集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2010年6月27日

《神の計画》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
使徒言行録13:13〜25

  聖霊降臨節第6(三位一体節第5)主日、
  讃美歌67,313,293、交読文29(詩121編)
  聖書日課 エステル4:10〜5:8、マルコ6:14〜29、使徒13:13〜25、
       詩篇33:4〜11、

 夏至も過ぎました。これからは、梅雨が明けて、暑さ本番となりますが、その頃には、暑い日盛りが短くなっているわけです。本当にうまく出来ている、と言うか、上手に生活を計画できるものだ、と感じます。素敵な配慮だ、と感じます。

最近、この辺でもたいへんカラスが多くなりました。大きな声で鳴いて、威嚇されているように感じます。ゴミ袋を漁っています。辺りに散らかして、汚くしています。
一方、スズメとメジロ、ムクが減ったのではないでしょうか。スズメは群れが小さくなりました。メジロは、今年は一回、一羽だけやってきました。ここでは、ウグイスを聞いたことは、余りありません。数えるほどです。

前回、宣教への派遣についてお話しました。神の召命は、人間的な常識とは異なる、ということなどでした。今回も重複するようなことになるでしょう。あらかじめお断りし、お赦しを請います。

本日の聖書は、前主日の続きです。パウロはバルナバと共に、シリアのアンティオキア教会から派遣されて、宣教の旅行に出立しました。セレウキアからキプロス島へ船出します。サラミスに着き、ユダヤ教の会堂でキリストのことを宣べ伝え、教えます。

この言行録にしても、パウロの手紙にしても、教会の宣教内容がどのようなものであったかを示します。しかしこれらが書かれたのは、十字架と復活の時よりかなり後のことになります。
10年も語り続け、教え続けていたら、その内容は整理されてくることでしょう。

今私たちが読んでいるのは、パウロの死後、書かれた文書でしょう。従って、宣教内容も整理されたもの、編集の手が入ったものを読んでいるのだろう、と考えています。

さて前主日は、魔術師エリマーの出来事をお話しすることが出来ませんでした。
この礼拝でお話しよう、とも考えましたが、《神の計画》という主題では、それだけでもいくら時間があっても足りません。エリマーのことは各自でお読みいただき、お考えいただくことにします。どうぞおゆるし下さい。私の思い出を一つ。

ハリウッド映画『エルマー・ガントリー』は、バート・ランカスター主演の1960年作品。
酒と女と賭博で身を持ち崩したエセ伝道師の物語という筋書き。神学校へ行く前だったかと思うが、余りよく分からなかった。大人の映画だったのかな、と思います。ランカスターの純真ぶり、間抜けな悪党振りが印象的だった。彼は、すでに『地上より永遠に』『空中ブランコ』『マーフィ』『ケンタッキー人』で大スターとなっていたし、その後も『大列車強盗』『大空港』など話題作、名作に出演していました。
あの映画は、魔術師エルマーを下敷きにしたものではないか、と思いますが、未だそのような論評を見たことがありません。私だけの半知半解の愚考でしょう。

さて本日は、宣教の旅行の始まりとパウロの説教に集中しましょう。
パウロの一行は、パフォスから船出した、と記されます。彼らはキプロス島のサラミスに到着しました。そこは島の東側の港町、細長い島を横断しておよそ150キロ、西の端に来るとそこがパフォス。聖書の終わりの方に聖書地図があります。これをご覧くださると良く分かるはずです。頭の中にこの地方の地図が描けるようだと、地図を見るまでもありません。出港する船が目指すのは、ローマ帝国のパンフィリア州の首都ペルゲです。

 地図で見ると、地中海の北岸、現在のトルコ中央部の港町。大きなケストロス川(現今のアクス川)の河口から12キロ上流にある町。この町ペルガの北部、アクロポリスには、有名なアルテミスの神殿があります。

 アルテミス(古典ギリシア語:ΑΡΤΕΜΙΣ, Ἄρτεμις, Artemis)は、ギリシア神話に登場する狩猟・純潔の女神である。のちに月の女神ともなった。
神話によれば、ゼウスとレートーの娘でアポローンの双子の妹(一部、姉とする文献がある)。また、デーメーテールの娘とする説もある[1]。オリュンポス十二神の一柱とされるが、本来のヘレーネス(古代ギリシア人)固有の神ではない。
 その名は古代ギリシア語を語源としていないと考えるのが妥当である。アルテミスは、ギリシアの先住民族の信仰を古代ギリシア人が取り入れたものと、現在の研究では考えられてい[2]。

 アルテミスの信仰は、エフェソの町でも盛んでした。使徒言行録19:23以下参照。
ここでも、パウロたちの宣教に腹を立てた町の人達は、パウロの一行を襲い、暴動になりそうな気配すら見せます。町の人たちは『大いなるかな、エフェソのアルテミス』と口々に叫び、騒ぎとなりました。実は、この騒ぎの原因はパウロの宣教内容そのものではなく、金儲けの口がなくなることを恐れた銀細工人デメテリオの扇動でした。これは、前主日《悪霊追放》と題して考えた悪霊の働きそのものです。マンモンの神に支配され、仕える者たちの姿です。

