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2008年10月12日

《苦労して闘っている》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
コロサイの信徒への手紙?2:1〜5

聖霊降臨節第23主日 讃美歌79,423,229、交読文11(詩40篇)

聖書日課 ヨハネ福音書13:12〜30、サムエル下23:13〜17、使徒6:1〜15、
詩編40:2〜12、

百日紅の花もようやく終わったようです。夏が去ったことを告げているように感じられます。金木犀も花の色が薄くなり、香りも弱くなりました。運動会シーズンの終わりでしょうか。今年は最近になく、夏から秋へすばやく動いているように感じます。長い残暑がないせいでしょうか。今年は台風の上陸もありませんでした。珍しいことです。

その代わり、とでも言いたげに社会は大騒動。血なまぐさい事件の続発、総理大臣の退任、金融破たん、地球全体が揺れ動いています。良い戦争、正しい戦争はありません。戦争を終わらせる戦争も嘘です。テロを終わらせる戦争、武力でかち取ったものは、やがて武力で奪われます。真の平和は平和的手段によってのみ達成されるでしょう。

本日は2章になりますが、その最初にラオディキアという地名が出てきます。

この地名は黙示録3:14にも登場して、たいへん有名です。いわゆる黙示録の七教会の一つです。スタディバイブルには次のような説明があります。

 ラオディキアは、シリアのアンティオコス二世が建設した町(BC3世紀)。彼は、妻のラオディーケにちなんで町の名を付けた。ラオディキアは、金融業や衣類、繊維黒い羊毛などの製造業、またローマ帝国全体で使われた目薬を製造したことでも有名であった。この街は裕福で、AD60年に地震で酷い被害を被ったとき、住民はローマからの援助なしで再建した。コロサイからは西およそ19キロに位置した。

二つの町を結ぶようにルコス河が流れています。パウロはどちらの町も、直接には知りません。伝道者エパフラスを介してよく知るようになりました。

宣教者パウロは、コロサイの人々と、このラオディキアにいる人々、そして未知の人々のために「苦労して闘っている」と書き送ります。この三つは、別々のものでしょうか。意見が分かれます。いまだ会ったことのない人々は、コロサイにもラオディキアにもいます。コロサイとラオディキアに居る、知らない人々、それらを越えて更に知らない人々。或は、二つの町の消息を聞いて承知している人々と全く知らない人たち。私自身は、あまり意味のあることとは考えません。私たちがこれを読み、学び、パウロの声を聞いていることが大事だからです。それでもあえて言うなら、二つの町を含みながら、それを越えて、会ったことのない多くの人々のためにパウロは闘っている、と考えます。

ここからは更に疑問が湧き、質問したくなります。

先ず、これらの人たちのことを心にかけ、心配し、闘うなら、何よりも現地へ赴けば良さそうなものです。何故、行かないのでしょうか。むしろそうではなく、行きたくても行けないのでしょう。そこには事情が在るに違いありません。

恐らくパウロはローマの獄中にいたのではないでしょうか。言行録28:30

「パウロは、自分で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者は誰彼となく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を述べ伝え、主イエスキリストについて教え続けた。」

全く自由に、とは言いますが、控訴審を待つ囚人と同じ状態です。牢獄の代わりに借家住まい、というのが面白いところですが、やはり拘束された状態には違いありません。守衛が立ち、出入りの者を調べ、パウロが他所へ行かないようにしています。その範囲内では自由でした。

このことから色々なことが分かるようです。

先ず闘いの性質です。多くの人が指摘しています。『祈りの闘いである』。

いわゆる戦争とは全く違います。コロサイとその地域の未知の友、兄弟姉妹のために、彼は祈ります。これはしばしば批判されます。祈って何になるのか、腹はくちくならん、というように。苦しい祈りはまさに苦祷となります。

人にはさまざまな苦労があります。一体、ここでは何をもって苦労と言っているのでしょうか。行きたい、然し行けない、この苦しさがあります。それをパウロは嘆いているのでしょうか。否、祈ることが出来る、それは必ず聞かれるという確信に裏打ちされて、彼は賛美と感謝を捧げることができます。

また、戦うという時、必ずその相手が居るはずです。それは何か、どのようなものでしょうか。グノーシス派の偽教師たちが祈りの闘いの相手です。彼らは、非常に精妙な知識の体系を持ち、それを一般の人たちには隠しました。隠すことで求めさせるのは、新興宗教がよく用いる方法です。パウロが偽教師を祈りの相手、とする時、彼はその相手を抹殺しようと祈るのではありません。呪いではありません。

