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2009年11月29日

《主の来臨の希望》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
イザヤ51:4〜11

 降誕前節第4(待降節第1)主日、
 讃美歌11,96,354、交読文9(詩29篇)
 聖書日課 イザヤ51:4〜11、?テサロニケ5:1〜11、マルコ13:21〜37、詩編82:1〜8、

 先日、玄関前にたくさんの毛が落ちていました。人のものなら、事件か?ということになりますが、ベージュの短い毛でした。いつもこの辺で遊んでいる野良猫のものです。
冬を目前に控えて、いよいよ衣替えをしたのでしょう。

 ここの庭には常連の鳥がいます。ひとつはスズメとヒヨドリ。これは個体数が減ってきたのだろうか、と感じます。もうひとつはキジバトです。一日中、出は入りし、地面に下りて、草の間で餌を探しています。それを物陰から狙っているのが野良猫。よく肥えているので、捕まえられっこない、と思いますが万一ということもあります。私の姿を見せ、追い払うようにします。猫好きの方もいらっしゃるはずです。たいへん申し訳なく存じますが、私は猫よりも小鳥の方が好きなのです。お許し下さい。

 バード・ウォッチャーは、世界中に大勢います。その観察の記録はさまざまな形で見ることが出来ます。いろいろな鳥の名前が出てきます。一番知られているはずのスズメとカラスに関しては、余り観察記もないし、ましてや研究もなされていないようです。アメリカではありふれた鳥と考えられ、観察も研究もされなかったリョコウバトがある日姿を消しました。乱獲と公害のために絶滅してしまったのです。すべて人間のしたこと、しなかったことが原因です。自然界にとって、人間こそ公害そのもの、ではないでしょうか。

 先週水曜日に、衣川さんのご好意により、例年のようにモニュメントが設置されました。
西側正面の大きな壁面を飾るようになっています。今年もクリスマスがやって来る、という感じが強まります。そして今日がアドベント・待降節第一主日になります。
 12月25日、クリスマスの前、四主日を御子の御降誕を迎える準備のために捧げます。
およそ4週間足らずの短い期間ですが、この間に飾り付けの準備をしたり、クリスマスケーキを準備したりします。聖歌隊はクリスマス・レパートリーを整備し、新しい楽曲を練習したりします。
 ドイツの家庭では、主婦がクリスマスに備えてシュトーレンを焼き始めます。丸太に似せたケーキですが、焼き立てではなく、数週間日を置いて、熟成したものを食べる。丁度フルーツケーキのようなもののようです。何回か戴いたことがあります。クリスマスの頃が美味しいのですよ、と聞きながら、その時まで待つことが出来ず、その本当の味はいまだに知らないままです。待つことの大切さを学ぶのも、待降節の意味です。
同じようにドイツでは、クリスマス・ツリーを準備します。大きな樅の木の間に生えてくる小さな木を伐ってきます。これは間伐の意味があり、森林の整備に欠かせない作業です。
樅の木を準備するとその枝から林檎の実を吊るします。みどりの葉っぱの間から赤い実が顔を覗かします。これもそれなりの美しさがあります。赤と緑の対比。
 クリスマスが過ぎると、林檎は枝から外されます。そして鍋に入れられ、ジャムに作られる運命が待っています。最後まで、無駄なく用いられます。
アドベントの日々は、クリスマスを迎える準備期間として、無駄なく用いられます。

 さて、待降節第一主日の主題は《主の来臨の希望》、聖書はイザヤ書51:4〜11です。
ご一緒に読んで参りましょう。

 少々話が逸れますが、藤田章子さんからのお手紙に、お母さまのミヨエさんがなくなられた時は、丁度アドベント第一主日の礼拝の最中でした、とありました。しかも11月29日だったとのことです。1987年のことでした。22年経って、同じ日が巡り来て、その日に記念会をなさることを希望されたわけです。神様は、なかなか味なことをしてくださる、と感じます。

 話を元に戻しましょう。このイザヤ51章は、いわゆる第二イザヤとして知られるところです。時代的には紀元前6世紀、イスラエルといってもその南半分、ユダ王国が戦争に敗れ、国の指導的な者たち、また戦争に関わる技術者たちが、バビロニア帝国の首都バビロンへ捕らえ移されていった頃のことです。586年が最後の連行です。バビロンはたいへん大きな都で、ユーフラテス川の中流域にありました。同じ地域にはバグダッドがあります。シェヘラザードや、シンドバッドが登場するアラビアン・ナイト『千夜一夜物語』の町であり、今日では、イラクの首都としてその名が知られています。

 イザヤ書40章から55章までが、第二イザヤと呼ばれます。第一の部分は、貴族であるアモツの子イザヤが預言します。この第二の部分では、その名を伝えられていない年若な優れた詩人が、およそ50年にわたる捕囚の後、バビロニア帝国が崩壊し、エルサレムへ帰還するであろうことを預言します。

