集会のご案内
所在地・交通
教会のあゆみ
牧師紹介
教会カレンダー
教会暦・行事
説教ライブラリー
フォト
リンク集
玉出教会 説教ライブラリ [一覧へ戻る]

2005年6月19日

《カインとアベル》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記4:1〜16

創世記1章は、紀元前5世紀の信仰の告白、2〜5章は紀元前10世紀の罪人への警告。
「アダムはエヴァを知った」、とあります。「知る」の意味は、結婚したことであり、子が生まれるような行為を指します。そのことを通常、全人格的に「知ることである」、と説明します。それは、現代社会の中に、伝統的な二つの考え方、言葉の用い方があるからです。ひとつは、ヘレニズム世界のものです。ギリシャ・ローマ世界の伝統です。そこでは、歴史は、始めなく終わりなく、螺旋状円環をなしていると考えられています。簡単に言えば、歴史は繰り返す、という考えです。知るということは、抽象的、観念的に、頭の中で理解する事です。
今ひとつは、ヘブライズム世界のものです。ヘブライ・ユダヤ人世界の考え方。歴史には、始めがあって終わりがある。一直線に進む終末論的歴史です。天の下すべてのことが新しい、と考えます。知ることは、全人格的に相手を理解すること、交わることを指しています。
日本人の伝統はどちらに属するのだろうか、ということも私にとっては問題です。わたしたちの文化は、朝鮮半島を経る場合と、直接の場合とありますが、中国大陸からの影響を強く、大きく受けています。たとえば格言などに見ることが出来ますが、中国のものが圧倒的に多く、値打ちあるものと認められ、用いられます。因果応報、人間万事塞翁が馬。
その中には、抽象的なものも、非常に具象的なものとが混在します。それは、長い歴史の中で、大陸の伝統自身が揺れ動いていたのではないでしょうか。日本は舶来品が好きですから、分別せずにすべて受け入れてきた。その為に混合しているのです。異様な状況かもしれません。しかしそれが日本なのです。民族自体、その出自をはっきりさせることが出来ない。どちらかと言えば矛盾する表現ですが、純粋な混血と言って差し支えないでしょう。
そこで「知る」という言葉も、その知り方で文字を変えるようなことをするのです。
「知識」という文字は、どちらも知る事です。ただ知る深さが違います。浅い時には「知」を使います。深く知ったときには「識」を使うのです。これはわたしの使い方、というだけかもしれません。皆様は如何でしょうか。
とにかく、イスラエルの人々の間では、アダムはエヴァと結婚し、子をなしたことを意味したことは確かです。カイン、と名づけられました。その名は、「得た」ことを意味するとも言われますが、よくわかりません。
エヴァの言葉が大切です。「わたしは主によって男子を得た」。知ったから、ではありません。主によって、なのです。彼らは、神に背きました。園から追放されました。それにも拘らず、神はエヴァを、「すべて命あるものの母」とされました。本来、驚くべきことなのです。感謝すること、讃美することなのです。犬猫との違いがここにあります。
弟アベルも生まれます。その名は「気息、空虚なるもの」を意味するといわれます。
夫婦は、社会を構成する最小の一単位である、といわれます。その二人に、相次いで二人の息子が与えられました。これは神の祝福があることを表します。背いた二人に、これほどの恵みが与えられるのです。聖書は罪人の歴史、そして同時に、赦しと祝福の歴史です。
詩篇127参照。
アベルは羊を飼う者、カインは土を耕す者となりました。こうして成長します。気質、性格の違いも生まれます。農耕民は、牧羊民より優位にあると考えられ、保護するものとされていました。
やがて礼拝を捧げるときが来ました。どのような機会かは不明です。
二人は、それぞれに捧げものをしました。しかし、神は一方だけを受け入れ、他は顧みようとされませんでした。僅かかも知れませんが、この捧げ物には違いがありました。
カインは何気なしに捧げます。アベルは群れの中から選りすぐりの一級品を捧げました。
明確な根拠は少ないのですが、受け入れられる捧げ物についての言及があります。
ミカ書7:1に「私の好む初なりのイチジクもない」とあります。神は、家畜であれば初子を求め,農産物であれば初なりを求めるのです。
また、すべての礼拝が受け入れられるわけでもありません。アモス書5:21、イザヤ書1:11〜17、箴言21:27参照。(どのような礼拝が受け入れられるのか)。
神の意志のあるところを判断できず、受け入れなかったカインは怒りました。
その怒りのはけ口を弟アベルに向けます。兄弟も助け手であるはずです。しかし現実は、対立することが多く、相手を倒そうとする競争相手と考えるものです。学校などでも、兄弟を比較することはしないほうが良いのです。
もうひとつ、おかしなことがあります。カインは、神に対し物言わぬ民となっていることです。これは、先に創造の始めに創造主が意図されたこと(愛の対象)と違っています。

