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2010年1月10日

《イエスの洗礼》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ1:9〜11

  降誕節第3主日、讃美歌546、16、123、285、539、交読文12(詩42編)
  聖書日課 出エジプト14:15〜22、?ヨハネ5:6〜9、マルコ1:9〜11、詩編36:6〜10、

 新年の第二主日となりました。「北風小僧のカンタロー」を歌いたくなるほどに、寒い日が多くなりました。今日。明日は穏やかな日となりそうです。そのあとは、再び荒れた天気で、寒くなるようです。早く体と気持ちが冬に馴れてくれると良いのだが、と願っています。

 最近、年若い友人から、心温まる、そして非常に鋭いお便りをいただきました。頌栄女子学院のかつての同僚です。その方は、「年末年始に何回か映画館へ行って、マイケル・ジャクソンの映画を観た。彼の発する音楽の力に非常に感動した」、と言われます。そして、「先生は何か感動したこと、ものがあるか」、と問いかけてこられました。これが鋭いところです。こちらが予期していないところ、こちらの弱いところに、気付かずに振ってきます。

 齢の所為でしょうか、最近は大きく感動することがありません。これが弱みです。
その代わりでしょうか、小さな感動はたくさんあります。その度に、この説教や書いたものでお伝えしています。この年末年始には、孫の成長振りに驚かされました。身内のことですから省略します。
 今回はもう一つ、教会の西、正門の北側にひと群れの芝桜があります。今頃は冬枯れです。その中に青い葉があり、ピンクの可憐な花が僅か四輪程見られます。ほかにも、一本の先端に花芽があります。何本かはこれから花芽を見せるかも、と期待させられます。この冬の真っ最中に何たることか、なんと頑張っていることよ、と感動しています。

本日の主題は《イエスの洗礼》です。
伝統的な教会暦では、公現日の次の主日に、「主の洗礼」を主題とします。
さてその公現日ですが、顕現祭、エピファニーとも呼ばれ、2,3世紀頃には、キリストの降誕、洗礼、カナの婚宴などを記念する時とされました。
4世紀以降、東西両教会の交流が進むと、西方教会の12月25日を降誕祭とする習慣が広く受け入れられ、東方教会もこれを認めました。そして1月6日には、洗礼、カナの婚宴を記念するようになりました。更に西方教会は、この日を全世界に対するキリストの顕現を記念する日としました。また西方教会では、この日に「東から来た学者たち」(マタイ2:1〜12)を記念する習慣になっています。本当は、たいへんにぎやかな祝祭日です。私たちの間では静かなものですが、記憶にとどめていただきたいものです。
こうした動きは『祝祭日の交換』と呼ばれますが、東西の教会が互いに良い意味の影響を与え、受けていたことが伺われます。

 洗礼とは何でしょうか?水を注ぎかけ洗うこと、単純に言えば「水で汚れを洗う」、ということです。汚れがなければ洗う必要はない、ということになります。
 もう一つ、キリストと共に死に、共に生きることを指し示す、意味があります。

 新約聖書ではただ二箇所(ヨハネ3:22、4:1)、イエスがユダヤで人々に洗礼を授けていたことを伝えています。
 ヨハネの洗礼は水によるもので、「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、人々を悔い改めて、神に立ち返らせるよう促すものとされます。これは全ての人に向かって発せられている言葉である、と理解されています。

 主イエスは、このヨハネによる「悔い改めのバプテスマ」をお受けになります。
 御一緒に、もう一度、読みましょう。
「その頃」昔の人は今のように、年月日で表現する習慣を持っていません。そのことが起きたとき、というような意味です。歴史家でも、「・・・王が即位して・・年の後」、という形で表現します。あるいは天変地異あるいは戦争なども、年月日のように用いられました。「イエスはガリラヤのナザレを出て」、この地名は旧約聖書の時代には登場しません。マタイ福音書では、エジプトから帰ってきた一家が、ナザレに落ち着いたことを伝えてくれます。
ルカ福音書では、降誕後、最初の神殿詣でのとき、シメオンが讃美を捧げ、女預言者アンナが預言しました。このことも律法が定めたことのうちに入るのでしょうか。神の御心が定めたことであるのは確かです。すべてを成し終えた一家は、「自分の町であるナザレに帰った」2:30とあります。長年にわたって住み暮らしているナザレ、と感じます。

「自分の町」と言う言葉には、自分たちの一族、部族が主から与えられた嗣業の地、という感じもあります。然し、ダビデはユダ族であり、その嗣業はエルサレムから南の地方です。ベツレヘムの近辺には「ユダの荒野」と呼ばれる所があります。
ナザレは、マリアとヨセフ、イエスにとって「自分たちの町」ではあっても、先祖伝来という意味ではありません。

