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2010年5月9日

《父のみもとへ行く》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ16:12〜24

  復活節第6主日、讃美歌82,444,517、交読文23(詩96篇)
  聖書日課 創世記18:23〜33、ローマ8:22〜27、ヨハネ16:12〜24、詩編15:1〜5、

 皐月の花が終わりました。代わって躑躅がぽつぽつと咲き始めました。
この後は何になるのでしょうか。ぶどうの花や紫陽花でしょうか。
教会の庭は、小さいけれども花が一杯です。冬から初夏まで、花が途切れる事はありませんでした。たいしたものです。豊かな庭です。
 教会の本質、キリストの福音、神の愛を、咲かせなければなりません。

 さて本日の聖書は、ヨハネ福音書16:12〜24。ヨハネ福音書については、前々回だったかな、その特徴などを少しお話しました。もう少し、お話しましょう。

 ヨハネ福音書の中に記される地名、とりわけエルサレムの地名に関して、以前は疑問が呈されていました。ヨハネは現場を知らない、と言われたこともあります。現代では、ヨハネの記述通りの場所、地名が確認されるようになり、その歴史性が強く認められるようになりました。この福音書に対する信頼度が高くなった、ということです。

 この福音書では、共観福音書と違って、大きな段落構成になっています。第9章などは、全体が『生まれながら目の不自由な男の癒やしの奇跡』になっています。
これを映画の手法にたとえると、三福音書は、現代風な欧米や韓国の映画です。小さな、短い、カットを積み重ね、フラッシュバックなども使いすばやく場面転換を図る。全体がスピーディーに運ばれ、飽きる間もない。

 それに対してヨハネは、大きくて長いカットを幾つか用意している。カメラを据えて、長廻ししている、編集は当然、それを生かすようにしている。全体は、ゆっくりと確実に流れる。
小津安二郎など日本映画を感じさせます。じっくり、説得してきます。
 それは実存的、とも言われるヨハネの語り口に結び付くのでしょう。
二つのものを対比させる語り方は、二者択一を迫ることになります。
光と闇、イエスに従うか背くか。そこでは沈黙は背きに数え入れられます。

 13章の始めで、「過越し祭りの前のこと」とありました。その枠の中で主イエスは、ユダに対し、「なすべきことをして来なさい」と言い、外へ行かせられました。13:30
その後更に、イエスは語り、教え続けられます。この流れは、17章まで続きます。私はこの章を『大祭司の祈り』と学びました。今は小見出しが『イエスの祈り』と教えます。
 確かにイエスの祈りです。それを大祭司の祈りと呼ぶことには理由がありました。
この祈りは、弟子たちのため、またそれに続くすべての人たちのために、執り成しをしています。旧約以来の伝統では、神と人の間に立って執り成すのは大祭司です。

 また、ヘブライ人への手紙4:14以下と7:26〜28には、偉大な大祭司イエスを語ります。
この大祭司は、民のため、自分のために日ごとに生け贄を捧げる必要はありません。『この生け贄はただ一度、ご自身を捧げることによって、成し遂げられたからです』とあります。将に主イエスは、まことの大祭司です。そして祈りそのものが執り成しの祈りであれば、『大祭司の祈り』であると覚えてしまうのです。

 こうした長い枠組み、段落の中で、本日の箇所は半端に見得る切り方になっています。
ヨハネ16章だけでも、たくさんのことが語られています。幾つかに分けて考えて見ることにしましょう。前のほうから読むことにしました。勝手をおゆるし下さい。

 16:1〜4は、前章の続きです。ユダヤ人たちにより、あなたがたは迫害されるだろう。
「会堂から追放される」と、預言されます。弟子たちもユダヤ人です。会堂、シナゴーグは、そのユダヤ人共同体の地域拠点です。会堂に集う事は、同じユダヤ人である、という意識を高め、強くするものでした。追放される時、彼ら、弟子たちは、何処へ行けば良いのでしょうか。ユダヤという民族の枠を超えねばならない、と示しておられます。

 イエスの弟子たちは、国を越え、民族を越え、自分の家を超えた考えを持つようになる、と預言されたのです。それは、世界伝道者パウロの活動の中に現れました。異邦人伝道のチャンピオンと呼ばれるパウロです。彼は、十字架につけられたイエスこそ、世界の救い主・キリスト、メシアである、と伝えました。そこでは国境もなければ、身分や、言語、皮膚の色なども関係なかったのです。

 2節は恐ろしい文章です。
「あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。
迫害と殉教の時代に起こることが、予言されています。それぞれの民族は、それぞれの神を信じているでしょう。そうした自分の神に忠実であり、殺人も、自分たちの宗教、信仰に忠実なためである、と考えるのです。

 「奉仕」は、ローマ12:1「あなたがたのなすべき霊的な礼拝です」、で用いられるラトウレイアが使われています。キリストを信じるものを殺すことが、神に奉仕すること、神を礼拝することだ、と信じるのです。直接には、ユダヤ人たちが、です。然しこの預言は奇妙な形で成就します。ナチスによるユダヤ人虐殺。ヒトラーに対する忠誠が、ユダヤ人殺害を正当化し、ヒトラー讃美に連結します。
 もっと恐ろしいのは、自分の利益のために、キリストの名によって侵略と略奪を行ったキリスト教会です。十字軍遠征、アメリカ大陸征服、確かに教会は手を汚してはいない、と主張できるでしょう。その利益を手にしただけです。殺してはいない。そうです、見ない、聞かない、言わない、知らない。顔を背けているのです。

