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2008年4月6日

《父は祝福する》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記27:1〜29

讃美歌31、151、348、交読文10(詩32篇)
聖書日課 ヨハネ福音書21:1〜14、イザヤ61:1〜3、?ペトロ1:13〜25、
詩編145:1〜9、

4月4日は「清明」、二十四節季の一つ、中でも文字通り麗らかな頃、と知られています。冬至から105日。春爛漫ということです。むしろ晩春の頃とされ、中国の詩人はこの頃春を送る詩を読みました。その詩には「柳じょ飛ぶ」、とありました。柳の綿毛と言えば良いのでしょうか。
教会の庭では桜と鉢植えの君子蘭と春蘭が満開、フリージャが咲き始めました。

本日から創世記を読みます。2006年度、2007年度は教会暦に従い聖書日課による説教を試みました。少し欲張りすぎの傾向もありました。それでも教会暦がある、ということはかなり意識していただけたのではないかと感じます。一年の、時間の流れの中で、教会の大事な教義を聖書に従い学ぶことが出来ました。今回はこのくらいで宜しいかと存じます。
創世記は、2005年4月17日から読み始めました。《混沌からの創造》
2006年3月26日創世記26章《イサクは祝福を受けた》で、一旦お休みにしました。
今回どうしようか、創世記はいつか再開する積りでしたが、今でなくても、何時でも出来る。教団信仰告白にしようか、と考え、実は用意を始めました。ところがご存知のはずですが、ディサイプルス教会は無信条教会です。調べますと、教団信仰告白制定時に「この程度なら宜しかろう」と、その時の牧師が語っておられるようです。しっかりと拘束するようなものではないこと、特別な告白内容を持っていないこと、の故にこれを受け入れることにしたようです。玉出は伝統を大事にする教会です。役員会で信仰告白を学び、これを礼拝で講解しても良いか否か決めてからにしよう、と考えるに至りました。
 ということで、創世記の続きです。最後50章まで読みましょう。

久し振りのことです。少し創世記の流れを確かめておきましょう。
天地創造から始まりました。アダムとエヴァ、カインとアベル、アダムの系図、洪水物語、
ノアの系図、バベルの塔、セムの系図、アブラハム物語は12章から25章その埋葬まで続きます。イシュマエルとイサクの誕生、イサク奉献、サラの死、イサクの結婚、

 この間にアブラハムの子孫から、イスラエルとは違う種族が生まれます。アブラハムはアダム系ノアの息子セム、弟がハム、ヤフェトです。10:13をご覧戴くと宜しいでしょう。
ハム系の種族、民族の名が記されます。クシュ、エジプト、プト、カナン、これはアフリカの人たちになります。エジプト、リディア、上エジプト、そしてカフトル人、そこから出るのがペリシテ人。後の時代に天敵のように対立、戦うペリシテは本来一族なのです。
 このエジプト人に関しては、現代の科学が面白い報告をしています。4000年昔のミイラと現代のエジプト人は、全く同じ頭の形をしている、というのです。私は面白いと感じました。おそらくハム系のエジプト人は、聖書の時代の特色を少しも損なうことなく持ち続けている、あるいはもっと古くから強力な遺伝子の働きのため、変わらずにいる、と考えられます。他の種族は変化してきました。ハム系の歴史は面白い、最近では、人類の発祥の地はアフリカの中心部だろう、と推測されています。

 アブラハムの妻サラには子が生まれませんでした。そこで女奴隷ハガルによって、神が約束された子を得ようとしました。そこで生まれたのがイシュマエルです。アブラハムの子孫、割礼を受けた身でありながら、異邦人のように扱われます。
その名のように「野生のロバ」同様、ネゲブ地方で自由に暮らす遊牧の民となります(ヨブ24:5、ホセア8:9)。

 アブラハムの兄弟の子ロトから生まれた者(19:36)は、モアブ、アンモンの人々となります。

 アブラハムはサラの死後、ケトラを妻とし、子供を得ます。この子孫は、ミディアンをはじめとするアラビアの諸部族となります。
イサクの兄はイシュマエル。イサクはリベカを妻として双子の息子、エサウとヤコブを得ました。これが25章。エサウの名は「赤いもの」を意味します。これが後になりエドムと呼ばれる部族名となります。彼は、赤いもの、レンズマメのスープを食べるために長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまいます。そして本日の27章になります。

 ここで問題になるのは「長子の権利」ということでしょう。私たちの時代は、こうしたことをあまり考えないようになっています。自由と平等という考え方です。それでも私位の年代ですと、多少は残っているでしょう。私は十人兄弟の二番目、次男です。上に一人だけ兄がおりました。三月に亡くなりました。兄は、よく言っていました。
「お前はキリスト教でも何でも良いよ、だけど俺は長男だから、墓と仏壇を守るぞ」と。
私たちは、それが当然と考えていました。そのためにも家督は兄が相続するものだ、と。
時代は変わりました。法律も変わり、兄弟姉妹の平等を定めています。しかし人の思いが変わっているか、と言えば少し違うのではないでしょうか。不平等で良いのだ、と私は考えています。その家を継ぐものがあれば、それに当然伴う費用が必要です。
法律が変わった、と言ってもそれが全部ではありません。変わらない人の思いもあります。