偽教師と、その教えに惑わされる人々が、まことの知識と知恵を得て、永遠の命に与るものとなるように、祈るのです。憎しみでは祈れません。愛をもって祈ります。

このように考えても、私にとって、祈りは平安を得るときです。闘争の相手が居る、という考えは馴染めないと感じます。

 神学校の祈祷会で有名な話があります。神学生同士が祈りの中で喧嘩をした、というのです。私にはできませんが、神学論争をした神学生もいました。もう名前は忘れました。

これらが祈りにふさわしいとは思えません。と言って自分が正しいとは申しません。

 創世記32:23以下に『ペヌエルでの格闘』があります。56ページです。

ここでは、ヤコブが何者かと組打ちをして、腰の関節を外されたにも拘らず、「祝福してくださるまでは離しません」と言い、ついに祝福を手に入れました。

 これは夜通し神に祈ったことを表している、とされます。祈りは神との格闘です。

祝福を受けるための格闘、神の計画を示されることを求める格闘、道を知るための格闘です。私自身は感覚的に祈りの相手という考えは好みません。然し聖書は明らかに、神という祈りの相手は居ますよ、と告げています。聖書の前では、私の感覚や感情、知識や思想も引き下がらなければなりません。

祈る時、私たちは、他の人を相手にするのではありません。ただ主なる神を相手にします。そうでない時、祈りは独演会になったり、論争になったりします。アッシシのフランシスは夜中に起き出して祈りました。『ああ主世、わが主よ』と。これが祈りです。祈りと認められるのは、ただ主なる神だけを相手としているからです。

また、「分かって欲しい」と言っていますが、何を、どの様に分かれば良いのでしょうか。ある翻訳者は「知って欲しい」と訳しています。「分かる」という言葉はたくさんの意味を持って居ます。知識を蓄積すること、理解すること、分別すること、その他いろいろあることでしょう。

分かって欲しい、と言うのですから、分かってもらえていない、という現実があるようです。分かってもらえない、どこかもどかしいものを感じませんか。このくらいわかっていただけるはず、それがなかなか難しいのです。ここにもパウロの苦労が見えてきます。

ある人は言います。「分かることは、変わることです」と。パウロは恐らく、この手紙を読んだコロサイの人々が変わることを求めているのでしょう。それはどのような変わり方でしょうか。これは多分にヘブライ的な考えに基づいています。ギリシャ世界と違って、へブライの世界では『知る』ということを知的な、内面のこととは考えません。それ以上に全人格的なことと考え、その言葉を用います。

頭の中に知識を入れたから、これで宜しい、とは考えません。分かること、知ることは、パウロの苦労する祈りを自分のものとすることです。自分も同じ祈りを捧げるものになることです。今風の言い方をすれば、愛をもって、パウロの祈りに連帯することです。

祈りを共有することで、何かが起こるのでしょうか。ある人は、祈りは無力だ、と言います。然し祈りには力があります。即効の力ではないかもしれません。ボディブローのように次第に効いて来ます。薬にも似ています。

先日、アメリカの製薬会社に勤める人が遊びに来ました。今、副作用のない新薬の開発をしている、と言います。本当なら凄いことです。然し一般的には、副作用なし、で通用する漢方薬も長い時間の内に副作用が顕れるそうです。

或は、睡眠導入剤も同じ性質をもって居ます。服用する人の症状に応じて調合,調整ができるそうです。寝つきの悪い人には、すぐに効く導入剤、途中で目が覚めてその後なかなか眠れなくなる人には数時間後に効き始める薬。両方をあわせることもできるそうです。

祈りがいつ聞かれるか、これは私たちに調整できることではありません。

2節以下では、あの偽教師のことが分かるように書いています。グノーシス派の教えは、真理の知識が大事である、としながら、それを一般の人たちには隠します。

しかし、コロサイやラオディキアの人たちが、愛に結ばれるなら、この真理であるキリストを悟るようになる、と語ります。

素晴らしいと思うのは、愛に結ばれて、ということです。キリストに結ばれる、キリストにある、と同じことです。この時、理解力が豊かになる、と指摘されています。

グノーシスは、知識と知恵を自分たちの内に隠します。しかしキリストは、すべての知恵と知識をご自身の内に秘めて、しかも信じるものの内に居ましたもうお方です。

このキリストに結ばれたコロサイの教会のために、パウロは苦闘します。祈ります。

キリストに結ばれているなら、多くの苦労はすでに解決済みです。その秘密がキリスト御自身なのですから。現代の教会も多くの問題を抱え、苦労して闘います。幸いなことに、その苦労もキリストにあってはすでに解決済みであると教えられます。教会はこのため、いつも楽天的です。

感謝して主を賛美しましょう。