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2009年2月15日

《いやすキリスト》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マタイ15:21〜33

降誕節第8主日、讃美歌70,242,206、交読文25(詩103篇)
聖書日課 列王下5:1〜14(15〜19a)、マタイ15:21〜33、?コリント12:1〜10、
詩編103:1〜13、   
玉出教会合同記念会、藤田勲記念会(堺市上野芝)


教会の庭には、いつ頃からのものか解りませんが鉢植えの蘭・シンビジューム?が転がっていました。陽の当たる場所に移しました。昨年、多分久し振りでしょう、花が咲きました。今年も同じ場所で、花芽が大きくなっています。

牧師室ではデンドロビューム?に花芽がつきました。
岩槻教会長老に蘭の専門家がおられました。農業・園芸学校の校長もなさった太田先生です。日本椿協会の副会長職のまま、私が辞任する前年亡くなりました。この先生に言われたことを思い出します。「素人がランを咲かすのは難しいことです。」
この先生がきっと「まぐれですよ」、と言いながらも、誉めてくださるような気がします。
それと、教えて頂けば良かったなあ、と感じています。学びは大事なことです。

出かけて遠くを見ると、冬枯れていた木々がなにやらけぶったように感じられます。芽を吹く準備をしているのでしょう。もうすぐ春が来る。といっても手放しで喜べるわけではないし、待ち遠しいほどのことではなくなってきました。残念なことです。

ツロ・フェニキアの女の物語、新共同訳では「カナンの女の信仰」という小見出しになっています。もう半世紀近い昔、ある青年に問われ、一生懸命答えたことを思い出します。きっと、もっと深い問いかけを持っていたのではないだろうか。以来、考え続けています。

イエスは、ゲネサレトで病人をいやし、その後ファリサイと律法学者たちがやってきて、論じ合いました。そして群衆を呼び寄せ、教えて言われました。それがこの前の部分です。
したがって、この21節はゲネサレトを発って、ティルスとシドンの地方へやってきた、となります。

ティルスは、現在レバノンがあるパレスティナ北部、地中海東端、重要な港町。非ユダヤ人の町。シドンも海港、地中海東端には大きな港は少ないので、これらの町、港は重要でした。ここで一人の女と出会います。

「カナンの女」とされますので、血筋、家柄がカナンだったということです。
スタディバイブルの説明を見ましょう。

22節、カナンの女、この女性はユダヤ人ではない。何百年も前にイスラエルの部族が占有し定住する以前から、カナン人である彼女の先祖はこの地に住んでいた。

マルコは、ギリシャ人でシリアフェニキアの生まれとする。彼女は異邦人(非ユダヤ人)。
フェニキアは東地中海沿岸の細長い部分を指す。住民の大半はユダヤ人ではなく、船乗りや商人、漁師として生計を立てていた。(シリアはローマ帝国の属州だった)。

カナン人は、出エジプトのイスラエル人が、「乳と蜜の流れる地カナン」にやって来て、それを占領、定住の地としました。このところの先住民がカナン人です。モーセ、ヨシュアに対するヤハウェの命令は、先住のカナン人は皆殺しにしなさい、というものでした。
皆殺しにはしない、出来なかったので、その末裔がいる、ということになります。
恐らく、この女性は、イスラエル・ユダヤの支配から逃れたカナン人が、この海岸の町で生み、育てたのでしょう。

血筋も生まれも育ちもユダヤ人ではないこの女性、ユダヤ人を恐れ、嫌悪していてもおかしくありません。この女性は、はなはだしく苦悩しています。
ひとりの母親として、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられているのを見てきました。
娘が苦しめば母親もそれ以上に苦しみ、更に力になれない自分をのろい、悲しみます。
最近の振り込め詐欺事件は、このような親心に付けこんだもの。また熊取の行方不明に付け込んだ詐欺事件も同じです。赦しがたく、腹立たしく感じられます。
幼児を虐待し、死に至らしめることも多発しています。戦後半世紀を越え、経済的には成長した日本社会が、精神的には、進歩が見られず、退行現象を起こしている、と感じざるを得ません。自分のことしか考えられず、他を愛することを知らないのです。
人は愛されて愛を知ります。愛される経験がないとき、愛し方が判らない、という現象が始まり、それは拡大再生産されます。不幸なことです。

苦しみの極みに至って、この母親は先祖からの言い伝えに従えば仇敵であるユダヤ人に救いを求めました。「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と、叫びました。
地中海沿岸の人々は、昔から神々を信じています。自分たちの民族を守る神々を持っていました。間違いなく、その神に祈ったでしょう。神官に願い、祈祷してもらったに違いありません。マルコが言うように、ギリシャ人であれば、同胞であるギリシャ人の医療技術は優れていました。悪霊の働きを病気と見れば、高額の治療費を支払ったことでしょう。すべて、効果はありませんでした。

