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2009年11月15日

《救いの約束(モーセ)》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
出エジプト6:2〜13

降誕前節第6主日(三位一体後第28主日)
讃美歌85,359,525、交読文7(詩24篇)
聖書日課 出エジプト6:2〜13、へブライ11:17〜29、マルコ13:5〜13、詩編77:5〜16、

 庭の柿の葉が色付きました。昨日、見たところでは五・六個の実があります。
いつもの年ですと、葉が落ちたあとに赤い実が残っていたものです。今年はたくさん葉があるのに、実がなくなりそうです。例年だとスズメやヒヨドリ、そしてメジロが柿に集まって来ました。今年はカラスが主となりました。あの大きなくちばしで枝をへし折るようにして、くわえて行き、高い所で食べています。庭のテーブルの上に食いかけの実がありました。カラスは賢い、と言われますが、だいぶ荒っぽい鳥です。決してお行儀良くしたわけではなく、偶々落としたもののようです。

 カラスの被害は、他にもあります。ゴミ集積所が荒らされ、ゴミが散乱しています。猫によるものから、変化してきました。それに対応して、ゴミの出し方も考えることになるのではないでしょうか。地域によっては、屋根と扉付きの小屋のような集積所を設置しています。数年前まで、カラスは来ていませんでした。最近、カラスが多くなりました。
ヒチコック監督の映画『鳥』は大変有名です。私は噂だけで怖くなり、見ませんでした。
カラスが先頭になって人間を襲う、というストーリーだそうです。
 これから被害が多くなりそうです。お助け下さい、と言いたいところです。

 さて本日の聖書は、先ほどお読みいただいた出エジプト記6章です。
前主日は、柴田牧師により、《神の民の選び(アブラハム)》と題して説教されました。
あれも救いの約束でした。とすれば、旧約聖書には救いの約束が何回も記されている、ということになります。幾つか挙げてみましょう。
アブラハムに対して、先ず創世記12:1以下です。そして15:13〜18,「奴隷として400年間異国に、・・・土地を与える。」更に17:1〜9「多くの国民の父となる。子孫を増やし、土地を与える。」
イサクに対して、創世記17:19 「彼の子孫のための永遠の契約」
           26:24「共にいる・・・祝福し、子孫を増やす。」
ヤコブに対して、創世記35:9〜12「イスラエルがあなたの名となる。
           あなたから多くの国民が起こり・・・土地を与える。」
これら祝福の約束を主は御守りになります。神は真実なお方です。
相手によって、また機会によって、内容に違いがあるのでしょうか。確かに15章の、アブラハムに対する約束は、異国における奴隷生活を示すなど、他の約束より具体的です。違いがあります。この15章が、本日の主題と深く関わっています。
選ばれた者たちのために、神が働き、苦難から救ってくださる。そしてはじめの約束のように、子孫を繁栄させ、土地を与えてくださる。

 これが救いであるならば、その救いとは何でしょうか。
救出、救助、救済、(死よりの)解放、(生命の)保全、健康、安全、(霊的な)救い、
死から解放して霊的生命を保存すること
イスラエルは、過去の基礎的体験である民族解放の出来事「出エジプトに基づいて、危機に際して神が必ず彼らを救う」という確信を常に抱いていた。

 こうしたことから、救いとは、罪と死に束縛された生き方からの解放、霊的に自由にされた生き方への解放、という意味している、と解ります。他にも癒やしとか、勝利とか、さまざまな意味が考えられますが、解放という言葉が一番わかりやすいようです。

 約束・契約は、神とアブラハム、イサク、ヤコブとの間で交わされ、今モーセによって、イスラエルの民に伝えられました。彼らは、外国であるエジプトで奴隷となり、重労働にあえいでいます。奴隷労働の特徴は、生殺与奪の権を主人が握っており、何らの報酬を期待できない、ということにあります。激しく、厳しい労働、というだけでなく、殆んど人格的な事柄が認められません。これは心と精神を萎縮させ、衰えさせます。
主なる神ヤハウェは、自らが「主である」と告げて、この見るからに弱々しく、みすぼらしい奴隷のイスラエルと契約を立てます。契約更新と言っても良いでしょう。

 そもそも契約は、対等な人格の間において成立する、と考えられています。
創り主と造られたものとの間は対等でしょうか。創り主と弱々しい奴隷の民との間は対等でしょうか。対等がなければ契約は成立しません。
 2,3節の「私は主である」とは、この創造主を強調するものと考えます。
ヘブライ語では、「主」は、ヤハウェ。「全能の神」はエル・シャダイ、「山の神」と推測されています。イスラエルの神のルーツを示しているようです。
 「主である」という言葉は、創造の目的を貫くことの主張です。時間の経過もあります。
初めの男と女以来、多くの者たちが創造主に逆らいました。
 創り主と造られたものとの関係は、どの様に考えても上下関係になります。そして下位の側からは、自らを高めて上位と同格、対等になることは出来ません。
そのような被造物の歩みが如何にあれ、主なるヤハウェは創造の神として真実を尽くされます。高い地位にある方が、身を低くして、対等なところまで降りてくる。そして契約を結ばれるのです。
 
