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2008年6月22日

《夢を見る者、夢を解く者》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記41:1〜25

聖霊降臨節第七主日 讃美歌6,164,293、交読文15(詩51篇)
聖書日課 ヨハネ4:43〜54、ホセア14:2〜8、使徒9:36〜43、詩編49:13〜21、

沖縄は梅雨明け、本州の梅雨は本格化するのが常だそうです。その上昨日は夏至、如何にも夏らしく、蒸し暑くなりました。二日目にして早くも気息奄々の状態。この夏をどの様にすごすことが出来るのでしょうか。冷房の中に閉じこもって北京オリンピック。これはごく普通の過ごし方でしょうか。

前週の説教は最後に、災害の多い時代の中で、思い通りにならないことが多い中で、神の業が顕される、とお話しました。本日はヨセフとポティファルの妻のことをお話しすることになります。どこかにこの物語は説教に馴染みませんよ、と言いたい気持ちがのぞきます。でも他の牧師は説教しておられます。ここでもすでに「ユダとタマル」の物語をお話ししました。ためらいを棄てて、しっかりお話しましょう。

今朝は、もう一度39章のはじめから、ご一緒に読んで参りましょう。
イシュマエル人の商人は、エジプトの文化、ミイラ造りを支える品々を売りに来ていました。彼らは同時に、エジプト人が必要とする物を良く知り、運んで来ていたようです。商売の道は、いつの時代も、どの人種であっても同じです。必要とされる物を察知し、あまっている所から足りない所に運び、それを提供することです。宮廷と貴族が存在する所では多勢の奴隷が必要でした。

さまざまな仕事が奴隷の手に委ねられました。主人の務めは優れた才能を見出し、その手に仕事を委ねることです。現代の経営者あるいは行政官と変わりないかもしれません。

ポティファルは王の侍従長、その名はエジプト語で「ラー(太陽神)が与えた者」を意味するそうです。スタディバイブルは「侍従長は王の個人的な護衛を担当した」と書きます。彼は王の信頼を受け、高い地位にあり、その務めは非常に多忙です。優れた能力を見出し、その者に委ねることを夢見るほどだったでしょう。

イシュマエル人から買い受けたヘブライの若者は、先ずその外観が立派です。6節後半「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」とあります。次いで仕事を与えますと、立派にやり遂げます。それを見たポティファルは、このヘブライ人の神が共にいて、万事を益としておられることを知るようになります。そして、その家のすべてを彼の手に委ねました。

その結果、ヨセフの神の祝福がこの家のすべてに及ぶようになります。ポティファルはすっかり安心しています。この中にも、イスラエルの神は世界の主である、という主張、信仰の告白ががなされています。

すべてがうまく行った、というのはどのようなことでしょうか。私たちはうまく行かないことのほうが多いのです。私たちは神と共にいる、と信じていたのに、神から見放されていたのでしょうか。ヨセフの場合、何をしても神様が手を出してマジックのように大成功に変えてしまうのでしょうか。神共にいます、というのはどういうことなのでしょうか。なかなか難しいことですが、私はこのように考えます。

先ず一つは、聖霊の働き、ということです。今は聖霊の時代です。聖霊は、人間を神の前で生きる者とする神の力です。神共にいます、ということは他者を生かすことです。

二つ目は、神はすべての者に、必要な知恵と力を与えてくださっている、ということです。ヨセフの場合でも他の人たちのお世話をするために必要なものはすべてお与えくださいました。それを正しく用いる時、万事がうまく行きます。それを自分の欲望のために利用したりすると、その時はうまく行ったように見えますが、後ですっかり壊れたりするようです。

ここでポティファルの妻が登場します。「私の床に入りなさい」。世界は、光と闇、プラスとマイナスを交互に繰り返してきました。中国の文化大革命の頃、中国で長く伝道しておられた先生のお話を聞く機会がありました。『中国大陸の悠久の歴史は変わりませんよ。

今共産党や文革が話題になるけど、皆暫く経つと揺り戻しがあり、飲み込まれ、民衆が残るのです。元に戻ります。』
人間は歴史からあまり学ぶことをしないものなのだ、と感じました。
男と女のことは、いちばん変化、成長、発達がないことではありませんか。昔々の物語がいまだに通用するのです。人間の本性が変わらないからでしょう。

 ある時期には、本性を抑えようと社会全体が努力したこともあります。諦めたように見える時期もありました。いずれにしても、もとの木阿弥、いつの間にやら有耶無耶のうちに元通りか、もっと悪くなる。主イエスもベルゼブルの譬で教えておられます。
男女間の倫理に関しては、戦後60年間、自由と解放の方向へ向かい続けたようです。それは家庭の崩壊の流れでもありました。

ポティファルの妻は、ヨセフを誘惑します。それもかなり手馴れた、権柄づくの感じを与えながらです。ヨセフはためらいもせずに断ります。毎日繰り返されます。変わることなく拒絶されます。『可愛さ余って憎さも百倍』と言います。ことはそれだけではありません。ここまで言い寄って断られる、というのは彼女にとって初めての経験です。どんな男も自分の言うがまま、と自信を持っていました。自信が崩壊します。それだけではありません。彼女の威信、権威が崩壊しそうです。もしヨセフが事の真実を逐一話したらどうなるか、考えても恐ろしいことです。彼女は先手を打つことにしました。権威と身の安全を守るために。

