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2009年9月13日

《教会の一致と交わり》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
?コリント1:10〜17

聖霊降臨節第16(三位一体後第15)主日
讃美歌15、191、515、交読文3(詩8篇)
聖書日課 エゼキエル37:15〜28,?コリント1:10〜17、マタイ18〜10〜20、
     詩編147:?〜7、

 夏休みが終わり、園児・生徒・学生は学園に帰りました。夏の間も続いていた新型インフルエンザの流行が拡大しているようです。学級閉鎖、学年閉鎖が続出しています。そのわりには、ニュースにはなっていない、と感じています。
他に大きなニュースがあるため、とも考えられます。
 それは政権交代です。半世紀にわたる自民党政権から、新しく民主党に移ります。一党支配がこれほどの長期間続くのは、独裁に他ならない、と論評されました。あるいはこの国には民主主義がないためである、とも言われました。大きな変化を有権者が選択しました。メディアは大量の情報を流しています。過大な期待をせず、時間をかけて変化を待ち、不可能を可能にしよう、と言いながら期待をあおるように情報を提供しています。
 かなり抑制しているのでしょう。それでもほかに大事なニュースはないのだろうか、と考えてしまいます。情報を巡る問題は、昔も今も変わりなく続いています。

 聖書はとても大事な情報を、時代を超えて伝えようとします。それも決して一方的ではなく、伝える側と受ける側が間違いなく価値ある情報を授受できるように、考えられています。伝える側が『聖書記者』、受ける側が『読み手』としても宜しいでしょうか。

 聖書記者は、聖霊の働きによって、その文書を書いた、とされます。その考えを強く推し進めると、逐語霊感説になります。一つ一つの言葉が神の霊感によって書かれているのだから、一切批判は出来ない。してはならない。
わたしたちは知っています。聖書記者たちは、さまざまな生活の中で、苦しみ、戦いながら聖書を書き連ねてきた、と。それぞれの背景があるのです。歴史的、社会的、政治的、経済的なものが渦巻く中で、聖霊に導かれて、キリストを証する文書を書かせていただいたのです。

 この聖書の解釈にも、必ず背景があるものです。その人の生活史、当時の環境、人間関係、健康状況、気象などなど、さまざまな事柄が関わっています。解釈者は、そうしたことを承知した上で、自分自身の言葉として語るでしょう。この時における私の解釈ですよ、と多分言うはずです。これを聞いた人たちの中では、それが印象的であったり、興味深いものであったりすると、何時までもそれだけが記憶されることになります。そしてある時、その言葉だけが披瀝される。言葉が独り歩きすることになります。
 教会一致運動があります。教会の中に一致がないから、そのような運動が必要になる、と感じます。

「キリスト教は異端排除の歴史、それに対し仏教は異端包含の歴史である」、これは仏教学者・増谷文雄さんの言葉です。何故そうなるのでしょうか。勿論、正典の数が、分量が違います。
 キリスト教は旧約新約合わせて一巻の聖書が正典です。これを受け入れ、奉じる者は正統的な信仰、と言えるでしょう。
 仏教には、正典たる経巻がたくさんあります。
般若経、維摩経、法華経、無量寿経、華厳経、阿弥陀経、阿含経、

「般若心経」は大乘仏教でもっとも早く成立し、大乗仏教興隆の力となった経典です。日本の仏教宗派の中で、浄土真宗と日蓮宗の諸派を除いて、すべての宗派で読誦されています。正しくは『摩訶般若波羅密多心経』といい、「真実の智恵の究極」という意味があります。本文わずか262文字の般若心経の内容は、「空」。つまり「観音様はこの世のすべてのものが『空』であると悟られ、一切の苦しみを克服された」と述べています。大いなる智恵の完成によって「空」を悟り、彼岸に至ることを教えています。(ネットより)

 教えの是非を巡って争っていた仏教諸派の融和と統合を目指して作製されたのが仏典である、という節があるそうです。諸派の分裂と争いを調停したかったのでしょう。そのために大量の経典が生産されました。その中には、宗祖仏陀の教えに由来していない、と批判されるものもあります。

 対立と分争、そして分裂を生み出すのは、正典の数や分量ではありません。
自分たちが信じている教えの唯一性と絶対性を主張し、他に対し歪んだ優越感をもってそれを排斥、排除しようとします。諸宗教間で、またその内部で抗争が繰り返されました。これらに対しては《否》と申し上げねばなりません。宗教は、人を生かすものです。その本質に反することをしているのです。本質に立ち返らねばなりません。

 コリントの教会には、その指導者によるグループがありました。ケファと呼ばれるペトロ、伝道者パウロ、そして雄弁なアポロが主要なリーダーでした。それぞれ時代が少し違ったようです。教会の歴代の牧師、という形です。個性も違います。働きも人間味もそれぞれでした。