 1節をご覧下さい。これは主なるヤハウェが、捕囚の民に語る言葉です。彼らは、何故自分たちがこのように惨めな状況になったかを知りません。正しい理解をもっていません。むしろなにかの間違いか、神が約束を守らなかったかのように考えていたのでしょう。
 そこで彼ら、捕囚のユダの者たちに語りかけられます。これまでのあなたがたの歩みを思い出せ、あなたがたは土から造られ、アブラハムにいたり、祝福を受け、その約束の通り、子孫が増えたではないか。ヤハウェは約束を守り、祝福を与えてきた。
 その主が、今や荒れ野をエデンの園とされ、荒れ地を主の園とされる。
この言葉を信じないでいられるか。これまでの歩みを踏まえた上での言葉、約束には、ユダヤ人的な合理主義の響きがあり、きわめて現代的に感じられます。
 
 これらの荒れ野、荒れ地とは何を指すのでしょうか。今日の私たちにとって何でしょうか。不毛の地、働けど働けど実りを生じないところ、水を注いでも少しも潤うことなく、渇き続くところ。政治・経済・教育が、社会が、家庭が、職場が、地域が、すべての所で見出されるものです。次から次へと病気になる、それだけで荒れ地を感じるでしょう。
思い通りにならない事は、不思議なほど続きます。荒れ野です。
然し主は、それを変えて、喜びと楽しみ、感謝の歌声が響くところとなす、と言われます。
主なる神は、実に懇切丁寧な方です。闇雲に信じなさい、と押し付けるのではなく、信じる根拠を挙げて、信ずべきことを告げられるのです。この約束を信じ、成就を待ち望むなら、それは決して虚しくなる事はありません。

 4節以下に入ります。
荒れ地を行く者、不毛の地に住む者は、人に嘲られ、罵られるでしょう。そうであっても恐れるな、おののくな。私の救いの業が絶える事はないのだから。
6,8節に、「恵みの業」という言葉が使われています。これは、1節で「正しさ」、5節で「正義」と訳された同じ言葉です。いずれもヘブライ語では「ツェデク」という言葉です。

 これは、この箇所の主題になる言葉です。捕囚の民よ、お前たちが正しいのか、それとも主なる神である私が正しいのか。主を待ち望み、主の教えを心に置く民よ、私に聞け。お前たちを嘲笑う者たちは、衣魚に食われる羊毛に過ぎない。穴だらけになり、使い物にならない。然し、

 「私の恵みの業はとこしえに続き
  私の救いは代々に永らえる。」

 預言者の言葉は、ここから主なる神ご自身へ向けられます。
主の言葉が、歴史上のことを引き合いに出し、その故に信頼せよ、と言われたように、預言者も歴史上のことを引き合いにして語ります。
遠い昔の日、ラハブ(神が創造のときに打ち負かした海の怪物)を切り裂き、竜を貫いた主よ。それを思い出し、奮い立て、と。
更に10節でも思い出します。「深い海の底を開いて、贖われた人々を通らせた」。それはあなたの力ある業であった、と語りかけます。
 これは、何を指すか良く解りませんが、出エジプトの民が紅海を渉ったことを指しているかもしれません。エジプトで奴隷となっていた人々が、神によって買い取られ、自由の民となり、紅海をわたりシナイ半島へ入った時のことです。そのことを思い起こすなら、神にはどのようなことでも出来る。それを信じることが出来る。

 贖われた人とは、買い取られ、自由の身分となることです。
罪の奴隷になった人、なっている人が、その親族や友人によって身代金を支払ってもらい、自由な身分を回復します。これが贖われた人です。バビロンに捕らえられていた人々、
彼らは、今やエルサレムへ還ることができる、と告げられました。

 罪に捕らえられ、その奴隷となっている人々、彼らも贖われ、自由の民となって、神の都に入るようになります。これは、御子イエスによってなされる贖い、罪の赦しを語り、預言するものです。

 昨年、友人宛に書いた手紙に、次のような文章がありました。
 「別れを惜しむ心に慰めを、
  神のご計画、お取り計らいに疑念をもつ者には希望を、
  死を恐れる者には救いに基づく平安を、
  孤独に成ったことを感じる者には、主が共にいますことを伝える」
どうやら、私たちの教会のメッセージの中心を語ったもののようです。

 アブラハムへの祝福の約束は成就されました。その子孫が増えました。
エジプトで奴隷となった人々は、約束の地カナンへ帰り着きました。
バビロン捕囚の民は、贖われ、自由の民となってエルサレムへ帰ってきました。
罪の奴隷となり、呻吟する者たちに解放と自由が約束されました。
喜びと慰め、希望と平安の源である救い主、み子イエスの到来が預言されました。
信じることが出来ます。喜ぶことが出来ます。


 11節「主に贖われた人々は帰って来て
 喜びの歌をうたいながらシオンに入る。
 頭にとこしなえの喜びをいただき
 喜びと楽しみを得、
 嘆きと悲しみは消え去る。」

 さあ、感謝しましょう、讃美しましょう。

 ハレルヤと歌いつつ進もうではありませんか。