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2010年4月18日

《まことの羊飼い》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ10:7〜18

  復活節第3主日、讃美歌54,496,527、交読文6(詩23篇)
  聖書日課 エゼキエル34:7〜18,?ペトロ5:1〜11、ヨハネ10:7〜18、詩篇23:1〜6、

 国内では、例年にないような気象状況の変化に驚かされ、野菜が余りに高くなり、家計が苦しくなると言う悲鳴が聞こえてきます。そうした中でも、山吹が咲いて、散り、桜も八重の品種に移り、シンビジュームや皐月が開き始めました。と言えば初夏の響きです。
そうした中、関西で幼児虐待事件が続発しました。
 国外に目を向けると、中国の青海省玉樹県大震災、死者一千人を越えました。富士山頂並みの高地のため、高山病になる人も多く、救難活動が難航しています。
 アイスランドの大噴火、航空機が飛べなくなりました。欧州各地で空港が閉鎖されました。 今後、どの程度まで影響が広がるか、それが何時まで残るのか心配されています。
 春といえば、暖かく、明るい時。どうしたことか、暗く、冷たく、悲惨なことが起きています。地獄が現出しているようです。

本日の聖書は、ヨハネ福音書です。久し振りですから、おおよそのことも少しお話しましょう。
「第四福音書の背後には、独立したきわめて古い伝承があり、その伝承は、イエス・キリストの歴史的な事実に関する我々の知識に寄与するものとして、真面目に考慮しなければならない」C.H.Dodd 1963年

 書かれた時代は、エジプトの砂の中から発掘されたパピルスの研究により、紀元100年より前に書かれたとされます。
 かつて、ヨハネの地理的な知識は貧弱である、とされてきました。しかし、ベテスダの池の発見やピラトの官邸の発見は、それを覆しました。

 また《死海写本》の発見とその研究の進展は、第四福音書に新しい光を投じました。
ヨハネは、光と闇、命と死、というような二元論的な論述を好みます。かつては「古代のグノーシス主義のギリシャ的で形而上学的な二元論である」とされてきたものです。今では、クムラン文書の中に同じ二元論を見出しています。それは形而上学的なものではなく、倫理的で終末論的なものです。
 この福音書と死海写本の背景には、旧約聖書と、ラビ的並びにそうでないパレスチナのユダヤ教がある、と考えられています。
 更に共観福音書との関係について、かつては依存関係が認められました。しかし今では、それは少数意見に過ぎず、大部分の学者は独自のものであることを支持しています。
すなわち、「ヨハネは共観福音書に対し独立しているだけでなく、イエスに関して自分の自由になる、パレスチナにおける非常に初期の口伝をもっていた」。C.H.Dodd1963年、

 この福音書の文体も研究されてきました。結論を言えば、ヨハネはアラム語を話し、アラム語で考え、コイネー・ギリシャ語で福音書を書いた、となります。

 ヨハネの実存主義、と呼ばれるものがあります。実存主義または哲学は、北欧デンマークの人キエルケゴールのものです。
 「実存主義的に考える、ということは、生死の究極的な問題を傍観者として考えるのではなく、それに関する決断に自分をゆだねるものとして考えることである」A.M.ハンター。それは聞く者に『見て、判断して、行う』ように要求します。二元論的な提題はそれを求めています。将に、あれかこれか、です。

 概論は、このくらいにして、本文に入りましょう。
 ヨハネ福音書10章、本日の箇所は、おおよそ四つの部分に分かれるでしょう。そしてそれらを、「私は命を捨てる」という言葉が結びつけています。

 A わたしは、羊の門である
 B わたしは良い羊飼いである 羊飼いは羊のために命を捨てる
 C 私は羊を知っている、羊もわたしを知っている。羊のために命を捨てる。
 D この囲いの外にも羊はいる、私はそれらをも導く
   この部分は、二次的編集句とされ、世界教会的関心に基づく挿入であろう、と推測されて   います。

