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2009年9月20日

《隣人》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヤコブ2:18〜13

聖霊降臨節17(三位一体後第16)主日
讃美歌73,389,348、交読文4(詩16篇)
聖書日課 創世記45:1〜15、ヤコブ2:8〜13、マタイ18:21〜35、詩編15:1〜5、

 本日の礼拝は、礼拝堂が使えず、此処教育会館ホールで行われます。夜の間に、礼拝堂に消火器が投げ込まれました。最近、西成署管内で連続的に発生している、とのことです。しかも次第に手口が悪化しているそうです。私には管理責任があります。お詫びします。

 ニラの白い花、彼岸花・曼珠沙華の赤い花、紫式部の紫が濃くなってきました。
気温は毎日一度づつ下がっています。最近の残暑は、10月まで続くのが当たり前でした。
今年は昔のように残暑も早仕舞いにしたようです。一気に秋の色が増しています。
温暖化現象も一本調子ではないようです。

 本日の主題は《りんじん》と読ませるのでしょう。《隣り人》もあります。
先週、疑問が出されました。考えました。となりびと、としたければ送り仮名を入れたでしょうから、今回は《りんじん》にしましょう。

 ヤコブ書は、なかなか説教のテキストになりません。避けてしまいます。
ルターが『聖書の序言』の中で『藁の書』と評したことも影響しています。
彼は信仰義認を強調し、ガラテヤ書は戦闘の書であるとし、高く評価しました。
ヤコブ書は律法主義的で、藁ほどの値打ちもない、とします。
主の兄弟ヤコブが書いた、とされます。新共同訳聖書事典は、「主の兄弟ヤコブに、こんな立派な手紙を書くことが出来たはずはない」と記述していると聞きました。
この部分は確認できないので、これ以上は触れないことにします。
最近の傾向は、ヤコブ書を良い方向で評価します。

 丁度良い機会ですから、ヤコブの手紙について学ぶことにしましょう。
手紙の著者は「ヤコブ」とあります。いろいろ登場する中、どのヤコブでしょうか。
ゼベダイの子ヤコブ・十二人の一人(マルコ1:19,3:17ほか)
アルファイの子ヤコブ(マルコ3:18ほか)
ヨセフとマリアの息子・イエスの兄弟ヤコブ(マルコ6:3,?コリント?5:7、使徒12:17ほか)
小ヤコブ(マルコ15:40ほか)
使徒ユダの父ヤコブ(ルカ6:16ほか)

 いずれも主イエスやパウロと同じような世代です。手紙自体は、間違ったパウロ主義を批判し、ただそうとしていますから、パウロ以後の世代の産物と考えられています。そうすると、いずれかのヤコブが書いたものではなく、権威者ヤコブの名を借りて書かれたものではないか、となります。その場合、主の兄弟ヤコブの権威、となるでしょう。

 手紙の受取人はどのような人でしょうか。「離散している十二部族の人たち」、これは明らかにディアスポラのイスラエルを指します。ユダヤ以外の土地に居住しているイスラエル人たちです。パウロもキリキヤのタルソ生まれ、ユダヤ人でローマ市民でした。
現実には、イスラエル十二部族のうち北イスラエル十部族は消滅しています。残った南二部族の人たちが、バビロン捕囚以後、帰還した者や離散した者になっています。従って概念としての十二部族はあっても、実体としては存在しません。そこに宛てた手紙と言うのもおかしな話です。とすれば、可能性としては、当時のキリスト教会全体を考えている、ということになりそうです。諸教会の間で回し読みされる文書、ということになります。

 発信人不明、受信人不明、時期も場所も不明、何もかも不明で曖昧な手紙。実は手紙であるか否かも疑われています。実践的勧告集または宗教的格言集のようなものではないか、と言われています。

 さて本日は、2:8〜13をお読みいただきました。本来は、2:?〜13で良いはずです。
なんとも半端な切り方をした、と感じます。教団の聖書日課委員会の仕事です。わたしどもの知り得ない理由があるのでしょう。ご諒承下さい。1節から見てまいりましょう。
小見出しは、「分け隔てしてはならない」。これはヤコブ書の主題のひとつです。
 1節にその言葉があります。「人を分け隔てしてはなりません」。
元のギリシャ語、プロソーポレーンプシアは、聖書では、ここだけで用いられます。一般のギリシャ語にもありません。ヘブライ語から翻訳され、創出された創作語でしょう。
プロソーポン 顔、ランバノー 取る を合成した語。
そこから「人の顔によって差別扱いをする人」、人を偏り見る人、の意味となりました。

