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2009年5月3日

《イエスは復活また命》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ11:17〜27

いつの間にか、新緑の美しい時となりました。初夏、白雲と踊る鯉のぼり。
この季節は、雑草が生い茂る時でもあります。

今朝の聖書は『ラザロの死と復活』物語の一部です。

この出来事を読むと、いつもハリウッド映画『偉大な生涯の物語』を思い出します。
銀座1丁目の東、京橋にあった〈テアトロ東京〉で観ました。長い映画で、中間の休みがあり、その前の場面がラザロの復活、音楽はハレルヤ・コーラスだった、と記憶します。ここまででも十分疲れてしまい、後半はどうなるのだろうか、心配したことを覚えています。超大作だけあって、よく考えられ、練られた作品でした。

この出来事は、ベタニア村が舞台になります。これは、エルサレムの東3.2キロ?にある小村です。オリーブ山の斜面にあり、現在もラザロの墓がある、と伝えられ、その村の名もエル・アザリエとされています。

 ラザロの名は、ヘブライ語で「神は助ける」の意とされます。

10:40を見ると、主イエスはヨルダンの向こう岸におられます。これは、現在のヨルダン領になります。聖書はいつもイスラエル、ユダヤの側に立ってものを見ています。ヨルダンの「向こう」は東岸、「こちら」は西岸を指しています。
小学生の頃、混乱したことがあります。地球儀を学び、地球は丸い、と教えられました。ところが新聞やラジオなどの報道には「極東」という言葉がよく出てきます。丸い地球のどこが東になるのだろう。東があれば西がある。東洋と西洋は何処で別れるのだろう。
結局、ヨーロッパの人間が勝手に東西を決めたものと考えるようになりました。

話を戻しましょう。主は何故東岸へ行かれたのでしょうか。10:31には「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」とあります。そして40節に、ヨルダンの東岸へ行ったとあります。西岸は危険だったのでしょう。

東岸に留まる主イエスのもとに、マリアとマルタの兄弟ラザロが病気だと知らされます。
マリアは、イエスの足に香油を塗った(12:3)女性である、と記されます。またこの二人は、ルカ10:38〜42に記されている姉妹と見られています。
なかなか深い交わりがあった一家と考えられます。そのためでしょうか3節は記します。
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。
この言葉を使いの者に届けさせました。これを聞けば、直ちにやって来て、死なないようにしてくださるに違いない、と期待していたのでしょう。

姉妹からの伝言をお聞きになってどうしたでしょうか。主は言われます。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
こうして主は、なお二日間同じところに留まります。何もしないことが最善の道、ということもあります。それから「もう一度、ユダヤに行こう」と言われます。弟子たちは、ここ東岸に来た時の事情を思い出させようとします。石で撃ち殺そうとする者たちが居るので、それを避け、逃れてきたのでしょう。今帰るのは、殺してくれと言うようなものですよ。止めましょうよ。懇願します。
先生の身の安全を願ってのことでしょう。同時に、自分たちの安全・無事を願う心があることは確かでしょう。

二日経ってからラザロのもとをお尋ねになりました。

すでにラザロは死に、布を巻かれ葬られていました。万事休す、遅すぎたのです。
村の人々、家族の冷たい視線を感じます。今頃何をしに来たのか、役立たずが。
これでおおよその状況がお分かりいただけたことでしょう。主イエスの言葉、弟子たちの対応、とりわけディドモと呼ばれたトマスの言葉も興味深いのですが、指定外ですので省略させてください。
そこで本来の聖書日課、17〜27節に進みましょう。

ベタニアへ来てみると、すでにラザロは死んで、葬られておりました。なんと四日も経っています。マルタ、マリアが使者を遣わしたのは、病状がよほど悪化して、手の着けようがなくなってからのことだったようです。できる限りの手立てを講じた末に、主イエスの力を求めたものでしょう。遅かったのでしょうか。主イエスの働きはここから始まります。人の目には終わりとしか見えないところから、始まることがあるのです。葬儀の時によくお話してきました。死は、終わりではありません。新しい命の始まりです、と。

