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2010年1月17日

《最初の弟子たち》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ1:14〜20

  降誕節第4主日、讃美歌6、124,502、交読文24(詩100篇)
  聖書日課 エレミヤ1:4〜10、使徒9:1〜20、マルコ1:14〜20、詩編100:1〜5、

 寒さが続いています。14日に張った水鉢の氷は、15日の朝までそのままでした。周辺は解けましたが、大部分は固く凍ったまま朝を迎えました。そして、昼過ぎには、強い風に波立っていました。今朝は、庭の西側や駐車場の草の上に霜が降りていました。まだまだ厳しい寒さがやってくるでしょう。庭の桜の木に鶯が止まり、笹鳴きをしていました。

 厳寒のさ中に春への予兆を感じました。更に、庭のフェニックスの南側に出してある洋蘭の鉢に、花芽を見つけました。七回目の冬を越そうとしている鉢です。シンビジュウムかと思います。知らないって恥ずかしい事だ、と思いますが、身近に教えてくださる先生がいたときには、あまり関心がありませんでした。何時でも教えてもらえる、と考えていました。亡くなられて初めて、残念なことをした、もっと教えて頂いておけば良かった、と感じました。それが出来ないほど忙しい生活だった、というのも事実でした。

 ところで先日、PCでラヂオを聞くことができた、しかも、クリスマス音楽専門のチャンネルがあって、終日聞かせてくれる、とお話しました。クリスマス・シーズンが終わったらどうなるだろうか、興味がありました。1月6日を過ぎて、何回か聞きました。ずーっと、クリスマスが続いています。この調子だと、一年中クリスマスのようです。ということは、それだけ需要がある、聴かれている、ということなのでしょう。
良く知られた音楽ですが演奏する人たち、その形式はさまざまです。マリオ・ランツァという懐かしい名前も出てきました。サラ・ブライトマン、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、カーペンタース、ルチアーノ・パヴァロッティ、馴染みの名前が一杯です。

 日本でも誰でしたか、ある音楽家がFM放送で、「自分はクリスマス音楽のコレクターです」と言っているのを聞きました。良く考えると、一年中クリスマス、というのは当然の事なのです。
私たちキリスト教会が、シーズンなどと言って、クリスマスを季節限定商品のようにしてしまうことの方がおかしいのです。一年中、主イエスの御降誕を喜ぶ信仰者でいたいものです。

 さて、本日の主題は《最初の弟子たち》です。
 此処には、主イエスの宣教、その第一声が記されています。
ヨハネは、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。主イエスが彼から洗礼をお受けになった事は前回お話しました。
ヨハネが、ヘロデの命令で捕縛された事は、マルコ6:14以下にあります。
ヨハネが舞台から退場すると、代わって、主人公の主イエスが登場します。ヨハネの役どころは、とても大事な前口上役でした。『世界は劇場、人間は役者』、と言ったのは、英国のW・シェークスピアです。一人一人は、それぞれの役割を与えられています。それを果たすことが出来るのは、たいへん幸いなこと、喜ぶべきことです。

 第一声に続いて、弟子の招きがなされています。このふたつは無関係ではないでしょう。
第一声は、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。
「時は満ちた」は、プレーロータイ ホ カイロス、満たす、一杯にする、充満させる、全うする、完成する、などの意味を持ちます。
カイロスは、ふさわしい時期、季節、時代などを表します。類語にクロノスがあります。こちらは、継続している時間、一定の期間、を指します。
カイロスを用いたのは、この語によって、神が定められた時を示そうとしたのです。ですから「神の計画された時が近付いた」と考えます。

 「神の国」は、ヘー バシレイア トゥ セゥー、 これは国と訳されますが、領土、国土よりも支配を意味する言葉として知られています。
「近付いた」は、エーンギケーン、 まだ来てはいないが、限りなく近い状態を指します。

全能の神は、何時でも、私たちのもとに来ることが出来るはずです。それなのに来ていない、と言われます。何故でしょうか。神の気まぐれでしょうか。

 其処には、完全な到来を妨げる何かがあるのではないでしょうか。
それは、私たちの側の不信仰、福音を福音と認めない、喜びとはしない心です。
懐疑、猜疑、嫉妬、憎悪、自己防御、自己絶対化、自己中心主義、
それは、人間の内側に潜む、自分を守るために他を否定し、拒絶しようとする想いです。
そこで私は、神の御支配は到来しているのに、私たちがそれを拒絶しているために、私たちのものにはならない、と理解します。

 主イエスがいましたもうなら、其処はいつでも神の国なのです。これこそ主イエスの宣教第一声が意味するところです。主イエスの到来を拒絶する者たちがおりました。
ことによると、クリスマスの喜びを季節限定にしようとする私たち教会の考え方そのものが、言われているのかもしれません。
 ガリラヤ湖の漁師たちに声をかけられた主イエスは、真の支配者がいて、まさに来ようとしている状態へと漁師たちを招かれたのです。その招きを承諾した彼らは、その真っ只中に主をお迎えしました。これこそ神の国ではありませんか。主が来られただけでは、神の国とは言えない。受け入れる神の国民がいて、神の国です。
 あの漁師たちは、これまでイスラエルの神を信じながら、異教徒の支配に甘んじなければなりませんでした。イエスの第一声は、希望を抱かせました。彼らが求めて来た異教徒支配を排除するもの、と信じさせるに充分でした。
彼らはイエスを、神の支配をもたらす者として受け入れました。
それでも彼らは、その帰結、最終の結果を正確に知っていたわけではありません。
イエスの十字架、従う者たちへの迫害と殉教を知り、対処する事は出来ませんでした。

