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2008年3月2日

《香油を注がれた主》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ヨハネ福音書12:1〜8

三月、弥生、口にするだけでも、春が香ってくるように感じます。
岩槻では街中を歩くと至る所から梅の香が香ってきたものです。
玉出でも、意外な場所で梅の香をかぐことが出来ます。鉢植えで良い香りを発しています。

教会暦に基づいた聖書日課と主題との関連性をどの様に理解するかということは、絶えず悩みの種でした。それも間もなく終わりになります。本日の日課三つは、それぞれが油注ぎの一面を表し、総合して一つの画像を見るようになっているようです。
先ず旧約の日課から見てまいりましょう。

サムエル上9:27〜10:1,6〜7です。441ページになります。お読みします。
この少し前8章から、エジプトを脱出したイスラエルが、約束の地、乳と蜜の流れるカナンの地に侵入、定着した後、自分たちを治める王を要求することが記されます。有名な「王の慣わし」が語られ、9章に入り、ベニヤミン族、キシュの子サウルという若者が登場します。そして9章の終わりから10章にかけて、預言者サムエルが、キシュの子サウルに油を注いだことが記されます。
ベニヤミン族は、イスラエル民族の先祖、アブラハムの孫ヤコブの12番目、末息子の名、勇士として知られ(士師20:16)、ヤコブが臨終の床で彼を祝福し「噛み裂く狼」と呼んだことが印象的です(創世49:27)。この部族からは後に、異邦人の大使徒パウロが出ます。

スタディバイブルは、この油注ぎを次のように記します。
『祭司、預言者或は王など神が選んだ務めに任じるとき、頭にオリーブ油が注がれた。
親戚や親しい友人同士は口づけをして挨拶したが、ここでは油を注いだ後の儀式的な口づけ。サウルが王となることを示したと考えられる。』

 それに続いて、「指導者とされたのです」とあります。七十人訳聖書では次のようになります。「あなたは主の民を治め、周辺の敵から民を救うでしょう。これこそ神があなたに油をお注ぎになったしるしです」。
この「指導者」ナギードは、王位に就く前の称号、とされます。

10:6,7節には、その頃の預言者集団が登場します。彼らが登場するのはギブア・エロヒムです。「神の丘」を意味するエルサレムの北約5キロメートルの場所とされます。
この預言者たちは、いろいろな楽器を奏しながら高台から降ってきます。恐らく恍惚状態になって預言したものと考えられます。サウルも同じ状態になって、その預言者の一団の一人となるようです。
それこそ神が共にいるしるしで、しようと思うことは何でもして宜しい、とサムエルは告げます。いつでも自由なのでしょうか。

 14:10を読むと、主はサウルを王にしたことを後悔されます。恍惚状態の時は長く続くのではなく、その時以外は、自分の思いのままにしてはならないのです。サウルは、神の命じるところを自分勝手に判断し、欲望を満足させようとしました。ことによると、自分は王だからこの位は良いだろう、許されるはずだ、と考えたかもしれません。自分中心の考え、欲望充足を中心にすえた考えは、神に従うのではなく、神を従わせようとします。

油注ぎは、人を預言者、祭司、王に任じます。しかしそれは、人を絶対者・独裁者にすることではありません。神を主と崇め、その言葉を奉じ、その御意志に従い、神を礼拝し、神の民を救い、守り養う者こそ神により油注がれた者、メシアです。

本日の福音書では、どのような油注ぎがなされるでしょうか。先ほどお読みいただきましたヨハネ12:1〜8、をご覧ください。ラザロの家での出来事とされます。
ベタニアは、エルサレムの東約3キロメートルにある小村で、オリーブ山の斜面にあった。
ラザロの名はヘブライ語で神は助けるの意味。ヨハネ11章は、このラザロがイエスの力によって甦らされた物語である。ハリウッド映画『偉大な生涯の物語』では、前半部のクライマックスをなし、ヘンデルのハレルヤ・コーラスが鳴り響いていたように記憶します。

マルタとマリヤという姉妹がいて、マルタは給仕をし、マリヤが香油を持ってきます。
このマリヤはどのような人物か、興味が湧きます。福音書は三人或は四人のマリヤを告げています。同じ人物かも知れず、決定的なことは言えません。イエスの母マリヤ、マグダラのマリヤ、ベタニアのマリヤ、イエスの母マリヤの妹でクロパの妻マリヤ、ゼベダイの子らの母マリヤ、マリヤ崇拝はローマ教会のことで、私たちには関わりはありません。それでも不思議な方たちで興味はあります。いつの日かお話できるでしょう。

