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2007年9月23日

《世の富》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書16:1〜13

 何時までも残暑が続いています。でももう少しです。頑張りましょう。礼拝も清涼感があると良いのですが、主題は重い感じ、その上、少々暑い感じもします。お許しください。
 
本日の聖書日課、最初はアモス8:4〜7、旧約の1439ページ。8:4には小見出しがあり「商人の不正」とあります。短くお読みしましょう。

アモス書は、預言の書の一つ、大部分の預言書との違いは、アモスが職業的預言者ではなく、エルサレムの南にあるテコアの牧者であった事です。イチジク桑の栽培も行なっていたので牧畜農家と呼べるかもしれません。牧者、農夫、どちらであっても都市の人ではなく、自然の大地を相手にする人でした。その活躍した時代は、北イスラエルの王ヤロブアム二世の時。北王国繁栄の時代です。人々はヤロブアム一世が作ったベテルの聖所で、異教の偶像神を礼拝し、権力者、富裕層は無力な弱い者から略奪、搾取している状態でした。アモスは、それを憂え、豊かさ、贅沢を戒め、悔い改めないなら神が罰せずには居られない、と警告します。自然は搾取もしないし、嘘もつきません。農夫、牧者であるアモスにとって、大都市で繁栄している権力者、富裕な者たち、商人たち、宗教家などの欺瞞は許せなかったに違いありません。

 有能な者たちが努力して「世の富」を自分のために集め、蓄積します。しかし、その背後には、このような欺瞞、搾取が、不正がありました。不正な手段と言う以上に、穢れた富そのものなのだ、とある人は書いています。

こうしたことは、結局「羊を食い物にする羊飼い」ということになるでしょう。エゼキエル書34章にある言葉です。繰り返し読んで来ました。1352ページ
羊は、国民であり、信徒です。その羊飼いは当然、王を指し、牧師を指しています。この羊飼いが、羊を養うのではなく、自らの満足のために、羊を食い物にするのです。珍しいことでしょうか。ごく当たり前のことなのです。
 サムエル記上8章は、王による統治を求めるイスラエルの民に与えた預言者サムエルの「王に関する慣わし」です。王の権能はどのようなものであるか、語られ、教えられています。この時代、周辺諸国の王制から学ぶことが多かったに違いありません。自分たちのため、戦い、守り、養う王を求めているが、王は自分のためにお前たちの息子・娘を働かせ、産物の良いもの、羊や牛の良いものを奪い取ってゆく。お前たちのための王ではなく、王のためのお前たちになるぞ、それでも良いのか。
イスラエルは、神による統治、支配よりも人間の王による支配を求めました。羊が、自分たちを食い物にする羊飼いを選び取ったのです。教会においても事情は同じでした。民が世の富を求めるなら、王はそれ以上に自分の富を求めます。
それが、使徒書簡の日課に記されます。

?テモテ6:1〜12、これは8月の聖書研究会で学んだばかりの所です。初代教会の時代、すでに利得を目的とする教師、伝道者がいたようです。
ある先輩牧師が言いました。日本でも有数の旧家の出身、慶応、東神大、コロンビア大学、英語、フランス語ぺらぺら、ギリシャ語ラテン語、ヒブル語は教えることが出来る。
「牧師になって出世した、と考えるような奴が多くて困る。そういう奴とは話が出来ん。一緒に仕事は出来ん」。偉くなった積りの牧師が多い事を嘆いています。

この中には、人からの敬意も入ります。卒業の時、学長が言いました。「教会へ赴任すると、君たちより年長で、社会的経験も、地位もあり、教養でも、信仰でもしっかりしている人がいて、君たちを先生、先生と呼んでくださる。そこでいい気になってはいけません」と。大事なことです。教会に仕えるために赴任したはずが、いつの間にか自分は偉い人であるかのように感じ、教会を自分の好みに合わせようとするのです。牧師に仕える教会に変えようとします。

 ここには、あらゆる悪の根は金銭欲である、と記されています。思い切った断定です。
金銭欲に拠らない悪もあるはずです。しかし、金銭欲が多くの悪の根であることは確かです。なくてならないものがあればよしとするようでありたいものです。
世の富を求める所では、一切のことが狂い始めます。ギリシャ語では「的外れ」が罪です。、本当に求めるべきことが忘れられてしまうのです。何を忘れるのでしょうか。
 
 はじめにお読みいただいた福音書を開きましょう。
ルカ福音書16:1〜13「不正な管理人のたとえ」です。
ルカ福音書特有の箇所。多くの譬の中でも最も難解なものとされています。
この時代、家の管理は奴隷にさせるのが普通で、大きな家では何名もの管理人を置いています。家財の管理、取引の管理、農産物の管理、奴隷の管理など様々に分割して担当させます。そうした管理人の一人です。解放奴隷が多かったようです。
油1バトスは、およそ23リッター、小麦1コロスは、約230リッター。
自分の保身のため、主人に損失を与えても恥じない。
この主人は、この管理人を賞賛しています。推奨しています。何故?
不正行為をほめているのではありません。
彼が将来に対して危機感を抱き、対処した事を誉めているのです。
それが8節後半部分からです。
ある学者はこの所から三つの教訓を読み取ります。
一つは「明敏性」です。鋭い読み、素早い行動、緊張した精神、そして全力投球。
フィリピ3:13〜14、?コリント9:26参照。次は「忠実性」。そして「集中性」です。

今回は、この教訓には余り関心を持たないほうが良いでしょう。「世の富」という主題と関わることに集中したいと考えています。
富については否定的な考え方があります。禁欲主義の立場から、あるいは不正な手段による蓄財を批判する立場、様々です。富そのものに善悪があるのでしょうか。富は穢れである、という考えもあります。富を得る手段、方法、富を費消する道、方向 が間違っていることもあるでしょう。  富もまた、神が与えたもうもの、感謝すべきものです。

修道院的禁欲、実は修道院の自給自足、自活体制の完備を背景に持っています。
騎士修道団・・・十字軍の時代、当初は聖地での活動。フランシスコ会、アウグスティヌス会の会則に従っている。寄進と商業保護活動により資産を蓄える。世俗の王侯貴族よりも豊かになる。フランスでは、世俗の王が支配する国土の只中に、教皇にだけ従う修道会勢力が存在した。中央集権支配の障壁となる。滅ぼして財産も奪おうとする。
神殿(聖堂、テンプル)騎士修道会、巡礼の保護を目指して1118年設立認可。本部をエルサレム神殿内に置く。後キュプロス島へ移る。その後パリに本部を置き(タンプル)、ヨーロッパ各地に支部を。1312年フィリップ4世により滅ぼされる。14年総長モレー処刑さる。100人以上の騎士も。勢力は一掃されたが、残余の騎士と多くの財産は「聖ヨハネ」へ吸収された。
聖ヨハネ(ロードス、マルタ)騎士修道会、最初は病院活動、現在はローマに本部があり慈善活動。
ドイツ(チュートン)騎士修道会、病院活動からプロイセンを征服、大公国となる。バルト三国やポーランドと戦う。

宗教的目標を達成するため経済の自立を図るとき、それ以上のことが実現されてきます。
裕福になり、それを守ろうとして更に富を蓄積するにいたる。富の目的化が起こります。不正な管理人のような、将来への危機感が見られなくなります。「世の富」を用いてでも、将来の救いを確保する事を考えなさい、と言われています。私たちの関心は何処にあるでしょうか。キリストの出来事において始まり、将来において完成される救いが、私たちの目指すものです。