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2007年5月13日

《信仰に報いる主》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書7:1〜10

今週の木曜日には、キリスト昇天の日を迎えます。その10日の後、聖霊が弟子たちの上に降ります。教会の暦の上では非常に重大な時、変化の時となります。
この時期に、教会は行事として「母の日」を設けています。意味あることですが、キリスト昇天の週であることにこそ、私たちの注意を集めたい、と願います。

伝統的には、この日には詩編34篇が読まれ、レビ記25章・「ヨベルの年」の定めが読
まれます。それ以外はかなり多様性があります。年により異なる、と言えましょうか。

ガリラヤ湖のほとりにある町カフェルナウムは、主イエスの町。
ガリラヤ湖北西岸の町、漁港でもあった。共観福音書ではペトロとアンドレアスの故郷(マルコ1:29)。イエスはその活動を、この町を拠点として行なったらしい。ローマ式に組織化されたヘロデ・アンティパスの軍隊にとっての、重要な駐屯地のひとつ(マタイ8:5〜13並行)。ここには、百卒長が献納したシナゴグの遺跡があります。

古代ローマ帝国の軍事制度は随分変化します。志願した市民兵、徴募した市民兵の時代。
ギリシャに倣ったものと考えますが、自分の国を守るために戦うのは市民の義務でした。
そのうちに、強いローマは自国の安全のために国境線をできるだけ遠くに施行、と考えるようになります。要するに近隣諸国を征服して、統治下に置こうとするのです。必ず長い戦争になります。民族の誇りを持って抵抗します。こうなると市民兵は集中できなくなります。自分の仕事、商売、農園、家族が心配になるのです。やがて雇われた兵隊が入ってきます。軍の規律を強くする必要が出来ます。捕虜であった奴隷たちなどが多くいるのです。軍律の第一は、何処でも、皇帝への忠誠を基に据えた、命令に対する絶対服従でした。一切考えないで服従するのです。服従させる権威は、帝国を代表する軍旗と司令官の指揮杖でした。
百人隊長は、今の尉官クラスの将校です。中間管理職と似ています。上の人の命令には絶対服従。部下に命令して従わせる。これがこの人の日常です。
 
少し違いがあるかな、と思えるのは、この人が部下を大事にしていた点です。
過酷な扱いが当たり前の軍隊組織の中で、この隊長は部下の病気を心配し、下げなくても良い頭を、何処の誰とも知らぬナザレのイエスの前で下げるのです。彼の権威が単に、地位、能力によるのではなく愛情によるものであることに気付いてください。
 学校の教員も同じような権威を振りかざします。生徒は敏感です。愛のない教師の言うことには表面で服従しても、心は背きます。わざと怒られる様なことをします。
赤ちゃんもそうなのですよ。
百人隊長は、イエスの命令ならば、悪霊であろうと、病で苦しめる霊であろうと、服従することがわかっていたようです。これが信仰です。すべてのときにイエスの言葉に耳傾け、服従する。信頼する。

ダニエル6:10〜23、異例の大抜擢によって捕囚民ながら、ペルシャ国内で並ぶもののない高位高官となったダニエル、他の者たちの妬みを受け、讒訴され、獅子の穴に入れられる。
第5章にはその導入として、バビロニア王ネブカドネザルの驕り、その子ベルシャザルの改められない行状への言及、その宴会での不思議が描かれます。
ダニエル書が描くネブカドネザルは、敬虔な支配者です。何故なら、自分の不幸な経験によって教訓を学ぶことが出来る人ですから。一方、ベルシャザルは軽薄な人物として描かれています。彼は無思慮にも神を冒涜します。エルサレム神殿の神聖器具を持ち去ったのはネブカドネザル、それを冒涜的に用いたのはベルシャザル。彼は自分の全生涯が神のみ手の内にある事を認識したことになってはいるが、神に栄光を帰する事を怠った。
「彼は、金と銀、青銅と鉄、木と石で出来た神々に祈った」(クムラン第四洞窟出土)

