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2010年12月5日

《旧約における神の言葉》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
イザヤ書55:1〜11

  降誕前節第3(降誕節第2)主日、社会事業奨励日、
  讃美歌15,187,422、交読文5(詩19篇)、

 月曜日、庭の植栽を手入れするため職人が入りました。
すっかり綺麗になり、クリスマス、新年を迎えるに相応しい、と感じました。
火曜日、金山クリニック。数値が悪い、痛みの再発です。薬量を戻しましょう。
それでも痛みはなくならない。痛みは集中力を奪う厄介者であることを再確認。
水・木曜日、集会。その夜、雨、深夜雷鳴る。
金曜、風強し。全国的に大荒れの天気となり、死者も出たと報じられています。

 「地震・雷・火事・親父」と言われます。これは怖いものをまとめたものでしょう。
否応なしに、全てのものを根こそぎ持って行ってしまう。確かに恐ろしい。
しかし最後、四番目の親父は少々違うように感じます。前の三つとは、理不尽、こちらの願いなど聞いてくれない、と言う点で共通点があるのでしょう。親父は、私もそうですが、理由も聞かずに突然、怒りだすことがあります。親父の側には、理由がある場合もあります。情緒、感情的な理由の場合もあります。いずれも怒りを向けられた側には分かりません。多分、分かっていても分かりたくない、対立のままにしたほうが、自分には都合が良い、ということもあります。
人間関係は複雑です。これらは、私たちの思い通りにならないもの、と言った方が良いかもしれません。

 私たちが生きている現代は、めまぐるしく変化し続けています。従来は、確実であり変わることなどないだろう、と考えられていたことまで変わって来ました。技術革新の結果、大きく変化したこともあります。気候変動もその結果のうちに考えられています。「風が吹けば桶屋が儲かる」と言う風な因果関係もあるでしょう。一般的に、技術革新は、人口増加を生み出し、それは環境破壊を伴い、気候変動となる、と認められています。

 一例として農業を考えて見ましょう。土を耕し、肥料を施し、種を播き、草を抜き、収穫の時を迎える。耕す機械が作られました。肥料の大量生産、種子の品種改良、生育期の管理方法の改良。安定した大量収穫が期待できるようになり、多くの人口を養うことが可能となりました。
一部の農産物に関しては、工場生産が進められています。
 
 こうした技術革新の成果は、工業先進国が享受してきました。途上国には、なかなか行き渡りませんでした。成果を得るためには、その原料の取得と排出物の処理が課題となります。そのことが、地球環境の問題となり、国際間で協議が重ねられ、解決の道を探っています。なかなか合意に到達できません。
 そうする間に、資源を武器とする考え方が表に出て来ました。
抑えてきたものが、なりふり構わず出て来た、と感じています。先を見通して、時代をリードする新しい考え方が必要です。地球規模で全てのものを再分配しなければならなくなっています。資源や生産物を地球規模で再分配し、貧富の格差を小さくして、共に喜び、共に生きる平和な世界を作ることが出来ます。創造の秩序の再建です。

 本日の聖書は、イザヤ書55章です。
 イザヤ書は、1章から39章までが貴族アモツの子イザヤの預言。BC,740年ごろからBC, 700年を少し回った頃までのイスラエルとユダ、そして周辺の関係諸国の状況、審判。

 40章から55章までは、通常第二イザヤの名で呼ばれています。イスラエルはバビロンで捕囚となっています。その中に名を知られていない詩人・預言者がいて、彼による預言です。捕囚民の解放とそのエルサレム機関の預言が中心。ペルシャ王キュロスがバビロニアを倒したのがBC,539年。BC,538年には、イスラエルが故郷へ帰る公式許可を出しました。そしてBC,515年には、神殿は再建され、再奉献されました。
 56章から66章は、第3イザヤとされ、シオンの山における神殿の再建と神による新しいイスラエルの、新しい創造が語られます。「残りの者」という印象的な言葉が用いられます。依然として偶像礼拝への厳しい戒め、審判が語られています。

 さて、既にお読みいただいた55章をご覧下さい。何が書かれているでしょうか。
1,2節は、解釈が分かれます。御国の様子、あるいは再建されたエルサレムでしょうか。
バビロンに残って金儲けに現を抜かしている人々に対する批判、とも取れます。神の都・エルサレムに帰ることが出来るのに、それを忘れて金儲け。魂は命を失ってしまいます。
3節以下では、帰還が勧められ、求められています。赦しが約束されます。