ルカは、なぜかこの香油を注ぐ出来事を伝えていません。その代わりでしょうか、ルカ福音書10:38〜42で、マリヤとマルタの物語を伝えています。場面は、ある村となります。姉のマルタはイエスを迎え接待のために忙しくしています。妹のマリヤはイエスの傍らに座り、懸命に耳を傾け、イエスから学ぼうとしています。イエスは言われます。
「なくてならぬものは多くない、一つだけ。マリヤは良いほうを選んだ。それは彼女から取り去ってはならない」。

マルコ福音書もマタイ福音書も、場所はらい病人シモンの家とし、この女はイエスの頭に油を注ぎかけた、と告げます。これは高貴な客人を迎えるときの慣わしです。この家の主人は何もしなかったのです。
ヨハネ福音書だけが足に油を注ぎ、髪の毛でぬぐったと知らせています。矢張りこの家の主人は客を迎えて何もしなかったようです。

マリヤは純粋で高価なナルドの香油をイエスの足に注ぎ、自分の髪でその足をぬぐいます。リトラは重さの単位で約326グラムになります。300デナリ以上(マルコ)で売ることが出来るこの香油は、労働者一人の年収に近い値打ちがあった、となります。

 このマリヤの行為を見た弟子の一人、イスカリオテのユダが言います。
「何故、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。
「貧しい人たち」申命15:11、ラビたちによれば、葬りは憐れみの業、施しは正義の業であって、前者が優先されるべきだと言います。
福音書記者ヨハネは、ユダの隠れた動機を明るみに出します。「彼は金入れを預かっていたが、その中身をごまかしていたのである」と。これは、現代社会の病巣を指摘するものですが、本日語ることはしません。

油注ぎにはもう一つの意味がありました。葬りです。東洋ではお香を用います。東方教会と呼ばれるギリシャ・ロシアの正教会も同じようにお香をよく用います。日本の教会も、もっと上手に用いると良い、と考えています。抹香臭いのではなく、もう少し上等な香りを楽しめるものを使うと良いでしょう。
主イエスの塗油は、本来、亡骸を清め、良い香りで死臭を消すためのものでしょう。
この女は、イエスの死の準備をすることを許されました。光栄なことです。

さてここまでは、私たちとは直接の関係がない、と言うことも出来るでしょう。
偉い人が、神に選ばれることだろう、お任せするよ、というわけです。

そんな私たちに、あなたがたも油注がれるのです、油注がれたのです、と告げるのが本日の使徒書簡です。

?コリント1:15〜22、新約の326ページをご覧ください。
パウロの伝道計画が告げられます。コリントを経由してマケドニアへ行き、そこから再びコリントへ戻り、ユダヤへ送り出してもらいたい、と。コリントを信頼して、中継基地とし、そこで力を養おうとしていることが分ります。
この時代のことです。徒歩の旅は長くなるのが当然でした。信頼できる中継基地があればどれ程安心できるでしょうか。パウロはコリントの信徒に対しさまざまな忠告をしています。問題の多い教会であり、その信仰者たちです。それにも拘らず信頼し、自らを委ねようとします。何故そのようなことが出来るのでしょうか。21節にその思いを語ります。
「私たちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、私たちに油注いでくださったのは神です」。

ここでは、21節の「油注ぎ」に注目します。
「次節の「証印」と共に、キリスト教への入信の際の洗礼とそれに伴う聖霊の授与の典礼を、ここでは暗示している。」
すなわち、一般的にいえば、私たちも、この油注ぎに与っているのです。

油注ぎは、祭司、預言者、王に任じることでした。救い、守り、導き、養う者です。
またそれは葬りの準備でした。
主イエスは、油注ぎを受けました。祭司、預言者、王に任じられました。栄誉を受け、人々の歓呼を受け、豪華な衣装を身にまとい、黄金の冠を頭に、金殿玉楼に住んだでしょうか。主は、亜麻布をまとい、茨を冠とし、鞭打たれ、嘲られ、十字架にかけられました。
これが主イエスの油注ぎでした。

そして油注ぎは、私たちも受けています。それは私たち全てのものを弟子とし、このキリストとの交わりに固く結び付けるものです。
感謝しましょう。