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2006年2月5日

《私のお父さん》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記22:1〜14

讃美歌16,225,290、  交読文4(詩16篇)

 今回、説教題を考え、更に内容を黙想していると、これまでとは違う言葉に目を惹かれました。従来は、アドナイ・エレ、礼拝、などの言葉に注目したものです。今回は、「私のお父さん」、と言う言葉でした。これは、イタリアオペラの有名なアリアのタイトルにも見ることが出来ます。何故、これまで気付かなかったのだろうか、口語訳を開きました。多分文語訳も同じでしょう。「父よ」です。これでは連想しにくかったのでしょう。

 聖書の中での「私のお父さんは」、全く事情が違います。読みましょう。

アブラハムとサラの夫婦に与えられた神のやくそくは、もじどおり、成就しました。長い間どうしても子どもが出来ず、諦めるしかない状態、年齢になってはじめて、男の子が与えられました。彼らは喜びました。当時、古代世界にあっては、子どもは神の祝福のしるし、その力の表れと考えられていました。子どもがいないために味わう悲しみ、苦しみは現代よりも大きかった、と考えられます。神はこれまでの苦しみを、喜びの笑いに変えられました。その名をイサク、笑い、としました。神が彼らを笑うことの出来る者とされたからです。どれ程苦しんでいたか分かるような気がします。彼らは笑うことすらなかったのでしょう。まるで苦行僧のようだったのです。

 いまや、子孫が増し加えられるという神の約束を信じて待つことが出来るようになりました。イサクは、その希望の星です。光です。彼らの家庭は、ようやく光を得て、明るく楽しむことが出来るようになりました。
 そして多くの日の後、神の言葉が再び顕れます。どれ程であったか、分かりません。イサクが、薪を背負って旅をすることが出来るほどに成長したことは分かります。

「独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。驚くべき言葉です。この神の言葉は、折角希望を確かなものに感じ始めたアブラハムに、その希望を捨てよ、というのに等しいものでした。希望の源となった我が子を、自らの手で殺せと告げられたのです。

愕然、驚愕、理解不能、絶望。茫然自失。暗澹たる思い。

その中から、どうやって折り合いをつけたものか、出かける支度をします。

モリヤの山は、後にエルサレムと同一視(歴代下3:11)されるようになります。

またここでは、この事が神の試みであると前以って記されていますが、当然、アブラハムはそのことを知りません。

この間に、アブラハムは神の主権を考えたことでしょう。神がイサクをお与えくださった。主与え、主取りたもう、主の御名は讃むべきかな。言いたい、しかし言えない。

このような、理不尽な言葉は信じがたい。従いたくない。

しかし、イサクは神から与えられた奇跡の命だ。私の子どもであって、私のものではない。神の主権の下にあるとしか言いようがないのだ。しかし、一旦与えた以上、勝手にして欲しくない。私たちのものにして欲しい。理不尽だ。勝手に奪い取るなんて許せない。

一度与えた希望を、奪い取るなんて、余りに残酷だ。酷すぎる。非道だ。そんなことなら、最初から与えなければ良いじゃないか。そこにあるのは、パニック状態です。混乱です。


結局、アブラハムは納得できず、泣きの涙で出かけたのだろう、と私は考えます。彼は、

そのことをサラには何も語っていません。その理由は、自分が納得できなかったから、サラに話しても、納得させられないことが判っていたからでしょう。

 これは、私たちの人生でしばしば起きていることではないでしょう。しかも、自分のことではないときは納得するのも早く、当人を説得しようとする。しかし、実際に同じことがわが身に起こると、何故だ、どうしてだ、そんなことありかよ、と歯軋りしたり、地団太踏んだりする。あるいは黙ってうつむき、涙する。すぐには納得できない。

さてアブラハムは、イサクと二人の若者を連れて、出かけました。犠牲の羊を連れていません。いつもと違う事です。その上、足取りが重いのです。お父さんと出かける、といえばたいていの子どもは喜びます。気持ちが重くなるような歩みだったことでしょう。

多分ベツレヘムまで行きますと、谷の向こうにエルサレムを見ることが出来ます。目を凝らすと見えた、と記されます。この辺で若者たちと別れた、と考えますが、遠過ぎるでしょうか。二人で歩いて行きました。

ここでようやく会話が出てきます。親子が三日間一緒にいて、ここまで会話がない、とは信じられません。しかしあったとしても、核心に関わることは話されなかったのです。

イサクは、ここに至るまで疑問に感じていたことをようやく口にしました。「わたしのお父さん」、犠牲の家畜をお父さんは持っていない。どうするの? 