 2節には、「あなたがたの集まり」という語があります。
これも元の言葉では シュナゴーゲー です。もともとユダヤ教の会堂をさす語です。
ヤコブは、なぜかエクレシアという語を用いず、ユダヤ教の会堂を指す語を用いました。この文書を読む人たちにとって理解しやすい、と考えたのでしょう。ヤコブとその群れにとって教会は、人々が集まり、御言葉が読まれ、讃美と祈りが捧げられる所だったのです。

 神讃美の場所に、全く対照的な人が入ってきた、とすると私たちはどうするでしょう。
これは今日でも良くあることです。立派に見える人、粗末な身なりの人。
私たちは、何処かに自分流の基準を作り、それに基づいて判断をします。あるいは世俗の基準に従い判断して失敗します。一般的には、自分のために多くのものを蓄えた人が豊かな人で、能力もあり、立派な人とされます。そういう人は、多くの人から友として喜び迎えられます。
ヤコブはこのようなことは差別である、として退けます。

 差別に関する教えは、旧約聖書に見ることが出来ます。主なる神は偏り見ることをなさらない。イスラエルも差別をしてはならない、というものです。
申命記10:17「あなたたちの神、主は・・・偉大にして勇ましくおそるべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」
神は、最も力弱く、守る者もいない人たちの保護者となられる方です。

 更に有名な箇所があります。サムエル記上16:7「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。私はかれを退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。
人は外の顔かたちによって判断します。あるいは衣装は、判断の拠り所となりました。その同じ時に神はその心を見る、と言われます。私たちは、決して心潔きものでもないでしょう。しかし外の顔かたちは如何ともし難い時、この心は何とかなる部分があるのです。
そのことはダビデの生涯が語ってくれています。罪を犯し、神の前で幾度も悔い改めたダビデです。悔い改めた罪人ダビデ、神はダビデをそのような者として知っておられたのです。

 ヤコブは5節で、神の選びは、世俗や教会の考えとは全く違うことを知っているように書きます。「神は・・・受け継ぐ者となさったではありませんか」、これはすでに確定されたことであり、そのことを実体験している、という意味です。
恐らくヤコブの教会では、神における逆転現象は当たり前のことして認められていたのでしょう。貧しい者、力弱い者が救いに与り、讃美している状況です。反面、豊かとされる者、力強き者が救いを拒絶し、律法を守ろうともしていないのです。

 そこでこの文書を書いたヤコブは、律法に関する考えを明確にします。
律法を守ることによって救いに与ろうとするなら、律法のすべてを守らねばなりません。
10節に「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となるからです」とあります。

 これは、マタイ福音書5:19、ガラテヤ5:3としっかり結び付く言葉です。
従って、この考えは、パウロの信仰とも一致します。律法遵守によって自分の義を建てようとするなら、一点一画まで守り行わねばならない。しかしその企ては崩れてしまった。
それは、先ほどの差別に関する聖書の教えからも明らかにされます。
神は人の心を見られます。私たちの行為・行動の動機も見られます。たとえ上辺が恭しい行為であっても、その内的な動機を見られたとき、如何なものでしょうか。恥ずべきことがない、と誰が、どれほど言い得るでしょうか。私たちは、この心の内側に恥ずべきものをたくさん抱え込んでいます。
それを隠して、一生懸命生きています。緊張します。ストレスが生まれます。

 人が生きることは、それ自体、とてつもなく大変なことです。そのことを考えると、押し潰されそうになります。罪の重さかもしれません。

ヤコブは、律法と福音を良く知り、人間を理解した人だったのでしょう。
人として掟を守らねばならないと語ります。当時、そんなことは如何でも良い、とする考えがあり、それに対抗したのです。真剣に守ることを考えれば、それを守っていない自分に気付かざるを得ない。そこから行為による自分の義ではなく、信仰による神の恵としての救いに気付くようになります。罪のストレスから解放されます。

ルターは、信仰によって義とされると言いました。パウロの主張です。
行為は不要である、とも言っていません。
ヤコブは、ユダヤ教のように行為の大切さを強調しています。
それでも、信仰などどうでも良いとは言っていません。
信仰と行為とは車の両輪の如く、バランスよく廻って行かなくてはなりません。
二つを切り離し、無関係なものの如くに考えるなら、宗教の本質が損なわれるでしょう。

 隣人を自分のように愛しなさい。隣り人になりましょう。
主は私の隣人となり、友となってくださいました。そして命まで与えてくださいました。

感謝と讃美をささげましょう。