それが13節以下の展開です。ヨセフが彼女の手に残した着物を証拠にポティファルに訴えます。あんなヘブライ人奴隷を連れて来るからこんなことになった。「私が辱められた」と。

これは本来、暴行を受けたことを訴える言葉です。このところでは、彼女の言うことを聞かない男がいることが恥辱となった、となるように言葉が用いられています。

当時ヘブライ人は、エジプト人の目には、土地や財産を持たない貧しい漂泊の民、貧しい遊牧民と映っていました。『さすらいのイブリに注意せよ』という言葉が古文書に見られますが、これもヘブライ人のことと考えられています。

これほどの訴えであれば、家中の者の証言によって、直ちに殺されてもおかしくありません。ところが主人ポティファルは、怒りはしたもののヨセフを獄に入れただけです。確かに王の囚人を入れる獄屋ですから、重罪犯とされたことでしょう。死刑執行を待つ身である、という解釈もうなずけます。しかし証人を呼びもせず、何ら取調べをしていない、ということは何かあると予測させます。恐らく、これまでその妻の不行跡を耳にしながら、何ら手を打たなかった主人ですが、このヘブライ人に対してはその忠誠を疑うことは出来なかったのです。

獄中のヨセフはどうなったでしょうか。ポティファルの家にいたときと全く同じ状態になります。「主が共におられ、導かれたので、すべてヨセフが取り仕切るようになった。

ヨセフに委ねたことは一切目を配らなくても良かった。ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである』。

いよいよ40章に入ります。小見出しは《夢を解くヨセフ》です。

エジプト王ファラオの側近、給仕役と料理役が、何か失策を犯したようです。食卓にお出しするものの中に、悪いもの、危険なもの、たとえば毒物などが入っていたのでしょう。

造り手か給仕する役かどちらかの責任だ、ということです。クレオパトラの時代でも毒物は、エジプトではたいへん身近にあったもののようです。料理されたものに異常があれば、先ずその造り手、厨房の責任者が疑われます。今日なら総料理長の責任が問われるでしょう。次いで給仕役。これはヘブライ語で『酒を飲ませるもの』を意味するそうです。どちらも信頼を受けて、この仕事についているはずですが、事件になりました。最終の判決を待つ日々を侍従長の家にある牢獄で送ります。そのお世話役はヨセフです。共におられる主によって、ヨセフの仕事は祝福されています。

彼ら二人がそれぞれ夢を見ます。この時代、夢には、何らかの意味が潜んでいる、と考えられていました。従ってその意味が判らない時、人々は不安に襲われます。何とかして知りたい、と願います。憂鬱な顔になります。

 世話役ヨセフは、朝ごとに彼らの顔を見ます。親が子供の顔を見るように、その健康を調べます。何かあったに違いない。そこで問いかけます。7節

「今日(きょう)は、どうしてそんなに憂鬱な顔をしているのですか。」

「夢を見たのだが、解き明かしてくれる人がいない」

これに対するヨセフの応えは、驚きを感じさせるものです。「解き明かしは神のなさること。私に話してみてください」と。自分が神によって、解き明かしましょう、と言わんばかりです。彼はそのような自覚を持っていたのでしょうか。ヨセフは自分の見た夢を解いた事もあります。ここまで郷里を離れたところで祝福されて歩んできました。彼の中には、ある種の自信があったことでしょう。親の顔色を伺いながら育つと、その子は自主的な判断・決断が出来ないようになってしまうことが多い、と言います。ヨセフにはそのようなことはありませんでした。自主独立の人間として、神の祝福と守りを体験してきました。獄中の二人についても、世話をするのは当然、そのために必要な力は神が与えてくださる、と信じています。

 先ず給仕役の長が話します、9〜11節。そしてヨセフの解釈が12〜13節。

給仕役の長には、釈放され、復職が適うでしょうと告げます。更にヨセフが身の上話をしたことが記されます。給仕役が幸せになったなら、私のことを思い出してください、と告げています。思い出す、ということは復職してすぐのことは予想もしていない、ということになります。月日が経った後、神のご計画の時が満ちたなら、思い出してください、と言っているようです。

これを聞いた料理役のかしらもヨセフに夢を語り、解釈を教えるように求めます。16節。

18節はヨセフの解釈です。料理役は処刑される、というものです。

20節で三日目に起こったことが語られます。すべてヨセフの解釈の通りになりました。

そして復職することが出来た給仕役の長は、ヨセフのことをすっかり忘れてしまいます。

 私たちは、このような場合、この給仕役の長を非難します。確かに忘れてしまうとは酷いことです。しかし、平安を与えてもらった、というぐらいのことは忘れるものです。それどころか、そのようなことがあったことも忘れてしまうものではないでしょうか。聖書はこの人を非難しません。恩知らず、自分勝手などと言いません。私たちも非難する必要はありません。むしろ、神が用いられる時を待ちましょう。その時を見ることはないかもしれません。それでも次の世代がその恩恵に与ることになるでしょう。

夢を解いたヨセフは、神の時をゆっくりと待とうとします。

私たちには、神のご計画の時を待ち望むことが許されています。