 今、モーセとイスラエルの民の前にあり、その窮状を見て、「私の契約を思い起こした」と語られる方は、同時に「私は主である」と語られます。他の何ものでもありません。
この世界とそのうちなるすべてのものを造り、それを保ち、人を代理統治者としてお用いになる創造神です。その故に常に真実であり、人を愛されるのです。逆らい、背く者をも愛さざるを得ないのです。

 イスラエルは、モーセがもたらした神の言葉を聞き入れませんでした。
神は、厳しい奴隷労働を課されているイスラエルを「贖う」といわれます。これは、代価を支払い、買い取ることを意味します。苦しんでいる者たちにとってどれほど嬉しいことでしょう。それなのに、彼らは信じることが出来ませんでした。受け入れられない言葉を語る時、空しさが起きます。それを突き破るように主は言われます。「ファラオに語れ。」

 召され、預言者として働くモーセ、彼はエジプトの王、最高神官ファラオに語るよう求められます。それに対しモーセは、「唇に割礼のない私」と答えます。これは単に口下手を指しているだけ、とも考えられますが、むしろ、ヤハウェとの契約のしるしである割礼がない汚れた者、という意味でしょう。
彼は、舌が重い人です。語ることを得意としてはいせん。更に神の言葉を取り次ぐには汚れている、と告白するのです。

 この所で、私たちは、後の大預言者が召命を受けたときの記事を思い出します。
イザヤ6:4「災いだ、わたしは滅ぼされる。私は汚れた唇の者。」にもかかわらず、萬軍の主を仰ぎ見た。」セラフィムが炭火をもって、彼の口に触れ、清める。
エレミヤ1:6「私は語る言葉を知りません。若者に過ぎませんから。」
    1:19「私があなたと共にいて、救い出す  と主は言われる。」
新約でも、使徒たちが同じです。ペトロは、主イエスを知らない、と言いました。パウロは迫害する者でした。主の弟子に相応しくない、と考えました。それでも伝道者とせられました。
彼らには何らかの力があり、資質がありました。然し弟子とせられ、伝道者とされたのはその故ではありません。ただ神のご計画によります。
モーセは、神の召しに相応しくないことを誰よりも知っています。そのために、与えられようとする職務を避けようとします。然し、神のご計画があります。モーセは出エジプトの指導者とされます。

 相応しくない者を用いられる神、この主題は旧約から新約まで一貫しています。
そしてそれが真実であることを、現代に至る教会の歴史が証明しています。勿論それだけではなく、全く召しに相応しい人々が居られ、立派な働きをなされていることも事実です。
 神学校のある先生が、話しておられたことが思い起こされます。
「私は、同窓会関係の仕事や夏期伝道実習のお手伝いもしているので、しばしば地方の教会へ卒業生を訪ねる。そうした所で労苦しながら頑張っているのは、たいてい学校では、成績も良くなかった人たちだ。何とか卒業した人が、地道に大切な仕事をしている。」
「だからお前も頑張れよ。」と言ったかどうか、覚えていません。それでも私が語りかけられ、私が聴いたことは確かです。

 後の時代、主イエスは、語ることを恐れる人々のためにマルコ13:11で教えました。
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられたことを話せば良い。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」
 その時に示されたことを語れば良い、のならば準備なしで良いか、と言えばそうではない。説教者は、出来る限り準備をする。その間も聖霊の働きがある。
祈りつつ説教原稿を書き上げると準備が終わったように感じる。然しまだ終わっていない。説教の時に向かって自らの緊張を高めて行く。さまざまに思い巡らし、あれかこれかと考え、眠れぬ夜を過ごし、原稿に手を入れる。講壇に立ち、語り始める。原稿から離れることもあり、削ることもある。加えられることもある。主の御手が救ってくださる。

 「主の手は短かろうか」という文があります。民数11:23で、新共同訳では「主の手が短いというのか」となっています。同じような文があります。
イザヤ50:2「私の手は短すぎて贖うことが出来ず  私には救い出す力がないというのか」
59:1、2「主の手が短くて救えないのではない。  主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。  むしろお前たちの悪が  神とお前たちとの間を隔て  お前たちの罪が神の御顔を隠させ  お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」
 私たちは、自分の都合を言い立てて、自分の望みに神を合わせようとします。自分中心です。あなたの御旨がなされますように、ご計画が進められますように、とはなかなか祈れない。私たちを救いのご計画にあわせ、その進展のために働かせていただくのです。

 私たちにとって、モーセ、イザヤ、エレミヤは仰ぎ見るような巨人です。私は、相応しくないものです。然しご計画の中で、救いの約束の中で用いられていることは確かです。あなたも、用いられています。 感謝し、主の御手に信頼して、歩みましょう。