 そうしたコリントの人たちにパウロは、十字架と洗礼を取り上げて迫ります。
誰があなたがたのために十字架に付けられたのか。誰に帰依するバプテスマを受けたのか。
わたしパウロは、クリスポとガイオ、ステファノの家の者たちを除けば誰にも洗礼を授けていません。
 偶々知ることの出来た指導者、教師、その教えを絶対視して、優越感をもってそれ以外の異なるものを排除しようとするところに、対立と分争が生まれます。

 一つの簡単な例をお話しましょう。
私たちの教会は、聖餐式の感謝祈祷を、配餐者の自由祈祷から、式文祈祷に変えました。

余り自由に祈っていない、と感じたからです。また祈るべきことがあるはずだが、そのことに気付いていないのかもしれない、とも感じました。良く整えられた式文・成文を祈ることで、会衆全体が整えられるだろう、と期待しました。
ここでは、式文祈祷と自由祈祷の間に何らの違いも認めません。
 ある聖公会信徒の方と話す機会がありました。「私は最初から祈祷文で祈っています。本当に心から祈りに心を打ち込めるのです。自由祈祷は文章を考えなければならないでしょう。私にはとても出来ません」。このように仰いました。
 私自身は、自由祈祷の教会の出身。しかしこの話を聞いて考えが広げられました。
わたしたちは皆、偶々初めに身に着けた習慣をもっているに過ぎない。それを絶対視することは良くないことだ。他の慣わしを排除するようなことは慎むべきだ、と考えるようになりました。心から祈ることが大事であって、自由か式文か、ということは問題になりません。自由祈祷であっても、礼拝の司会のような時は文章にして読むほうが宜しい、とされます。

これはたまたま、主なる神が与えたもうた恵みの時です。救いの時です。感謝しましょう。しかし他の人には、また違う恵みの時があります。機会があります。その故に教会は豊かです。一人一人も豊かにされています。韓国・全羅南道の牧師先生がお出でになりました。田舎の小さい教会です。1000人規模だそうです。玉出の教会をご覧になり、話をして、「豊かな恵みを受けておられることが感じられます」と言われました。そのまま感謝して受け入れます。

 そもそも一致とは何を指すのでしょうか。考えが同じになることでしょうか。森林の民と砂漠の民、狩猟民族と農耕民族、これらの間には大きな違いがあります。溝が横たわります。決して同じにはなれない、と語られます。
 三井物産・会社案内社員編には次のような文があるそうです。一つの企業の公式的な考え方でしょうか。その中に「価値観」という言葉があることは注目されます。
 「個人の価値観と会社の価値観が一致している人は幸せな人である」。
注目はしますが、これについては疑問符をつけなければなりません。

 個人という人格は、いうまでもなく、さまざまな面を持ちます。それぞれが価値観を持ち、主張します。時には互いに反発し、排除しあうような価値観であったりします。
同じひとりの人が、たいへん優しい穏やかな生き方を選びながら、その生活が脅かされると殺人も犯すことを恐れない。楽しい生活、ゆとりを求めながら、同時に自分の能力以上に評価されることを求め、他の人々を支配しようと願うこともあります。
 会社という法人格も同じです。利潤を追求し、再投資して自己肥大することを求めます。同時に社会還元することの必要性を理解しています。利益の数パーセントに限られます。原理的に会社員は、この目的のために雇用されています。ぎりぎりまで働くことを要求します。相容れることはないのではないでしょうか。会社人間になれば、同じ価値観に立つことができますよ、と言われているように考えます。

 一致とは何か、という問に対し、直接的に答えようとするものは、なかなか見つかりません。それは、この一致が、自明の事柄だからかもしれません。おのずから明らかなこと、本当にそうでしょうか。私にはそうも思えません。賢い方たちにはそうであっても、それ以外の普通の者たちにとって明らかでないなら、自明のことではありません。
 愚昧な大衆に知らせる必要はない、知る必要のないこと、説明など決してしない、という考え方には反対します。

 私たちにとって一致とは、キリストとの交わりから生まれるものです。
 キリストに在って、キリストに結ばれて、それぞれはなお異なる存在です。この異なるものが集められ、集まり、一つとなること、これが一致です。少なくともこの手紙を書いたパウロが、ここで語る一致の意味は、これです。

 小さな礼拝堂での礼拝を頭に浮かべてください。電気は通っていない。固定的なメンバーとローソクの光、そのうちの一人二人がお休みする。そこだけまるでブラックホール。暗くなる。嵌め絵やパズルにも似ています。各自がそのまま認められ、生かされるのです。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙2:5に書きました。口語訳は確か「キリスト・イエスにあって抱いているのと同じ思いをあなたがたの間でも生かしなさい。」でした。
 文語訳はわかりやすい。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。
 生き方・考え方や解釈が違っていても、それを越えて一つとなることが、キリスト・イエスの心です。そのためには、共に讃美し、祈ることが必要です。礼拝の交わりから一致が生まれます。

考えが違う、聖書解釈が違う。神学校が違う。伝統が違う。一致を阻むものはいくらもあります。苦難がなくなる事ではなく、困難を乗り越える力が与えられるように共に祈りましょう。