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2009年11月1日

《堕落》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記4:1〜10

  降誕前第8主日、聖徒の日(永眠者記念日)
  讃美歌15,282,502、交読文15(詩51篇)
  聖書日課 創世記4:1〜10、?ヨハネ3:9〜18、マルコ7:14〜23、詩編51:3〜11、

 昨日は、夏日となりました。
昨年までは、それが当然のようでした。残暑がいつまでも続き、夏支度は11月になるまで、という様子でした。今年は昔風に戻ったようです。
気候温暖化も人の病気も世の中の景気も、決して一本調子では行かないものです。
 先週、27日、28日植木職が入ってくれて、庭がたいへん綺麗になりました。西北ノ角で枯れそうになっていたつつじは、会堂南、フェニックスの下に植えてもらいました。命ある限り頑張り、生きようとしています。声をかけてやってください。
桜の木は、高いところを少し切りました。みかんの木に太陽を当てるため、と言います。
蜜柑の実はどれほど付いてくれるでしょうか。ママレードを造れるでしょうか。
枇杷の木に花芽が付いています。枝を切り、間を空けて風が通るようにしました。来春の結実が楽しみです。勿論、小鳥はもっと喜ぶのでしょう。
ブドウも思い切り枝を詰めました。甘く美味しい実がなることでしょう。
創世記の「エデンの園」は、どのようなものだったのでしょうか。

 本日の聖書は創世記4章ですが、少しだけ3章にも触れておきましょう。

 美しく、楽しい楽園を舞台に繰り広げられるのは、恐ろしい物語です。
神との約束を破り、神に背く物語。神に限らず、約束を破るところには悲惨な結末が待っています。アダムとエヴァは、互いに相応しい助け手として作られました。
しかしその「助け」は、相手を利用する、責任をなすり付ける道具にしてしまう、という形で達せられることになりました。
 私たちの間でも良く見られることです。恐らく創世記が書かれた時代、紀元前10世紀、繁栄するダビデ・ソロモンの時代のイスラエルでもしばしば見られたことだったに違いありません。他の人を利用することで自分の思いを遂げる多くの人を見て、この記者は、それは間違っている、と告げているのです。

 間違った助け方があります。助けになっていません。
その結果、命の木の実を失うことになりました。生きるために労苦して働くことが必要になりました。子を産む苦しみを味わうことになりました。
本来、祝福に満ちた営みのはずだったものが、大きな苦しみとなりました。
聖書記者にとって、労働と出産は、大きな問題だったに違いありません。

 先週、助けとは、同格・対等な関係で慰めとなること、とお話しました。
アダムとエヴァの関係は、それと違っていました。
自分の欲望を充たすために利用します。
神の言葉とその意志への疑いを植えつけます。これで充分でした。
神のように賢くなる、を合言葉にして、二人は善悪を知る木の実を食べました。

 二人は、神のように賢くなったでしょうか。裸の恥を知り、身を隠す衣を求めました。
神の前に出ることが出来ない自分たちであることを知り、木陰に身を隠します。
此処には神の悲しみがあります。
ご自身の愛する者たちが、背きました。約束を破りました。
足音を聞いただけで身を隠します。神は、彼らの父親です。

 世の父親で、このような状態を悲しまないものがいるでしょうか。
男ですから、騒ぎはしないかもしれません。騒がないだけであって、その悲しみは深く、大きなものに違いありません。
この聖書記者・ヤハウェストは、こうした親子関係の事情を良く知っていました。
何故そのような事態に立ち至ったか、指摘し、応えようとしました。
イスラエルの民は、繁栄の中で傲慢になり、自分を神のように思い上がってきました。
神を無きもののようにし、辱めました。この二人に対し、神はなお愛と真実を示されます。



 エデンの園から追放され、命の木の実を禁じられた二人、労働と出産の苦しみを与えられました。聖書記者は、この二人にまだ喜びがあることを示します。それは苦しみの中で与えられ、生まれた子供です。その名は兄が、カイン。その語源は「形作る」で、力強い生命力を表す、とされます。弟はアベル。はかなさ、無価値を意味する言葉を基にします。
対照的な二人の子供、親になったアダムとエヴァは随分可愛がったことでしょう。
すべての祝福を失い、苦しみだけ、というような状況の中で、唯一つの喜びであり、慰めとなりました。