 以前お話したイタリア映画『ロベレ将軍』を思い出します。第二次大戦下のイタリア、二人の者が牢獄で出会う。そのひとり詐欺師が、間もなく死刑になろうとする抵抗運動の青年に言う。
 「私は何もしていない、無罪なのにこんなところに入れられてしまった」。すると青年。
 「この時代、何もしないということが罪なんだ」。青年期のわたしの心を打ちました。
ビットリオ・デ・シーカ監督の名作の一つです。自身、詐欺師を演じました。ある評論家は、20世紀の名作100本に入れています。

 歴史は、イエスの預言が、何度も実現していることを示しています。それなのに、わたしたちは、教会は気が付いたのでしょうか。まさか、顔を背けてはいないですね。

 16:4〜11には、弁護者が来る、と語られます。弁護者は、ホ パラクレートス、パラカローから出た言葉です。助けのためにそばへ呼び寄せられたもの、法廷の弁護人です。
「新約聖書では、私たちを断罪せんとする者に対して罪人の側に立って弁護してくださる方として、キリストおよび聖霊についてこの語が使われている。助け主と訳されることがある」。
このように辞書にあります。

 今、主イエスは、この世を去るべき時が来たことを知り、悲しみで胸が一杯の状態です。
また、弟子たちの心も悲しみで満たしている、と語ります。そこで、わたしが去って行くことは「あなたがたのためになる」と告げられます。どの様に、でしょうか。
来るべき弁護者の働き、役割が、語られます。姿は見えません。その結実によって分かります。

 罪を明らかにします。それは、イエスをキリストと信じないことです。聖霊は人にその罪を悟らせます。人は悟ったときに、悔い改めます。覚罪意識、という言葉があります。
罪を憶える、自覚する、認識することです。たいてい、ある日忽然として感じるようです。これが聖霊の働きです。

 義について、世の誤りを明らかにする。世は自分の義をたて、自分を誇ろうとしてきました。それが誤りであり、世の人が誇ることが出来、より頼み、信頼できるのは、御子イエスの義なのです。「イエスを信じる者を義となさる」のが神の御旨です(ローマ3:26)。
十字架に死んだイエスを義人として信じさせるのは、聖霊の働きです。

 裁きについて、これも御子イエスを裁いた世の誤りを示し、まことの裁きは主なる神にあることを教えます。とすれば、その後の人々、現代の人間も、全く同様に、自らを神の座に立たせ、裁き手になっていることが思い起こされます。現代の傲慢な人間、私たちを謙遜にするのは聖霊です。神に委ねる謙遜さ、と言えるでしょう。

 この聖霊なる助け主が、16:12に続きます。真理の霊、とされます。それは、この聖霊なる助け主は、真理を悉く悟らせるからです。主イエスは言われます。「間もなくあなたがたは、私を見なくなる、そしてしばらくすると見るようになる」と。弟子たちも解からなかったようです。私たちが解からなくても不思議はありません。
 見えなくなるから、見えるようになる。いなくなったから、いるようになる。これは本当のことです。もしイエスが地上で生存していたなら、それは地上の一点に限定されてしまいます。 天に昇られた時、何時でも、何処でも、生きて働く主となられました。
そして、御子は、父なる神を顕すものとなられます。栄光をお受けになります。
「栄光は、神ご自身を顕す啓示である」。
先日、ヨハネ15:8を読みながら、お話させていただきました。

 16:23「私の名によって求めなさい」、15章にもありました。
 私たちが主イエスの名によって祈る根拠です。然し、祈っても叶えられない現実があるのは何故でしょうか。苦しみ、悲しみ、の中で、また決して自分の欲望充足のためではない、世界平和を求めても叶えられません。どうしてでしょうか。

 一つには、私たちが、呪術的にイエスの名を考え、用いてしまうからです。
ユダヤ人祈祷師が、イエスの名を利用しようとしたように(使徒19:13)、またイエスの名を盾に、イエスが嫌うことを求めたり、聖霊に反することを願ったりしてきました。歴史はそうしたたくさんの出来事を残しています。キリストの名によって先住民族を圧迫した時代もありました。

 もう一つは、苦しみや悲しみの中で、何が大切かを知ることであり、私たちの成長のためです。私は、こうしたことを皆様に申し上げる勇気がありません。皆様のように多くの、また大きな悲しみや苦しみを経験していない、と感じるからです。したがって、これは自分に言い聞かせる言葉、と致します。

 そうであっても、このような罪人が、取るに足らない者が、イエスの名によって求めるなら与えられる、という約束をいただいているだけでも素晴らしい恵みです。
『主イエスの名によって』と口にする時、今迄よりもっと深く感謝することが許されています。さあ、感謝しましょう