「ヨルダン川」に来ました。遠く北の方ガリラヤ湖から南へ直線距離にして105キロ、死海に注ぎ込む川です。水源地バニヤスからの実際の全長は、蛇行するため302キロにも及びます。流域は、「裂け目」と呼ばれ、北端では幅6キロ、途中3キロに狭まり、エリコ平原では23キロにもなります。亜熱帯とされます。渓谷には植物が繁茂しています。
ガリラヤ湖は地中海の212メートル水面下、死海は水面下392メートル、この間の落差は180メートル。その流れは、両岸の粘土層を削って奔流となり、茶褐色に濁っているそうです。残念ながら観たことがありません。

 列王記下5章では、シリアのナアマンが、預言者エリシャのヨルダンの流れで身を洗いなさい、との求めに対し、拒絶反応を示します。「シリアの川の方が綺麗だ。何故ヨルダンで洗わねばならないのか、」と怒ります。
 5:22「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。
 ヨルダン川は、多くの人の願望に背いて、決して清流ではありません。

 この川のどの辺りだったのでしょうか。恐らくエリコ近辺の渡河地点のあたりでヨハネは活動し、そこへイエスがやってきたのでしょう。1:6にはヨハネの身なり、生活が記されています。服装とは言いがたいものです。
「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていた。」
こうした記述は、クムランにあったエッセネ派の宗団の、暮らしぶりのようだ、と指摘されます。厳格に律法を守る人たちです。岩波キリスト教辞典によると、
「彼らは、現在を終末直前の時代と捉え、旧約聖書の正しい解釈が排他的に彼らに啓示されたと考え、彼らの体験に直結させつつ聖書を解釈する。神殿体制の非難、腐敗堕落を糾弾し、神による新しい神殿建立を待望、預言者とメシアの到来を信じる。」とあります。
 ヨハネの語ることを受け入れ、信じてバプテスマを受ける人、弟子となる人々もいました。

 このヨハネのもとにやって来たイエスが、彼からバプテスマを受けます。
 マタイ、ルカ両福音書記者は共に、主イエスがヨハネから洗礼を受ける必然性を疑っています。
 マタイ3:13からイエスの受洗の出来事が記されます。ヨハネは思いとどまらせようとします。「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」、とまで言います。それに対してイエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とお答えになりました。そして17節、
「その時、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

 ルカは、より簡潔に語ります。3:22「洗礼を受けて祈っておられると、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」
 制止するヨハネとのやり取りは、語られません。
 いずれも、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とします。
父なる神が肯定したお方である、ということで、主イエスの受洗を受け入れたのです。

 ヨハネが、イエスにバプテスマを授けることをためらった理由をもう一つ。
 イエスは罪を犯されなかったのに何故、悔い改めのバプテスマを受けたのでしょうか。
ヘブライ4:15「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」
主イエスは、全く罪を犯されなかった、と強調されています。

 福音書記者たちも同じことを感じたようです。
罪を犯されなかったなら、神に立ち返る悔い改めの洗礼を受ける必要はないでしょう。
ヨハネ自身が、「私よりも優れた方が来られる。私は、その方の履物の紐を解く値打ちもない」と言っているのに、何故、その後から来る、優れた方に悔い改めのバプテスマを授けるのでしょうか。

 キリストの公生涯の初めは、このヨハネによる悔い改めて神に立ち返る洗礼です。
御子イエスは、一度も父なる神から離れたことがありません。それでも救い主への生涯に歩み入る為には、御旨に沿うこのバプテスマが必要でした。こうして、御旨に近付く大きな一歩が踏み出されます。すべての罪人の罪を贖う救い主の生涯は、すべての罪人同様、悔い改めの洗礼を受けることで始められねばなりませんでした。そのことによって、すべての罪人は、罪なしと見做されるようになりました。

 キリスト・イエスが、すべての罪人同様になり、バプテスマをお受けになったことにより、罪の赦しの道が開かれました。この事は、十字架と甦りによって明らかになったことです。これは信仰の秘密に属すことです。私たちすべてに啓示されました。
「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、そのことを示しています。

 言行録13:22ピシディヤのアンテオケにおけるパウロの説教
ダビデを立てて王とされるときの言葉、「私はエッサイの子ダビデを見つけた。彼は私の心に適った人で、私の思うところを悉く実行してくれるであろう。」
イザヤ42:1も同じです。

 キリスト・イエスはすべての罪人の罪の贖いを果たすため、先ずバプテスマを受けました。信じて洗礼を受ける者は、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者となります。そしてここに示される大きな愛によって、神の子とされるのです(?ヨハネ3:1)。

感謝しましょう。