 長子の権利は、父親からすべてを受け継ぐことです。家、財産、指導権、これは、まとめて「神の祝福を継承すること」と考えられます。全てのものは神から出て、神によって与えられたものだからです。これを軽んじることは許されません。固く守るべきものであって、一時の食い物と交換するなど、およそ考えられないことです。神への憧れを著しく欠いている、と考えられます。権利には義務・責任が伴います。
エサウは長子の権利を軽んじ、同時に義務と責任を軽んじました。今を凌ぐことが大事、後のことは私の力で何とかなるさ、と考えるのでしょう。能力の大きい人に特有の態度である、と感じます。エサウとヤコブの間では権利の移行が成立しています。しかしそれは公式のものではありません。

 歳月が流れました。イサクとリベカの夫婦は共に歳を重ねました。時間の量は同じでも、その方向は同じではありません。『同床異夢』という言葉を思い起こします。二人の間には隙間風が吹いているように感じます。エサウとヤコブの誕生は25章で物語られました。
27節はこのように語ります。
「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩の獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。」

この夫婦は、それぞれの好みに従い、その子供を愛しました。自分の都合によって偏った愛を注ぎました。一つの家庭の中で、子供が比較されると子供たちは競争相手となります。どこかで相手を出し抜いてやろう、と考えるようになります。等しく注がれる愛は、
他を思いやる優しい心、豊かな心を育てます。
 私の両親は、十人の子どもに等しく与えることを旨としていました。分け隔てなく育てる。ある時羊羹を作りました。勝手に取らせるようなことはしません。母がきっちり十等分して与えました。その切り方は見事です。定規で測ったようだ、と皆が記憶していました。そのためでしょう。父が私にどうせ消えてしまうのだから土地を買ってあげよう、と言ったときそれを受けることが出来ませんでした。今頃になって、貰っておいても良かったのに、なんて後悔していますが、これで良かったのです。

イサク老人は、目もかすみ、よく見えなくなりました。まだ力があるうちに息子に祝福を与えよう、と考えました。勿論長男エサウに与える積りです。鹿をとることの得意なエサウは、鹿肉の料理を好むイサクのお気に入りです。呼び寄せて言います。
「死ぬ前に大好きな料理を食べて、私自身の祝福を与えよう」。イサクは狩に出かけます。
 
これをリベカが聞いていました。暴風のような隙間風です。
「エサウに祝福、彼が後を継ぐ、そんなことになったら私はどうなる。あのヘト人の嫁と仲良くなんか出来ない。エサウもわたしを大事にしないだろう。私の望みはヤコブだけだ。ヤコブに祝福を受けさせよう。イサクはすでに衰えている。良い考えがある。」
ヤコブを呼んで策略を授けます。
子山羊二匹を使って私リベカが料理を作ること。
エサウの晴れ着を着る。肌は子山羊の皮で覆う。
こうしてヤコブはエサウになりすまして、イサクの前に出ました。
イサクは手で触って確かめ、料理を食べて満足し、ヤコブの着ているエサウの晴れ着の匂いをかいで、ついに祝福を与えます。28、29節
  神が祝福し、地の肥えたもの、穀物とブドウ酒を与えてくださるように。
  多くの民が仕え、多くの国民がひれ伏すように。兄弟たちの主人となる。
  お前を呪うものは呪われ、祝福するものは祝福されるように。
 祝福を受けたヤコブが立ち去ると、すぐにエサウが帰って来ます。そして美味しい料理を作ってイサクのもとに持ってきます。そこで一切が白日の下に曝されます。
「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった」

ここでイサクは、ヤコブを「我が子」と呼ばず、「お前の弟」と呼びます。37節ではエサウに対し「私の子よ」と呼びかけています。ルカ福音書15章『放蕩息子の譬』でも似たような言葉の使い分けがありました。年上の息子は帰ってきた弟がもてなされていることを知り父親に言います。
「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」

 この物語は大変面白く感じられるのは何故でしょうか。他人事ではなく、自分に関わることとして読めるからでしょう。私たちは、自分にとって都合の良いものを愛します。不都合なものは上手に拒絶し、排斥します。この悲劇の原因を、視力の衰えに求める学者が多いようです。それは直接のことであって、深いところに真の原因があります。
『偏った愛』が悲劇を生み出します。今日も多くの事件が報道されます。いつも考えます。「ことによると、この事件の陰にもどのような形か分らないけど、偏愛が潜んでいるのではないだろうか」と。
イサク、リベカ、ヤコブ、こうした人々が、神に用いられ、神の御用を果たしてゆくのです。

 退けられた人々、権利を守ることが出来なかった人々はどうなるのでしょうか。ダヴィデはエサウの子孫エドムを征服しました(サム下8:13列上11:15以下)。以降アハズ王の時代までエドムはイスラエルに従いました(列王下8:20以下、16:6参照)。切り捨てられることなく、依然として兄弟として遇されました。
弱い私たちも捨てられるのではなく、神のご計画の中にあり、用いられ、愛されるのです。
感謝しましょう。