 主は、シモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になりました。
そこで声をかけられます。「人間をとる漁師にしよう」
この翻訳は、声をかけている主イエスが、彼らを漁師にする、という気持ちが強く出ているように感じられます。二人は、すぐに網を捨てて、従いました。
 シモンは、後のペトロ。12人の者たちの代表格と認められた人物。ローマのヴァティカヌスの丘で十字架にかけられ、殉教した、と伝えられます。この人が、後に初代のローマ教皇と認められ、崇敬されます。代々の教皇は、このペトロの後継者です。Peter

 その弟アンデレは、ヨハネ福音書の二箇所で言及されています。伝説では、ギリシャのパトラスで、X型十字架に架けられて殉教します。遺体はコンスタンティノポリスに運ばれました。そのためもあり、コンスタンティノポリスおよびスコットランドの守護聖人です。
英語ではAndrew

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、舟の中で網の手入れをしていました。これを御覧になるとすぐに、彼らをお呼びになりました。
彼らは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行きます。
主イエスは、後に彼ら二人をボアネルゲ・雷の子らと呼ばれます。激情型だったようです。

 ヤコブの名は、イスラエル十二部族の祖ヤコブにちなむものです。それだけに、聖書に現れる名も多くあります。ゼベダイの子は、区別のため大ヤコブと呼ばれます。彼は後にスペインに伝道した、と伝えられています。あるいは、彼の遺体がスペイン北部に運ばれたともいわれます。サンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂は、彼に捧げられています。生前・死後の奇跡により尊崇を受け、今日に至るまで、最大の巡礼地の一つとなっています。またヤコブが、リ・コンキスタドール(イスラムに支配されたスペインをキリスト教国家に回復する戦い)を助けた、と信じられています。James

 ヨハネも聖書ではよく見られる名です。彼は、イエスの愛弟子、イエスは十字架の上からこのヨハネに母マリアを委ねました。福音書記者とは別人です。
 ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、この三人は、弟子集団の中核をなしています。

 主イエスに従う、弟子となる、とはどういうことでしょうか。
イエスこそ主であり、この世界の只中に神の御支配をもたらす方である、という宣言を、聞いて受け入れることです。これを受け入れた者は、一切を捨てる者となります。
網を捨て、舟を捨て、父も雇い人も捨てることが出来ます。これら捨てたものは、彼らが資産を持ち、人々に力を及ぼす地位にあること、指導力を持つことを表します。資産、地位、指導力、家庭、優れた技能によって生きること、これらすべてを捨てて、未知の生き方を始めなければなりません。私たちも弟子のひとりです。

  聖歌580番(リヴァイバル聖歌79)は、教会へ行き始めた青年時代に知ったものです。
    主はガリラヤ湖の漁師に告げぬ  「網を捨て置きて 我に従え」
     また主は疲れし世人に告げぬ  「罪を振り捨てて 我に従え」

 其処から、聖歌581番の折り返し部分を歌います。
     いずくまでも往かん、いずくまでも往かん
     いずくまでも往かん、愛する主の跡を

 違う人が、違う時に作った二つの讃美歌ですが、主の招きと弟子の応答を見事に言い表し、渾然一体となっています。そのことを見つけ出したのは何方でしょうか。わたしは知りません。わが国では、リヴァイバル聖歌、聖歌を使うホーリネス系の教会が、このような形で歌っていました。東京教区の中学生修養会について行き、知りました。半世紀前のことです。その時の中学生の一人は、この春神学校を卒業して教会へ赴任します。
 また、この讃美歌を教えてくれた付き添い教師のひとりとは、後に神学校で再会、同級生となりました。中田重治の孫、中田羽後の甥に当たる有馬式夫牧師です。すでに無任所になり、専門分野で活躍しています。たいへん有能な偉い先生です。

 従う時、自分側の都合は尋ねられていません。「如何ですか、宜しかったらついてきませんか」とは言われません。此処に本当の道がある。永遠の命に至る道がある。従ってきなさい。あなたが、これまで値打ちがある、価値があると思い、大事にして来たものを全て捨てて従いなさい、と言われます。支配的であった全てのものを振り捨てることです。

 招かれる時には、将来に対する保障は何もないのが普通です。主の御跡を歩みましょう。
一人一人の事情もあるでしょう。何処までなのか、と感じることもあるでしょう。それでも、立ち止まって主の背中を見送るような事はしたくないですね。遅れても、ゆっくりでも、離れそうでも、歩みを進めましょう。それは、礼拝の生活を続けることです。聖書を読み、祈ることです。何かをする、しない、ということではありません。

礼拝することが許されています。この恵を感謝しましょう。祈ります。