 カインは、土を耕すもの、農耕者となりました。アベルは、羊を飼う者、牧羊者となりました。二人は共に、礼拝する者です。ある時、二人は捧げ物を持って主の前に出ます。

 アベルの捧げ物は、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」。神はそれを目に留めた、とあります。この捧げ物を喜び、受け入れられました。
 一方カインはどうしたでしょうか。「土の実りを持って来た」とだけ記されます。そして、
主は「カインとその捧げ物には目を留められなかった」。何故でしょうか。
主の御心のうちを推測するようなことで、してはならないことかもしれません。聖書の言葉と関わる所だけすこし。
 アベルは、群れの中から、肥えたもの、初子を選び抜いて捧げました。そのためには長い準備が必要です。手間もかけています。主は、このひと手間を喜ばれた、とする考えが認められています。これは私たちの礼拝についても言われ、考えるべきことです。
主日から主日へ、礼拝から礼拝へ、準備に準備を重ねて歩むのが喜ばれ、受け入れられる礼拝者です。

 カインの捧げ物に関しては、「土の実り」としか記されていません。
地の産物に関しては、その「初なり」は最も良いもの、力あるもの、捧げ物にふさわしいものとされます。カインは「初なり」を選ぼうとはしませんでした。
 主任として最初の教会にいたとき、信徒のおばあちゃんが、籠にたくさんナスを入れて、持って来てくださいました。
 「これは初なりだ。先生に食ってもらいたくて畑から採って来ただ」。
 「初なりには、その木の養分の一番良いところが全部入っているだ」。

 カインには、このような心備え、心配りがありませんでした。大切な礼拝する心、神によって受け入れられる礼拝の心が此処にあります。カインとその捧げ物は顧みられませんでした。その結果、ヘブライ11:4が、「アベルは信仰によって優れた生け贄を捧げた」と語ることになりました。

 カインは、主のこのような見方を認めることができません。激しく怒り、顔を伏せます。
顔を伏せることは、意外と少ないのです。むしろ「顔を避ける」という表現の方が多いようです。顔を見られ、その気持ちが知られることを避けるためです。
有名な場面があります。創世記17では、アブラハムがひれ伏して、笑を隠しています。
神の言葉を信じることが出来ず、笑ってしまいました。
もっと広く解釈すれば、ヨナ書も同じような表現をしています。1:3、10「主から逃れようとして」とあります。口語訳は「主の前を離れて」。文語訳は「エホバの面を避けて」とあります。前も顔も同じ語になります。顔を避けるのは、自分の心的状況を知られるから、それを隠すのです。

 このカインに対し、主は言われます。
「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。
この時代でもすでに、罪は支配、統制、制御するもの、と知られていました。最初から自分自身を罪の支配に引き渡してはならないのです。支配権を巡り争い、戦うのです。
スポーツを見て、多くの人が感動するのは、全力を尽くして戦う姿ではないでしょうか。勝敗は無関係です。今年の日本シリーズは「どのようなゲームになるだろうか」と考える人が多いそうです。成熟した観衆、愛好者になったように感じます。良いプレイを求めています。

 カインは自身を罪に引き渡します。アベルを誘い出し、野原に着いた所で、弟を殺します。大地は、アベルの血を飲み込みました。

 9節で主は、カインに言われます。「お前の弟アベルは何処にいるのか。」
カインは答えます。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」
人は、他の人のふさわしい助け手として造られました。番人という語は「監視」の意味を感じさせて、嫌われるかもしれません。しかしその意味は、見守る、ということです。
これは、ふさわしい助け手に期待され、求められることです。カインは、その当然ともいえる責任を放棄するのです。自分自身の存在の意味を捨てました。

 本日の主題は《堕落》となっています。清いところから、汚れた、悪いところに落ちる、というイメージがあります。むしろ、本来の位置から非本来的なところに移る、ということです。カインは、アベルのふさわしい助け手として生きるはずが、怒りに身を任せて、存在の意義を見失いました。

 創世記の記者・ヤハウェストは、その時代の人々に、我々はこのカインの末裔である、と警告を発しています。時代を超えて、現代の私たちも、存在の意義を見失い、放棄するものであり、まさにカインの仲間です。救いがたいものでしょうか。その通りです。
パウロは、自らを『罪人の頭である』と告白しました。
そのような者たちにこそ、救いが備えられました。

 アダムとエヴァに子供が与えられ、慰められました。
カインには、罪人の印がつけられました。15節の最後をお読み下さい。「主はカインに出会う者が誰も彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」
罪を犯したものである、という宣告、告知はそのまま、殺されることがないように、という神の愛の顕れでした。

私たちはカインの末裔、同時に、神の愛に守られている。これが福音です。

愛されて愛を知り、愛する者になろうではないか。?ヨハネ3:16を読みます。

感謝しましょう。