 8節以下、ユダヤ人の心にしっかり根を下ろしている考え方です。超越的な神の存在、と言えるでしょう。その神の言葉は、天地創造のときに働いたように、今も生きて働いていることが、語られますそれは、雨や雪のようです。
 12,13節では、エルサレム帰還の民に与えられる恵と喜び、エルサレムの新しい状況、光景が描写されます。荒れ果てた聖地は、緑滴る大地となります。
ここには、現代世界が直面し、困惑している格差問題はありません。聖書の時代にも格差はありました。ダビデ、ソロモンの富の大きさ、アッシリア、バビロンの豊かさ。その陰には貧しい多くの民がいました。然し預言される新しい創造世界は、それを知りません。

 55章は、全体として、神はその救いの約束を必ず現実のものとされる、という信仰が、美しい詩の形で語られています。
クリスマスの時期には、神の言葉が現実になった、ということが必ずどこかで語られます。その多くはヨハネ福音書第1章ででしょう。それは、天地創造と結び付きます。
創世記1章の創造は、主なる神の言葉による天地の創造です。
イザヤ書55章の預言は、創造の神への信仰を指し示しています。
それは、神の言葉による救いの約束の実現を預言しています。
今や、神の御子である主イエス・キリストの到来を、降誕を待ち望むことができます。
これこそ喜びの訪れです。

 この半世紀ほどの間に、日本の教会の用語に対する反省が語られたようです。それは『神』という言葉です。聖書翻訳に際して、日本では神道の用語である『神』を用いました。
これは諸外国でも事情は同じ、と理解します。たとえば英語、Godが用いられます。
聖書の神はゴッド、他宗教の神も同じゴッドです。超越存在を表す語は、ゴッドです。
勿論旧約では、他民族の神は、ヤハウェ同様名前をもっていて、その名で呼ばれます。
新約では、ギリシャの神の一つはアルテミスと呼ばれています。名前があります。しかし、キリストの父なる神には名前がありません。名をもって呼ぶことが出来ません。名を呼び、答える時、そこには主従の関係が生まれるという古代の考えがありました。
聖書の神は、名をもって呼ばれることを拒絶します。

 神道の神と聖書の神のどこに区別があるか、違う言葉を用いるべきだ、というものでした。それでは対案があるかといえば、納得できるものはありません。神に代わって「ヤハウェ」を使用しますか。古い学問の成果である『エホバ』を用いている宗教団体があります。余り違いがありません。
 私は、キリストの父なる神、あるいは天地創造の神で良いではないか、と考えています。
『賢いもの』『上帝』などの訳語もありました。むしろ同じ語を用いながら、その間の違いを明確にする言葉を結び付けることが、宣教上も宜しい、と考えています。


 旧約聖書の成立は、紀元前10世紀から始まると言えそうです。ヤハウェ資料に分類されるものの編集時期が、その頃とされています。以来3000年、何故、今も読まれているのでしょうか。ホメロスの『イーリアス』『オデッセウス』をはじめとする古代ギリシャの古典。司馬遷の『史記』や孔子の『論語』『詩経』。古典の中の古典と認められ、読まれています。

 ある時、新聞か雑誌がアンケートを作りました。究極の1冊でしょうか。
「無人島に漂着するとして、1冊だけ、書物を携帯できるとしたら、何を選びますか。」
やはり『聖書』がありました。それに次ぐのは『史記』でした。後は忘れました。
その中に、現代を導くメッセージを読み取っているからではないでしょうか。
無人島でそんなものを読んでも役に立たないではないか、死を待つ身としては聖書であるべきだ、という意見もあるでしょう。無人島にあっても、なお生還を望み、その日に備えて学ぶ人が多くいることに留意すべきです。

 長い間、読まれ続けている理由は、人間が抱いている最終の問題に対して向き合い、解決を与えているからです。それが人間の罪であり、罪からの解放・救いです。
この救いを約束する神の言葉が、今も生きて働いているのです。

 待降節第2主日は、バイブル・サンデイとされています。聖書日曜日。聖書普及活動に対する協賛の日、と考えます。そしてそれ以上に、聖書が今も生きて働く神の言葉であることを、強力に語る時です。聖書を喜び、感謝しましょう