15スタディオン、オリンピック競技場のコースの長さを基準としたもので、アテネでは185,2m、オリンピアでは192,3m。およそ180〜200m、間をとって約190m。
15スタディオンは約2850mとなる。エルサレムの東の山を越えてすぐのあたりの村。
主イエスは、ヨルダン川東岸に居られたのですから、エルサレムからベタニアの距離はあまり問題になりません。それでも、東岸から西へと河を渡り、山道を上る大変な旅をなさることが解ります。エルサレムを目指す人は、エリコの近くで河を渉ります。ルカ福音書10章の『善いサマリヤ人の譬』は、エルサレムからエリコへと下る途中の出来事でした。その道を逆に上らねばなりません。

 エリコは海抜マイナス244m、エルサレムの北東およそ26kmに位置する。エルサレムは海抜762mであるためエリコへの道は長い下り坂であった。(スタディ版)
御殿場・沼津間はおよそ25・6km、高低差400m。ご参考までに。

 主イエスは到着しました。マルタとマリアの家には、弔問客が大勢来ていました。
マルタは、イエスの到来と聞いて迎えに出ます。マリアは家の中に座っています。
この様子は、ルカ福音書10:38〜40の記される姉妹の様子と同じです。

迎えに出たマルタとイエスのやり取りが記されます。
マルタは、「先生がここに居られたなら、兄弟は死ななかったでしょう」と語り、更に「あなたが神に願うことは、なんでも神は叶えてくださると、今でも信じています」と申します。これはマルタのイエスに対する信仰です。イエスが神と深い交わりを持ち、エスが願うことなら、神は何事によらず叶えてくださる。そのために、ラザロの病気をお知らせしたのです、ということです。

 もう一度3節をご覧ください。其処には、おいで下さい、とは書いてありません。勿論、言外に、来て欲しい、きっと来てくださるに違いない、という響きがあります。
マルタの信仰は、自分が指定しなくても、主ご自身最善の道を選んでくださる、という信頼があります。信仰とは信頼である、と言った方があります。マルタにはこの信頼があったのです。

更にマルタは、終わりの日の復活を信じています、と明言しています。死後の生を信じています。この信仰はファリサイ人を初め多くのユダヤ人の間に広がっていました。詩編16:9〜11(ヨブ19:25〜27)はその信仰を導いたことでしょう。
その一方でサドカイ派の人々は、死後の生命を頑強に拒否、否定していたということです。
彼らは富裕な指導者階層でした。いつの時代でも、全てを持つ者は荒野に出ることはしません。変革を望みはしないものです。

主はマルタに言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
最後は問いかけになっています。信じますか、信じませんか、どちらにします、どっちでも宜しいように。ということではありません。あなたの主体をかけて答えなさい、と迫ってくるのです。

林田牧師の説教を思い出します。諫早の大洪水を経験なさっておられます。
洪水で家が流される。その屋根に子供が居る。父親が船に乗って助けに来る。両手を広げて子供に呼びかける。さあ父ちゃんを信じて、ここへ飛び降りなさい。
決して、来ても来なくてもお前の自由だよ、とは言いません。

主イエスは、お前はこれを信じなさい、と愛をもって呼びかけているのです。

マルタは、「信じています」と答えました。まさに主イエスの全てを知らないままに信じています。いまだ、十字架も復活も知りません。それだからこそ、イエスを来るべきメシア・キリストである、と信じているのです。見ずして信じる者は幸いである、と言われます。

ひと月ほど前になってしまいました。阪下兄が入院されているので、お見舞いに伺いました。するとこのように仰いました。
《牧師先生、入院したおかげで聖書を読みました。そしてヨハネ11:25を与えられました》。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

 阪下さんは、入院される時、大変不安を抱いておられました。
その中で、聖書を読み、祈りの中で、この聖句を獲得されました。
この聖書の言葉に捉えられました。私は非常に嬉しかったのです。
悩み、苦しみ、不安にさいなまれる中で慰めと希望をお持ちになったことを知ったからです。
これは、おひとりだけのものにしてはなりません。皆が分かち合う時、望みは何倍にも大きくなるでしょう。

「あなたはこれを信じるか」。答えましょう。分かち合いましょう。

この信仰を共有する所に教会が成り立ちます。感謝しましょう。