これを読んでいると、もう一つ響いてくる声があります。アッバ、という言葉です。ヘブル語の父という言葉です。マルコ14:36、ローマ8:15、ガラテヤ4:6で用いられています。いずれも天地創造の父なる神を呼ぶものです。「父」という日本語は、書き言葉であり、話し言葉ではありません。会話では、普通「お父さん」が用いられます。

マルコは、ゲツセマネの祈りの場面です。「アッバ、父よ、あなたにはなんでもおできになります。この杯を私から取り除けてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

私の心の中では、イサクが父アブラハムに呼びかける「お父さん」、アッバという言葉の中に、「我が父よ、我が神よ」という悲痛な響きを聞いてしまうのです。自分の心情の読み込み、と言われるでしょう。聖書はアブラハムとの会話としてしか書いていないのです。

しかし、ヴェールシェバからモリヤの山までの道行きを考えてみてください。事情を知るのはアブラハムただ一人。事情を話したい。しかし何を話せばよいのか。何も話せないまま、三日間を過ごす。直線距離にして65キロほどのところ。一里四キロ一時間、という徒歩旅行の常識に従えば、ちょうど二日の距離。その間、イサクが何も気付かないとは、私には考えられません。子どもは親の心を驚くほど感じるものです。何かを感じている。その中から生まれた叫びです。お父さん、父の神よ、苦しみの中にあるこの父を救ってください」。表面の呼びかけの中に、神への叫びを聞いてしまうのです。重複しています。

 アブラハムは、「神様が備えてくださる」と答えます。普通は、ここにアブラハムの信仰を見るようですが、彼は、イサクこそ捧げ物であると知っています。ここでは言えなかったのだ、と考えます。

 アブラハムは、祭壇の前まで来るとイサクを縛り上げ、薪の上に載せます。刃物を取り、

屠るためにこれを振りかざします。ちょうどこの場面を描いたのが、レンブラントの絵です。「イサクの犠牲」1635年、サンクト・ペテルブルク、エルミタージュ美術館。その絵では、振り下ろそうとするその瞬間、み使いが顕れ、アブラハムの手を掴み中止させています。非常に印象的なものです。記憶に残ります。聖書は、そこまでは記していません。御使いは語りかけ中止させた、とあるだけです。言葉を以って創られた世界では、言葉によって重要なことが起こります。アブラハムの信仰、神を畏れる者であることが分かった、と言われます。

 すると、ちょうど旨い具合に、近くの木の枝に角を取られている雄羊が目に飛び込んできます。これを捕らえて、捧げることができました。そして、この所を「ヤハウェ・イルエ」と名付けました。「主は備えて下さる」という意味です。かつては、「アドナイ・エレ」、と読まれ、それ以前は「エホバ・エレ」と読まれていました。「主の備え、山にあり」という意味には変わりはありません。

 元来この物語は、人身供犠の習慣を正すためのものであった可能性があります。それを用いて、何を語ろうとするのでしょうか。

神はわたしたちの信仰に関心を寄せている。愛の対極は無関心です。神の愛の表れです。

本当にわたしたちが、何を主と崇めているか、知ろうとされているアブラハムは、苦しみの中でなお神を主と崇めた。従った。神を自分の都合に従わせようとするのは、真の信仰ではありません。ここにアブラハムの信仰があります。しかし決して英雄ではありません。わたしたちと同様、悩みつつ信じ、従った人でした。

このことが語られました。感謝しましょう。
欄外

「わたしのお父さん」プッチーニ作曲、1918年「ジャンニ・スキッキ」

レナータ・テヴァルディ(62年録音)、サラ・ブライトマン(01年録音?)

   おお、私の好きなお父さん    私とってもあの方が好きなの

   これから2人でポルタ・ロッサの町へ   指輪を買いに行かせてください

   ええ、ええ、どうしても行きますわ!   もし、おゆるしがなかったら

   私たちヴェッキオ橋へ行き   アルノ河に身を投げる決心です!

   ほんとに心から愛しているのよ!   ああ!生命をかけて!

   だからお父さん、どうかお願い!

本当に綺麗な楽曲です。メロディーです。学生時代からテバルディの歌唱が好きでした。久しぶりに聞きました。変わりません。同じ時期にマリア・カラスが現れ、人気を奪い取られた感じがあります。しかし長く活動し、最後は声楽教師としても名を残しました。

テノールのジュセッペ・ディ・ステファノとの共演も良く知られています。

オペラ好きには、ある種、幸せな時代でした。

ローマ書はパウロのものです。「あなたがたは・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」ローマ8:15

ガラテヤ書も同じパウロのものです。「あなたがたが(神の)子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」

                         
ガラテヤ4:6アッバというヘブル語をギリシャ語に訳すとパテールとなることを示しています。

そのまま記せば、「アッバ ホ パテール」となります。

 こうして苦しんだアブラハムの信仰が認められ、万事解決、となります。何か忘れていませんか、と言いたい思いです。神はこのように信仰者を手玉にとって楽しんでいるのか、ということ。そして、イサクの悲しみにも触れていない。イサクは、影が薄い人です。エサウとヤコブの父としてだけ存在の意味があるようです。もちろんそれはそれで大事な事です。しかしこの出来事は、イサクの生涯にわたって大きな影を落としているように感じます。わたしたちは、自分の信仰の義を通すために家族をも犠牲として捧げるのでしょうか。だいぶ前の事ですが、ものみの塔、エホバの証人の信者が息子の病気に際して、信仰がそれを禁じるからということで、輸血を拒否しました。これと同じ事です。