カインは顔を伏せた。「目は口ほどにものを言い」と、言い伝えられてきました。「目は心の窓」とも言われます。心の中のものが出てきますから、顔を見せることが出来ません。
神はもっと深く見ておられる。その怒りが正しいものなら、顔を上げられるはずだ。語ることも出来よう。すべての怒りが悪いものではない。正しい怒りもありうる。怒るべき時に怒らないことのほうが悪い。正しくない時、人は顔を伏せ、隠します。

神は言われます。罪は、門口で待っている。それを、あなたは支配しなければならないのです。罪は支配することが出来るのです。

アメリカの社会心理学者エーリッヒ・フロムは、大事な書物を書いています。
「愛するということ」THE ART OF LOVING、「悪について」、共に紀伊国屋書店。

これらの書物の中で、彼は問いかけます。多くの人は、自分は罪、悪を避けることが出来なかった、と語りますがそれは本当でしょうか、と。人間は、完全に罪の力の支配下にあるのでしょうか。悪を避けることは出来ないのでしょうか。

50年前、アメリカでは既に、離婚Divorceが大きな社会問題でした。その大きな原因を、フロムは、アメリカ社会のセックスのおおらかさに求めました。そして、これは避けることが出来るのに、それに失敗しているだけだ、と記しています。人間の弱さなのです。
ひとつの例を挙げています。1950年代後半、当時のアメリカを想像してください。
 一人のサラリーマン、その日も無事仕事を終え、帰る時。ちょっと一杯やろうか、それだけならいいだろう。実はこれが最初のポイントです。飲みに行く所に何が待っているか知っている。だから、それだけなら、と言い繕う。実際は一杯が二杯となり、止まり木の女性と言葉を交わし、一緒に出て行く。「送ろうか」、この時も送るだけだから、玄関から帰ってくるから、と自らを言い聞かせる。ここまでに何回ポイントがあったろうか。そのつど避けるチャンスを逃し、最後はもう引き返せない。人は皆、罪を避けることが出来るのです。それにも拘らず、その機会を見逃し、どうにもならない状態を選んでいるのです。
フロムは、とても説得力豊かに描き出しています。まるで、詩篇1:1の註解のようです。

カインはアベルを殺しました。ここでも助け合うはずの者が、敵となり、殺す者となっています。殺人の罪も避けることが出来ます。神に叫ぶことが出来ます。何故、弟を憎むのですか。現代社会で起こっていることは、ほとんどが同じ事です。朝鮮半島、東欧、中東、アフリカ、民族内の対立は兄弟の争いに他ならないのです。
助けるとは、一体どういうことなのでしょうか。救いにしても同じ事です。他の命を支え、生かすことこそ真の意味で助けること、救うことではありませんか。神が友になられる。
これが紀元前10世紀の状況。そして現代にも、見出された神の恵みです。


欄外

 Wayne E.Oates,“PASTORAL COUNSELING IN SOCIAL PROBLEMS”
−EXTREMISM、RACE、SEX、Divorce− THE WESTOMINNSTER PRESS
これは神学校時代に購入したものですから、それ以前のものです。1960年代でしょう。
ほとんど半世紀が過ぎました。この四つはいまだに課題となっています。それに、薬物、
貧困、銃、テロリズム,などが加えられるのではないでしょうか。問題はひとつも解決されてはいません。更に先鋭化され、増大しているのです。

アウグスティヌス
「人は避けることの出来ない死を避けようとして、避けることの出来る罪を犯している」。

政治家の人相論。最適な人は、目が細くなる人。眼の奥にあるものを気付かせない。