 話を戻しましょう。パンフィリア州のペルゲに来たパウロの一行はどうしたでしょうか。
助手として連れていたヨハネマルコが、ここからエルサレムへ帰ってしまいます。
何故別れたのか?  興味があります。

 何故アンティオキアでなく、エルサレムへ帰るのか?アンティオキア教会の派遣で、伝道旅行に出たはずです。
ステファノの時の迫害を逃れてアンティオキアへ来たヨハネマルコです。帰るべきところはエルサレム、故郷エルサレム、ユダヤ人として誇ることが出来るのは黄金の都エルサレムでした。
そして、この考えが異邦人への宣教・伝道を軽く見る態度に繋がり、バルナバ、パウロとの間に壁を作ることになり、協力を難しくさせたのではないでしょうか。

 教会は、最初の時代から対立と分裂を繰り返して来ました。
理由は、福音理解の違い、考えの違いです。特に、福音理解が同じようでも、実際に何を大事にするか、という点になると大きく食い違ってきます。
バルナバとパウロは、福音理解に基づいて外国人にも主イエスの愛は伝えられねばならない、と主張します。ヨハネマルコの主張は、書かれていませんが、エルサレムへ帰ったことから、ユダヤ第一主義、と考えます。
私たちの間でも、何を大事にするかを巡って争い、対立し、別れることが多いのです。
間違いなく、自分の経験、経歴を大事にします。その否定は、これまで築き上げてきた自分を否定することになるからです。でも主イエスはすべてをご存知であり、認めてくださっているのです。人がどの様に言おうが、考えようが構わない、という信仰者でありたい。

 さてバルナバとパウロはどうしたでしょうか。ペルゲを出発して、ピシディア州のアンティオキアに行きます。この町はフィリピと似たところがあります。高台の健康的なところに建てられた町、前25年、ローマのガラテヤ州に編入され、さらに前6年、皇帝アウグストウスによって帝国の植民都市とされ、カイサルの名を冠せられカイサリア、南ガラテヤにおける軍事・政治の中心とされました。皇帝礼拝の拠点。
シリアのアンティオケ、ピシディアのアンティオケと共によく知られています。

 この町にあるユダヤ教の会堂で、パウロは話します。
会堂の説明は、省略します。ただ、ユダヤの人たちにとって、礼拝と教育の場であった、ということは申し上げておきます。これを擬似神殿だ、と批判する正統派もいます。超・ウルトラをつけた方が良いかもしれません。
 普通、安息日・土曜日に礼拝があります。その日のために選ばれた聖書が読まれ、通常律法学者がその解説を話します。またその会堂のメンバーは、誰でも話すことが出来るし、時には客人に依頼することもあります。パウロは遠来の客人として頼まれたのでしょう。
読まれた所は不明ですが、一般的な話をしている、と言えるでしょう。

 出エジプトの出来事から話し始めます。神は、私達の先祖を選び出してくださり、エジプトにいる間に強大なものにしてくださった。奴隷として生活していたのに、数を増し、力のある集団とされました。
 荒野をさまよう間、民は神に背いたが、神はそれを耐え忍んでくださった。そしてカナンの地をお与え下さいました。その後、裁き人を任命されました。単なる裁判官ではなく、行政、軍事・外交にいたる指導者を指しています。
預言者サムエルの時、人々が王を求めたので、それに応じて、キシュの子サウルを与えられました。40年後彼を退け、ダビデを王位につけられました。そして言われました。
 「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見出した。彼は私の思うところを  すべて行う」。
そしてこのダビデの子孫からイスラエルに救い主を送ってくださったのです。

 パウロは旧約聖書に記された、神による救いの歴史を説き明かしました。歴史には、《神の計画》が語られていました。神はその民を愛し、守り導くお方。私たちもその民。

 新約聖書を重んじることは当然です。しかし旧約聖書を排除してはなりません。神の救いのご計画が、どれほど壮大なものであるか、解からなくなってしまいます。旧・新両訳聖書を正しく読む時、神の恵みの大きさを見出します。聖書を一日3章読みましょう。聖書を通読するなら、神の救いの計画、恵の意志を知る者になります。

 24節から、バプテスマのヨハネのことを語ります。彼は、神の計画の中で、ダビデの子孫、主イエス・キリストが来られることを預言し、この方である、と指し示しました。ヨハネについて、神のご計画があったことを申し述べています。

 私たちの礼拝も、神の計画の中にあり、救い主が来られたことを讃美し、指し示しています。その意味で、私たちみんなが、神のご計画の中にあり、用いられています。
 私たちは、さまざまな考えを持ち、福音の理解も異なります。なかなか一つになれません。
違いばかりが目立ちます。そうした中でも、神のご計画を重んじ、それに従い、自らを委ねようではありませんか。