦場へ行く人々が出来上がりました。一旦、太平洋戦争で全てが崩壊したように見えました。人間が生きている以上、なにものも変わらないのでしょうか。特権的な人々の存在と貧富の差の存在は変わりませんでした。然しその中で変わったものもあります。
 20世紀前半は、まだ民族的な固有の文化を保持しようとしていました。後半は、軍事経済的な寄りかかり体制の中で、アメリカ一辺倒になっていきました。当然なのでしょう。挫折した軍事大国は、敗戦国として経済大国を目指します。吉田総理は、日米同盟により軍事予算の負担をなくしました。アメリカの国益にも適うものでした。敵国の再軍備を妨げ、国防の軍事基地を確保し、輸出の市場(製品と文化)を確保しました。朝鮮戦争後は、軍需工場の役割、最前線の支援基地、それ以上に迎撃ミサイルの探知基地の役割を果たしました。相互に仮想敵国として認識する限り、戦争は最終的には人間が出て行きます。人工衛星の発達があってもアメリカにとって、日本の有用性は続くでしょう。戦争がおこることを想定して、日本は繁栄してきました。その世界の中で期待される役割を果たしてきました。(非核三原則が守られているなどと信じることは出来ません)。経済の豊かさや外科手術の進歩は、確かに朝鮮・ヴェトナムの戦争のお陰を蒙っています。私自身の発病と治療は直接に関わっています。



ハンセン病療養所の方々にとっても特効薬の発見、開発や訴訟、公的補償なども、豊になった日本を抜きにしては考えられないことです。良いことを考えても、それには必ずと言ってよいほど悪いことが伴っている。これが、ノアの洪水物語の発端で示されていることです。事毎に悪いことばかり、存在そのものが悪なのではないかと思わせられてしまう人もある。また事故や、災害、戦争、自殺などで死んでゆく人が、優しい人であり、真っ直ぐな人であることに気付いて愕然とするのが、牧師である私であったりする。大体、牧師然として人前に立つなんてことは余程強気でないと出来ないこと。立派な牧師はほぼそうなんだと思う。自分には罪はない、義しい、という立場から他者を裁く。それは神の領域を侵すことに気付かないのか、無視するのか。
アウグスティヌスはこう語ります。
人は偶々自分が犯すことのなかった罪を他人が犯しているのを見て他者を裁く、
偶々行うことの出来た善を人が行っていないと言って他を裁いている。

ラーゲルクヴィストの「キリスト伝説集」の中に『むねあか鳥』という作品があります。神様が天地を創造された時に、一つ一つに名前をつけられるとその通りになった。
ところがむねあか鳥は何処を見ても灰色だけ。神様は創り損ねたのかなーと考え、お願いに行く。すると、言われた。そのままで好いんだよ、相応しい色を獲得する時が来るからね。やがて自分に良く似合う小鳥と出会い、胸も裂けよと愛を詠う。こうして赤い色を獲得するんだ と思いながら。然し何も起こらない。ベツレヘムの野に神様の御子がお生まれだと聞いて、自分の素晴らしい歌声を捧げてお慶びいただこう。精一杯詠って実に誇らしい思いはしたけれど、何も起こらない。カルヴァリの丘に向かうナザレのイエスを見て、その茨の冠から流れる血と汗に驚き、何とかしなければと思い、自分しか居ないことに気付き飛んでゆき刺を一本一本抜いてゆく。飛び散る血潮が灰色の胸に飛び散り赤く染めた。以来、名実共にむねあか鳥になった。この物語は、自分のために行うことは顧みられない。苦しんでいる他の人のための行いこそ神が喜ばれ、認められることだと語っている。
自由を他の人のために愛を以って働かせた時、与えられ、獲得することが出来る。


 人間は、与えられた自由を何のために用いてきたか。自分の欲望を満足させるために用い、同じような人と衝突し、対立し、分かれ争ってきたのではないだろうか。


神はこのような人間達の有様を見て心を痛め、哀しみつつ再創造を決意された。
決して創りそこねではない。
洪水によって人間の罪を洗い落とされたのだろうと考えるけれど、その割には人間は変わっていません。創り損ねではないのだから、そんなに変えるることもないわけでしょう。

むしろ積極的に祝福しておられます。最初の創造の時と同じ言葉で。

そして神と人の間の永遠の平和を約束して、その徴として大空の雲の間に虹を置かれました。英語聖書では、I set my bow in the clouds,となっています。文字通りには、
私はわたしの弓を雲の間に置く、という意味です。戦いの武器を置くのですから、戦争放棄と言えるでしょう。人間は、とりわけ多神教世界では、自分の都合で約束を平気で破ります。国と国の間の条約でさえ簡単には帰されることは歴史が証明してきました。それも唯一の神を信じるのだからご都合主義になるはずがない、と考えるキリスト教国が、異教徒を相手に契約、条約を破棄する。
こんな私達の世界に対して、主は哀しみこそすれ、戦いはしない。
逆に、その罪を赦す為にひとりごをお送りくださったのです。
虹を見る時にはいつもこの赦しの福音を想う事が出来るのです。