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2008年8月10日

《息子たちを祝福する》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記49:1〜28

聖霊降臨節第14主日 讃美歌67,161,286、交読文20(詩90篇)

聖書日課 出エジプト34:4〜9、ヨハネ8:3〜11、ローマ7:1〜6、詩編87:1〜7、


庭の百日紅に花がたくさん付いています。先週は木曜7日が立秋、残暑見舞いになりました。6日水曜日の夕刻、ふと気付きました。みかんと桜の樹の天辺あたりにとんぼが群れを成して舞っていました。赤とんぼでしょうか。高い所ですから、黒い影になり、色も見えませんでした。まだまだ涼しくはならないよ、ちと早すぎるのではありませんか、と声をかけたくなりました。その後雷鳴と雨が来て、いくらか涼しくなりました。涼しくなるのを知っていたのだろうか、と感じました。


前回は、ヤコブの妻ラケルに対する思い出を辿ってみました。「死なれてしまった」という言葉が大きな手がかりでした。ラケルが死んで、深い喪失感を味わい、かけがいのない妻への愛を確認しているヤコブでした。その故に彼は、ラケルの産んだ子どもヨセフの二人の子供、マナセとエフライムを我が子として祝福しました。

今回はヤコブが十二人の子供を祝福する場面になります。

はじめはレアが産んだ子どもたち、ルベン。彼はヤコブの長子と認められます。如何にも長子らしく気位も高く、力も強い。然し水のように奔放であった故に父の寝台を穢した。創世35:22.そのため長子の権利はヨセフの子らに移される。彼を象徴するものは水になります。

二・三番目はその弟シメオンとレビ、この二人は妹ディナが乱暴されたとき、シケムの人々に報復しています。創世34:25以下。古代の同態報復法と異なり、怒り、憤りのままの謀議とされ、その嗣業は取り上げられることになります。後になり、シメオン族はユダ族に吸収されます。レビ族は祭司である故に土地は分与されませんでした。

四番目はユダです。彼は兄たちがその行い故に兄弟の中での指導力を失ったため、代わって指導する立場を獲得します。そのシンボルマークは獅子です。後に、ユダ族の末にダビデが生まれ、メシア・イエスが生まれることになります。11・12節は、豊かさを表現しています。ロバの子をブドウの木につなぐようなことは愚かなこととされます。ロバは喜んでブドウを食べてしまいます。知っていてもつなぐほど、人々はブドウに満ち足りている。またロバも食べ飽きるほどに成っている、というのです。

五番目に挙げられるのはゼブルンです。カナンの地北部、ガリラヤ湖の西がその所領で、海岸のシドンも近く、殆んど海の民のような生活ができました。イスラエルには珍しいことです。旧約聖書では、海は怪物レビヤタンの棲む所として恐れられていました。

ゼブルンのシンボルは魚、または海になります。

彼はレアによる6番目の息子、イッサカルが5番目で、このところはなぜか順序が逆転しています。

六番目がイッサカルです。骨太のロバと呼ばれた頑健な体力で知られたはず。弟のゼブルンと共にガリラヤ湖の西が所領とされました。「二つの皮袋の間に身を伏せる」と言う表現は諸説があってよく判りませんが、安楽を求めて奴隷身分に身を落とす意味であろう、とも言われています。

七番目はダン。彼は、ラケルの女奴隷ビルハが産んだ男の子です。彼の所領は最も北、ヘルモン山麓に求められました。その結果、全イスラエルの領土は『ダンからベエル・シェバまで』と呼ばれるようになり、いつまでもその名が記憶されることになります。有名な士師サムソン(士師記13)はこの部族出身です。士師記18章を見ると、ダンは領土を得て安住するために、ライシュの町を襲撃・占領します。そのようすから蛇と呼ばれたのでしょう。ダンの名は、ヘブライ語では『裁き』を意味します。



閑話休題

ロシア生まれのユダヤ人画家、大勢いますが、その一人にマーク・シャガール。

大変幻想的、ファンタジックな画風が愛されています。ナチの弾圧のため、フランスからアメリカへ亡命しています。戦後フランスへ帰り、国籍をとり永住しました。社会的な関心も強く、ユダヤへの愛も深い方でした。アンドレ・マルローと親しく、彼が文化大臣をつとめたこともあり、旧約聖書に描かれた17場面をステンドグラスにしてフランス国家に寄贈しているそうです。マルローは、これを受けて南仏ニースの近くにシャガールの作品を収蔵、展観する美術館建設を推進しました。


私は、それらシャガールの作品を観たことはありません。わずかに知っているのは、エルサレムにあるシャガール晩年のステンドグラスです。と言っても一度見ただけですが、なかなか味わい深く、忘れ難いものです。場所は、エルサレムの西約7km、伝承では洗礼者ヨハネの誕生の地とされる場所、此処に国立ヘブライ大学医学部があります。その中のハダッサ医療センターに付属する近代的なガラス張りのシナゴーグがあり、その内側にシャガールのステンドグラスがあります。しかも外側は、医療センターの廊下になっていて、そちらからもこれを見る事ができます。モチーフは創世記49章の『十二部族の祝福』です。

