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2011年2月24日

《佐溝敏一兄葬儀説教》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
詩篇90:1〜17  ピリピ 4:4〜9

佐溝敏一さんは、2011年2月22日、午前6時10分、多臓器不全のため、天の御国へ帰られました。75歳でした。

故人略歴を申し述べます。

 この略歴と、私の知る限りの印象をまとめてみましょう。
考えるスタミナ、持続力がありました。
野球に打ち込む情熱ある青年でした。
病を得て、病魔と闘う勇敢な戦士でした。
職業人として忠実な働き人でした。
聖書を好み、良く祈り、教会の集会に参加する善い信徒でした。
温厚で謙遜な性格で、家族を愛し、愛された家庭人でした。

1月に肺炎の診断で入院、以来呼吸器のお世話になり、話すことはできませんでした。
それでも初めのうちは、言葉をかけると反応があるように感じられました。
ナースの話では、呼吸器の痛みを和らげるため、薬で眠らせていますが、話は聞こえています、話しかけて下さい、とのこと。反応があることに慣れているため、無反応状態では、戸惑うことが多いことに気付かされました。

召される前日、21日夕刻、今日はなんとしてもお訪ねしたい、と思い六西へ。
又来るからね、と声をかけて帰ってきました。思いがけないお別れとなりました。
佐溝さんにとっては、これほど早い皆様とのお別れとは考えていなかったでしょう。
そもそも今回の入院自体が予想外のことであり、しかも呼吸器につながれ、話も出来ないままのお別れ、予想外としか言えません。ご自身、そんなつもりではなく、じきに帰ることが出来ると考えておられたでしょう。言い残したいこともあったのではないだろうか、と思います。高齢者にとって肺炎は命取りになる、と聞く通りになりました。残念です。

 私たちは、日常生活の中では、死ぬ、死という言葉自体を忌み嫌い、避けるようにしています。死に係わることを汚れること、タブーとして、避けるようにしてきました。昔の人は、綺麗なお花が飾られていても、その花は縁起の悪いものとして、触らないようにしたものです。花に変わりはあるまいに、と言うのは合理主義とされました。
そうした私たちが、否応なしに死と向き合うのは、近親・友人の死の時、葬儀の時です。
死者からの最後の贈り物が、この時です。

この葬儀は、佐溝さんの信仰に従い、キリスト教で営まれています。
キリスト教では、死をどの様に考えているのか、佐溝さんはどの様に触れ合い、考えていたのか、知ることの一部だけでもお伝えしたいものです。

1982年ごろに、子供が玉出教会教会学校へ通っているので、自分も教会へ来るようになった。それ以来、日曜日は出来るだけ礼拝出席を心がけ、ついに翌83年、クリスマスに受洗しようと決意。
1983年12月25日、クリスマス礼拝で受洗。神様の選びに感謝する。

1985年4月21日発行の『壮年会だより』
「その後仕事の上でも責任ある立場に立ち、順調に行くと思いきや、半年くらいで上司と部下の間で苦しい時期が続いた。
受洗すれば楽なるのではと思う甘い期待が試練で打ちのめされ、却って聖書をよく読むようになった。いつもイザヤ書41章10節、『恐れてはならない。私はあなたと共にいる。驚いてはならない。私はあなたの神である。』を読み、又詩編23:4を読んでお祈りすることを日課としている。今後とも、できるだけ礼拝に出席できるように、お祈りして行きたいと思います。」

信仰は、それ自体成長し、発達するものです。楽にある、という甘い期待が打ち崩され、聖書を深く読むようになりました。神に深く信頼し、委ねるように成長します。

2000年9月の教会カレンダーより
「教会の中も一般社会と同じで、いろいろの問題、苦労、悩み、争いもあります。しかし神に祈り、又祈り合って、神に委ねることで、神が全て解決してくださるのです。
『人には出来ないことも、神には出来る。』ルカ18:27
神を信じるならば、あなたの人生を180度変えられます。恐れ・不安・苦難・失望の生活から、感謝・平安・勇気・希望の生活へと変えられます。
『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』使徒16:31」

 何を、お委ねすることが出来たのでしょうか。
愛するご家族が、同じ信仰に導かれることです。
おしゃべりは不得手です、と仰っておられました。信仰について論じるようなことはなかっただろう、と推察します。でも、心の中には、この祈りがいつもなされていたのです。
これが、他の人々のため、隣人のため、重荷を負いなさい、ということでした。

 さて、死については、どの様に考え、信じておられたでしょうか。
佐溝さんが書かれたものはありません。愛読聖句が、それを教えてくれます。
ヨハネ福音書11:25〜26、
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』

数年前のことです。入院中の佐溝さんをお見舞いし、おしゃべりしたことがあります。
その折、「私は、死ぬことを恐れません。」と言われました。驚きました。
禅仏教の高僧でも、死を恐れ、厭うもの、と聞きました。死にともない、死にともない。
佐溝さんは、何回も病気のために苦しみました。
その中で、「人間以外に何か大きな力がある」ことを知りました。確かに、思い通りにならないことが多くある。しかしその中にも、大きな力が働いて、よい結果を与えてくれた。感謝することが出来る。その先にあるものも同じ大きな力、神の力の働きだ。受け入れるのが当然。

このご葬儀に際し、改めて佐溝さんの愛唱讃美歌を伺いました。
312「いつくしみ深き」、320「主よ、みもとに近づかん」、520「安かれ、わが心よ」、298「やすかれ、わがこころよ」、
いずれも、心の平安を良く表現しています。
これが佐溝さんの信仰です。

死とは喪失、空無化、一切の終わり、これが普通の考えです。
信仰にあって、死は新しい命の始まりです。これを信じるところから平安が始まります。

 キリスト・イエスは、死んで甦った。このイエスを信じて、わが主と仰ぐのがクリスティアン、キリスト教徒です。
彼は、この信仰に立って、死を恐れず、死を受け入れ、安らかに、天の御国へ旅立ちました。やがて後の日に、同じ御国で再会することが出来ます。
その日まで、佐溝さんは、御国にあって、私たちを見守ってくれることでしょう。