 「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」を解読する者への褒賞。
第6章になって、獅子の穴から無事出てくる、という出来事が語られます。これは昔の日曜学校などでは良く読まれ、知られた所です。私が教師をしていた頃は、すでに人気がなかったのでしょうか、あまり話題にもなりませんでした。
 バビロニア最後の王はナボニドウスです。この人は、どこから来たか知られていません。
これに代わるのがメディア人ダリウス。これもまたその存在を証明することが出来ない。
ダニエル書の記者が創造した人物であろう。バビロニアとペルシャの間にメディア王国が存在しなければならないが、それも証明できない。メディア世界帝国の最後の王アスティアゲスは、紀元前549年、すでにペルシャ王キュロスに敗れています。
歴史的に存在したナボニドウスの後継者は、キュロスです。ダリウスという名は、紀元前520年、カンビュセスの死後バビロンを征服したダリウス・ヒスタスピスまで待たねばなりません。

 ここに記されていることは、内容的にも文章的にも3章と似ています。較べてみてください。異教の神々の中にあって、唯一の神ヤハウェに対する忠信を守ったダニエルとその仲間は、その神によって守られ、異教徒の王すら、ヤハウェを褒め称えるものとされる。
「生ける神のしもべダニエルよ、・・・・」6:30

 この二つの聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。表面的に考えると、異邦人の支配者、力ある者が、ヤハウェに対する誠実な信仰者の働きゆえに、ヤハウェを讃美する者に変えられる、ということです。それはイスラエルの神は、依然として全世界の主なる神でいましたもう、という信仰を指し示します。

 教会暦を担当された方は、この二つの内容を?テサロニケ3:1〜5にまとめて見出しました。この手紙は、パウロからテサロニケの信徒たちへ、という形をとっています。異邦人伝道の大使徒パウロが、テサロニケの教会を心配し、その問題に応じて指導し、教会の健全な発展と形成を願うものです。
第一に、私たちのために祈って欲しい、と求めています。私などは、自分のための祈りをお願いすることは出来そうにありません。しかし、この手紙を書いた人、その時代の人々は、自分たちは弱いから祈ってもらわねばならない。そのように感じ、願っていたのでしょう。自分で何とかやっていこう、と考えるのとどちらが謙遜でしょうか。何か、何処かで私が途轍もない傲慢の罪を犯しているように感じられます。
第二は、祈りの内容です。「主の言葉が速やかに宣べ伝えられるように」と「道に外れた悪人どもから逃れられるように」という二つのことが挙げられています。初代の教会は、すでに宣教に力を注いでいました。自己の勢力を拡張して、安全を図るためだろう、などと考えると間違いです。キリスト・イエスによる罪の贖いが余りに尊く、有り難いから、これを伝えずにいられなかったのです。真理だから伝える、当然伝わる、と考えていたでしょう。イエスは全世界の救い主ということです。
第三は、不信仰の存在を認めることです。全ての人がキリスト信者ではない、ということ。この自分とは違う人が大勢いるということは、当たり前のことです。
これはこの教会の正しい信仰伝統の一部です。大阪聖書学院は、玉出教会と同じくマデン宣教師によって始められています。伝統的に無信条主義を守っておられるようです。その解釈は様々ですが、信条に固執しない、それによって他を排除しない、自己絶対化を退ける、と記されています。
第四は、主は真実な方である、ということです。力を与え、悪から救い出してくださることが語られます。わたしたちはこの確信があるからこそ、苦難がなくなる事を望まず、乗り越える力を与えたまえ、と祈ることが出来ます。
第五は、神の愛と忍耐とを深く悟るように、テサロニケの信徒たちのための祈りです。
これは、神の愛、キリスト・イエスが苦しみに耐えたその忍耐に向けて私たちが心を集中すべき事を語ります。
このような形で、神自ら信仰にこたえられます。何故なら信仰とは、神と人の関係だからです。神の力と愛によって、関係をただして行くことです。ご利益宗教ではありません。
悪から救い出し、神の愛のうちに深く留めてくださいます。感謝しましょう。