十二枚のそれぞれが一部族に宛てられています。十二枚の写真もありました。何枚か購入しましたが、貧乏旅行ではそれが精一杯。それも引越しの間に失いました。

これほど優れた作品だから、どこへ行っても写真や解説があるものと思いました。

ところが、探してもありません。それに言及するものも見当たりません。聖地旅行の専門旅行社の解説書にもありません。旧約聖書関係の書物にも。

『死海写本と聖書の世界』という日本聖書協会が造った書籍があります。

死海写本を日本で初公開するに当たって作られました。友人がその展覧会へ行き、お土産に買ってきてくれたものです。

写本そのものは、ヘブライ大学内に死海写本展示館があり、一階でコピーを展示、本物はその地下に所蔵されているようです。いろいろな事が書いてありますがシャガールのステンドグラスについては何もありません。彼が戦前戦後25年間をかけて創作した『バイブル』は、その写真もあります。

写本を見て、ついでに面白いものを見せてあげよう、と言われてシャガ−ルを見たように憶えています。

元に戻りましょう。

八番目にガドの名が呼ばれます。ガドはレアの侍女ジルパが産んだ息子です。

「略奪者に襲われる」と会って、祝福にもならないようです。これはガドの名が、ヘブライ語の「グド」襲う、とよく似ているためでしょう。彼らはヨルダンの東側に定住します。後になり、ダビデの勇者、勇敢な戦士の中にガド族の者の名があげられています(歴代上12:15)。


九番目はアシェルです。彼もジルパの子として生まれました。その領地はカルメル山の北、地中海沿いの地方です。肥沃な農地の広がる西ガリラヤです。ゼブルン同様海に近いこの地域は、海の民への可能性と同時に、フェリシテの人々と激しく戦う可能性を示します。然し此処では、豊富な食物が与えられる事が言われます。


十番目はナフタリです。彼は、ダンと同じくビルハから生まれました。その所領は、ガリラヤ湖の北西の丘陵地、海からは離れた所です。ペリシテとの争いも少ないため、平和で自由な生活が出来たことでしょう。


十一番目はヨセフです。彼は、ヤコブの愛するラケルから生まれました。そして、その受け継ぐべきものは、一つを増し加えてヨセフの二人の息子に与えられることになっています(48:5,6)。それがマナセとエフライムです。その所で兄であるマナセは将来衰退し、弟であるエフライムが強大になるだろう、と言われました。そのことは、マナセには触れないまま、ここでも繰り返されます。エフライムは若木のように垣を越えて伸びるだろう。すなわちヨセフの末は、境を乗り越えるようにして土地の境界を広げ、豊かに、強くなるだろう、と言われます。



 十二番目はベニヤミンです。ヨセフ同様ラケルから生まれました。その後間もなくラケルは命を落とします。またヨセフは死んだと伝えられます。父やコブは悲しみにくれます。

このベニヤミンを一所懸命可愛がり、育てました。それでも、甘やかせて軟弱にしたわけではなさそうです。「噛み裂く狼」と呼ばれます。後になるとこの末裔からイスラエル初代の王サウルが出てきます。伝承では、捕囚時代、ペルシャ王クセルクセスに仕えたモルデカイはベニヤミン族の出身。また初代教会の、異邦人の大使徒パウロもこのベニヤミンの出身です。さまざまな形ですが、勇士が生まれる、という祝福だったようです。


これが、やがてイスラエル十二部族となる者たちへの祝福です。レアが六人、ジルパが二人、ビルハも二人、そしてラケルも二人の男の子を生みました。どのような祝福でしょうか。17章では、主なる神がアブラハムを祝福します。27章では、イサクがヤコブを祝福しました。神が約束された恵みを与えることでした。

祝福と言いましても、必ずしも良いことばかりではありませんでした。確かにヨセフに対する言葉は祝福に満ちているようです。しかしその他の息子に対しては、将来への、少々辛口預言でもありました。ヤコブにとっても思いがけず、悲しいことになりました。

1節でヤコブが語る通り、「後の日にお前たちに起こることを語って」置いたのです。祝福に満ちていそうなイスラエル十二部族も苦しみや悲しみを経験します。

そうした息子たちに対する祝福と言えそうなものは、18節の言葉です。

「主よ、私はあなたの救いを待ち望む」。

父ヤコブは七番目に、ダンに語り掛けました。それまでの内容は祝福には遠く、むしろ苦しみと悲しみに満ちたものでした。父も子どもたちもやりきれない思いに満たされたでしょう。その只中で、父子相共に救いを求めたのです。

詩編121編を思い出します。交読文28、

「われ山に向かいて目をあぐ、わが助けはいずこより来るや。

わが助けは天地を創り給える主よりきたる」

ヤコブは息子たちに語りかけながら、後の日にも、助けを求めることの出来る創造主なる神がおられる。これを息子たちに言い残すのだ、と悟ったのです。祝福になりました。

この祝福に、私たちも与る事が許されています。感謝しましょう。