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2006年5月28日

《キリストの昇天》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書17:1〜13

先週26日は昇天日でした。これは、主の甦りから40日目(使徒言行録1:3)。
従って、常に木曜日に当たります。日本のプロテスタント教会では、主日でないこともあり、あまり特別に祝されたりはしてきませんでした。

先週、木曜日の聖書日課は、列王記下2:1〜15です。天に昇る、ということが共通です。
これは、預言者エリヤが、火の馬にひかれた火の戦車で天に昇ってゆく場面です。

 詩篇102:13〜19(口語訳では12節から)は、近い将来、回復されたエルサレムを媒介にして神の全世界に対する統治が行われるであろうという確信、あるいは預言です。
とりわけ16節、神の回復の業を見て、外国の王達と国民もそのみ名を崇めるようになります。この主題はイザヤ40〜55章、たとえばイザヤ49:7に展開されています。
「その栄光」とあるのは、贖罪のみ業の中に明らかにされた神のご計画です。

 イザヤ45:1〜7は、詩篇との関係からもご理解いただけると感じます。
これは、異邦の王キュロスによる捕囚解放と言う神の経綸について非難するイスラエルが居たことを含んでいます。それが9節「災いだ」の始まる部分に反映しています。
しかし、基本的には、捕囚からのクロス王の手による解放とエルサレム帰還が預言されています。
1節に「主が油注がれた人キュロス」とあります。
 「油注がれた人」という表現は新約ではメシアースと音訳され、キリストを指す(ヨハネ1:41、4:25)ものとなります。しかし旧約では終末論的救済者を指すことはありません。むしろ現実の王(サムエル上2:10、詩18:51等)、祭司(レビ4:3、5、16等)、預言者(詩105:15)などの称号として用いられます。ここでは、44:28の「牧者(ローエー)」が羊の群れを牧するように民を指導する王を指すので、マーシーアハもその言い換えととってよいでしょう。異邦の王も、ヤハウェによって立てられたことが強調されています。
9節以下は、「陶器」イスラエルが「造った者」である神に抗議しています。恐らく、ご自分の民を異邦人の王を用いて救うという神の態度は義しいのか、という神義論的な考えによるものでしょう。  
それに対しては、11節以下で、ヤハウェが語ります。お前たちは、どれ程の資格があるというのか。創造主に物言う資格がある、という考えそのものが傲慢なのだ、と。

新約の日課は、エフェソ1:15〜23です。新しい訳では、「パウロの祈り」という小見出しが付いています。エフェソの手紙は、パウロが書いたことは疑わしい、とされます。それにも拘らず、パウロの名が用いられているのは、二つの理由に拠るでしょう。
一つは、この手紙の内容がパウロ的だから、絶対にパウロの名前を拒絶する必要はない、ということ。二つは、この手紙を書いた人の祈り、と言うよりも通りが良いから。
そうであっても、この部分は、この手紙がパウロ以外の、パウロ的な人の手によることを示しています。それはこのところの文体です。エフェソ書の特徴の一つは、長い文章です。
新共同訳は、この祈りの文章を、かなり気を使って訳しました。それでも、依然として長い文章で、何処から何処に係って、何処と関わっているのか、非常に分かりにくい文章です。そうした様々のことを考えたある翻訳は、この部分に「神への感謝と祈り」と言う小見出しを付けました。賢い、と思います。

 このところが選ばれたのは、20節によるものと考えます。
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」。
 最後22、23節は、圧倒的な力を感じます。
「神はまた、すべてのものをキリストの足元に従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。離れて天に昇ったイエスが、教会に満ち満ちているというのです。これが、ヨハネ17章、イエスの祈り・大祭司の祈りに結びつきます。世に残る者たちのための祈りです。世の民が守られるのは、昇天があるからです。

このところには、キリスト・イエスの死と復活、そして昇天との意味が良く記されています。神は御自身の圧倒的な、絶大な力をキリスト・イエスの上に働かせて、死者の中から復活させ、天に引き上げ、御自分の座の右に座らせました。最も低いところまで降りたみ子を、最も高いところ、神の御座の右にまで上げられました。
み子が棄てた命だから、神は新しい命に復活させました。
最も低いところへ降りたから、み子を高く引き上げられました。
それはすべての死者の先駆けとならせるためです。
キリスト教信仰には、逆説がつき物のように感じます。それが最もよく顕れるのは、使徒パウロの手紙です。たとえばフィリピ3:8。
「私の主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストの故に、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。
パウロはキリスト、救い主を知ることで、物事の値打ちがすっかり変わってしまう、と語っているのです。価値観の逆転が起こるのです。

私が尊敬する先輩牧師に、武藤健先生がおられます。
八戸の生まれ。青山学院神学部を卒業。東京帝大倫理学科、米国ノースウェスタン大学、ドイツベルリン大学留学。青山学院神学部長。本郷中央教会では1935年から確か70年過ぎまで主任牧師。その元で、生原優、林田秀彦などすぐれた教職を育てた。
最後のお仕事に選ばれたのが、青梅信愛荘の荘長でした。娘婿の赤星進先生とお尋ねしたこともあります。引退教職のための老人ホームを異かに住み心地の良いものにするか、これが私の仕事。そんなことを言っておられた事を思い出します。
説教集『知られたる我』の中の一つ『万物は汝のもの』は、このように始まります。
「使徒パウロの好んで用いた言葉の一つに『すべてのものは私たちのものである』というのがございます。コリント人への第一の手紙 三章に『パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである』という言葉で強くそれが表現されております。ローマ人への手紙8:32に『ご自分のみ子をさえ惜しまないで、私たちすべての者のために死に渡された方が、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか』とあり、またコリント第二、6:10に『悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべてのものを持っている』とあります」。逆説の信仰を語っています。

 キリストの昇天は、すべてのものに、すべてを与えるためでした。
彼の姿が見えなくなったのは、新しい、永遠の姿でお迎えするためでした。
私たちは、人の死を、世の人が悲しむように悲しむことはありません。
命が見えなくなるとするなら、それが新しい形で現れることを望み見ることが許されているのです。

 「山はそれを愛する者のものなのだよ」、これを讃美歌301番の訳者、別所梅乃助先生の言葉として教えられました。この星は誰のもだろうか。あの山は誰が所有しているのだろうか。驚いたことに、富士山は、御殿場市、駿河小山町、富士吉田市、富士宮市などが所有権を主張しています。

 甦り、天に昇ったイエスは誰のものでしょうか。イエスを愛するすべてのものです。
私たちは誰のものでしょうか。私たち一人一人を愛したもうたイエスのものです。この愛から誰が私たちを引き離すことが出来るでしょうか。ローマ書8:39でパウロは断言します。「どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです」。
喜ぶべきことに、私たちは、何も持たなくとも全てを持っています。