 ここで、良い機会ですから「はっきり言っておく」という表現についてお話しましょう。
口語訳聖書では「よく言っておく」あるいは「よくよく言っておく」と訳されました。
文語訳聖書では「まことに」、「まことにまことに」と訳されていたことを記憶しています。
ギリシャ語聖書は、アメーン アメーン レゴー フミン となっています。ここでは、たいへん馴染みのある言葉が用いられています。お祈りの終わりに、心を一つに唱えるアメーンです。また讃美歌を歌い終わるときの言葉です。
 その意味は、「私もそのように考えます、信じます、その通りです」ということです。ある人々は、異議なし、の意味である、と主張しました。今ではあまり言われません。

 私たちが教会で祈る時、このアーメンが小さくて、力がない様に聞こえることがあります。 祈りの声が聞こえないこともあるでしょう。その内容にアーメンが言えない事もあるでしょう。大きく、力強くアーメンと言えるように祈りましょう。

 主イエスのアーメンは、これから話す事は間違いのないこと、全く真実なことです、と宣言しておられるのです。嘘、偽りはありません、と言われ、そのことに命を掛けておられます。
私たちのアーメンとはだいぶ違います。

 「羊の門」は、当然その囲いを前提とします。
外部の襲撃から羊を守る囲いがあります。それは同時に、危険な外へ出て行かないように守る囲いです。内側に囲い込む役割を果たしています。頑丈な扉がつけられた囲いもあります。扉の代わりに、羊飼いが横たわる囲いもあるそうです。将に、私は羊の門である、と言われた通りです。入るもの、出るものを決定する力があります。

 「羊飼い」に関して、聖書の伝統的な考え方があります。
族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブからダビデ王、そして主イエスに至るまで、羊飼いと認められています。

 「羊飼い」に関して、古代世界に共通する考えがあります。
ツキディディス『歴史』ペルシャのキュロス王は羊飼いであった、と記します。
ホメーロスの『オデッセゥス』。トロイを去り、長い放浪の後、故国イータケに帰ったオデッセゥスは、敵の目を逃れるために羊飼いに身をやつします。
ギリシャ神話では羊飼いは、王になるための通過点と考えられていたようです。
羊飼いには、王になる人と同等の資質が求められたからでしょう。

 古代から現代に至るまで、羊は常に、たいへん有用な家畜でした。犬は、人類の最初の友人であった、と言われます。羊は、肉、毛皮、羊毛、内臓、角に至るまで何一つ捨てるところのない、利用度の高い動物です。礼拝の犠牲の供え物にもされます。毛織物は、衣類や紐、天幕に用いられました。性格は温厚で優しく、先頭に立つものに従います。自分を守る武器すら持たず、他を脅かすような事はありません。狼は声や匂いで脅かします。
 その上多産であって、一年に一回以上出産し、8頭程度は普通でした。肉は美味しく、現代でも正式な晩餐は羊がメニューとされます。
古代世界で羊は、たいへん貴重な財産です。その羊を飼う人には勇気と力と注意深さ、粘り強さ、警戒心などが求められました。それが一国の王、指導者に求められるものでもありました。

 当時の羊飼いは、自分の羊その一頭一頭を「知る」のが当たり前でした。羊は、自分の羊飼いを知っていました。単なる認識を超えていたようです。創世記で、初めの人と神との間にあったような、呼べば応える関係にあったようです。

 ヘレニズム世界の『知る』とヘブライズム世界の『知る』では、その内容が違います。
トレモンタン著『ヘブル思想の特質』やボーマン著『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』などが、そのことを指摘しています。ヘブライの世界では、「知る」ことは、全人格的な交わりを意味します。単に呼ばれたら従うようなことではありません。見分けることだけでもありません。その羊のために命を捨てるほどに守ることです。そうして、命を得させるのです。

 主イエスが、この譬をお話しになられました。ご自分がこの羊飼いであること、羊飼いになることを承知しておられます。その事は、私たちに向けて、語られています。

 良い羊飼いは、その羊のために命を捨てる。羊を守り、生かすために命をかけます。
これこそイエスが、十字架で命を捨てられた真の意味です。
「私はあなたのために命を捨てる。あなたに命を得させるために」と言っておられます。
この言葉は、そのまま実現されました。私たちが羊であり、イエスが羊飼いであることを受け入れる者は幸いです。命を得ることが出来ます。

 ペトロはその第一の手紙2:25で、語ります。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです。」
ヨハネの実存主義、と申し上げました。

「見て、判断し、行う」者になろうではありませんか。
感謝して、讃美しましょう。