この母親の耳に、東の方、ガリラヤ地方からやって来た男の噂が聞こえてきました。
不思議な力を持ち、奇跡を行なうユダヤ人が来た。
母親は密かに、然し大きな期待をもって、出て来ました。娘を連れてきたかどうか、記されません。マルコは、娘は家で床に寝かされていた、と記しています。その通りでしょう。
この母親の叫びに対して、主イエスは、沈黙をもって答えられました。
沈黙は最も雄弁な言葉です。ここでは、拒絶を表しています。

母親は、叫びながら、足を進めるイエスの後に従います。
弟子たちは、先生にお願いします。とりなしではありません。うるさいから黙らせてください。追い払ってください、というものでした。

これはマタイ福音書15章、マルコ福音書では7章。主の弟子たちに対する教育もだいぶ進んでいそうですが、なかなか、そうでもありません。弟子たちが学ぶことに鈍いのか、主イエスのこのときの態度に倣っているのか、素質がないのか、解りませんが、実に冷淡な態度を示しました。彼らが自分でやれば良さそうなもの、と考えます。たぶん、弟子たちの言葉など全く効果がなかったのでしょう。

そこで主は答えられました。「わたしはイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」。イスラエルの迷える羊のための救いである、という意味です。
答えたのですから、弟子たちがこの相手とされています。女に対して言われた言葉ではありません。むしろ直接の語り合いすら拒絶しようとする言葉です。それはユダヤ人としては当然のことであり、常識でした。そのことはカナンの女にとっても同じです。

ユダヤ人との間には深い溝があります。話しかけても拒絶されることが解っています。然し今は、通常の時ではありません。ラストチャンスにかけています。必死です。
女は弟子たちと共にこの言葉を聞きました。自分への答えのように受け止め、イエスの前に進み出ます。そしてひれ伏して「どうか助けてください」と言いました。

それに対して主イエスはお応えになります。「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」。神の子であるイスラエル、彼らに与えられるパンとは、神からの恵み、救いを言います。それは他の者たち、異邦人に分け与えられるべきではない、という拒絶の言葉です。母親は強い、というのは地球規模で共通の認識のようです。この程度の言葉に負けはしません。通常では出てこないような言葉を振り絞りました。

「主よ、ごもっともです。然し、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。
イエスがイスラエルの失われた羊のために、と仰ったのに対して、同じ動物を取り上げます。それも嫌われ、蔑まれている犬を取り上げました。犬でさえ食卓から落ちたパンくずを頂くことが出来ます。同様に、ユダヤ人から嫌悪されている私たちも、パンくずのように、神の恵みのかけらには与ることが許されるのではありませんか。

26節、子犬にやってはいけない、当時のユダヤ人は、犬がゴミや動物の死体を食べるので、不浄であると見なしていた。ペットとして飼う事はせず、嫌いな人を犬と呼ぶ習慣もあった(詩22:17)。ユダヤ人の中には、異邦人を犬と蔑むことがあった。

ここには、この母親の並々ならぬ心情が映し出されています。
娘の救いのためにどんなことでもしよう、という心。自分を犬とします。
これはイエスの言葉によって本当の自分の姿に気付かされたことを示します。嫌われ、拒否される自分の実像です。それに気付き、認めることが出来るのは、包む愛と赦しがある時です。母親は、イエスの言葉の中に、これを聞きました。幸いなことです。

そして主は、この母親の中に偽りのない信仰を見出されました。彼女は「ダビデの子よ、救ってください」と叫びました。

22節、ダビデの子、イスラエルの預言者はメシアがダビデ王の家系から出ると語ったので、メシアは「ダビデの子」とも呼ばれた。

カナンの女は、ユダヤ人との間に横たわる溝を乗り越えて叫びました。イスラエルの救い主は私の主、と。それだけではなく、全面的な信頼を言い表しています。
この言葉にイエスは答えます。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。
その時、娘の病気はいやされました。異邦人、つみびと、嫌悪される人の信仰も認められます。受け入れられます。その信仰に主は答えてくださいます。

娘の病気は、極限の状況の中で、まことの信仰、信頼を表す恵みのときとなりました。
この物語全体は、マタイ20:29以下にある『盲人の乞食のいやし』とよく似ています。
読み合わせると、大きな恵みを受けるでしょう。
癒やされる病があることは、真に幸いなことです。

その一方で、癒されない者が居ることを忘れることが出来ません。癒やされがたい病もあります。今では治る病気となりましたが、かつて不治の病と考えられていたハンセン病を想い起こします。その時代に、ある人は言いました。
「主を信じる者は、どんな困難な場に立たせられても、主はいつも最善に導いてくださるのです。アドナイ・エレ」創世記22:14、宇佐美伸先生。

主は常に最善をなしてくださる、と信じる者は幸いです。

本日の主題は、『いやすキリスト』です。ヴェルメシュの『ユダヤ人イエス』には、救いとは、「いやし、解放、自由」を指すとあります。イエスによるいやしは、カナンの女性を病気、悪霊の支配、民族差別からも解き放ち、自由にしました。
イエスは今も働いて、私たちを自由にし、最善をなされる主を信じさせてくれるのです。

感謝しましょう。