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2007年4月22日

《平和があるよう》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書24:36〜43

今は、主イエスの御復活を喜ぶ復活節が続く時期です。
教団の教会暦に従うと、4月は8日が《キリストの復活》、15日が《復活顕現(1)》、
22日は《復活顕現(2)》となっています。これは従来と異なるものです。2006年度では、
復活後第一・復活節第二主日は《復活顕現》で変わりありません。後第二主日が《まことの羊飼い》、後第三主日は《キリストの掟》でした。2005年度では第一主日の《復活顕現》に変わりはなく、第二主日が《新しい命》、第三は《イエスは復活また命》となっています。
主題の提示と聖書選択に、どこかうなずけないものを感じながら、説教している状態です。
言い訳はしません。ただ、この苦しさも分かち合うことが出来れば幸いです。
 日本聖公会では、聖書の箇所はありますが、主題の提示はありません。これが本来の形なのか、と思います。

 選ばれる聖書は、主日毎の詩編と、福音書、旧約、その他の新約という形で選ばれます。その間の関係は様々です。詩編はおおよそ独立しています。時に関係付けることも出来ます。三箇所の聖句は、主となるものであり、それを補強するものであり、前提・背景を説明するものにもなります。説教者によっては、このうち一箇所だけを選ぶこともあります。
新約と旧約から一箇所ずつ選び、朗読し、説教する人もいます。そのような教会もある、と言えましょう。
 どの様にするか、たいていは説教者に任せられます。説教者の判断ということが多いはずです。私は、役員会も共に考えるべきである、と感じます。何回も牧師就任式を経験しました。牧師は真理を語ることが求められます。それが牧師の勤めであるなら、教会の役員はそれを支える務めがあります。役員任職式も司式して来ました。役員は「礼拝、伝道、牧会、教育、奉仕、交わり、訓練などの働きにおいて重い責任を負うものである」とされています。説教は、牧師の責任です。そのために孤立しやすいのです。孤立させないために、役員も説教がどのような形でなされるべきか、共に考え、検討してしかるべきです。説教は、いろいろな意味でコミュニケーションです。孤立はコミュニケーションがない状態です。説教として成立しません。ある教会では、総会の折に信徒から様々な意見が出されました。本来なら、それ以前にそのような意見、考えがあることが、役員会に報告され、検討されるべきです。総会の発言、意見発表には重みがあります。それを牧師が受け入れ、対処できる場合は宜しいけれど、大方の意見となったものに対処できない場合には、牧師は態度決定を迫られることになるでしょう。役員会も重大な責務を担います。しかしこれは、信徒の代表者の会議です。意見を開陳し、討議し、重荷を分かち合うなら、説教者から良い力を引き出すことになり、大きな恵みを受けることが出来るでしょう。
福音の教会には、不可侵の領域はありません。説教はタブーでもないし、アンタッチャブルでもありません。
上手に扱うべきです。礼拝説教を皆が共有することが出来ます。
基本的には、説教のために、聖書を読み、祈りましょう。
 
本日の旧約日課、イザヤ51:1〜6には、「シオンへの帰還」という小見出しが付けられています。スタディ・バイブルにはこのようなことが記されています。
「アブラハムとサラは、故郷を離れてカナンの地へ行け、という神の言葉に従った。後にこのアブラハムの従順な行為は『正しい行い』の模範となった。創世12:1〜5,15:6、ハバ2:4、ロマ4:1〜5、ガラ3:6」。
「シオンはエルサレムの別名。BC587年、エルサレムはバビロニア軍に破壊された。エデンの園は神がこの世の初めに創った園(創世2:4〜15)。信仰者は美しいエデンの園のような土地に住むようになるという将来がしばしば描かれる(エゼ36:33〜36、47:1〜12、黙22:1,2)」。

イスラエルは、神に対する罪のゆえに、バビロン捕囚の憂き目を見ることになりました。彼らに対し神は尚、アブラハムとサラから産まれ大きな民族となった者たち、と言われます。そして荒れ果てた地となった所を、エデンの園、主の園とされると言われます。
捕囚は神の裁きでした。多くの死が襲って来たものでした。暗黒の時です。しかし神はそれを光に変え、救いとする、と言われるのです。イスラエルは、裁きを受けました。たいへん厳しく、神から棄てられたか、と思わせられるほどのものでした。実際は、イスラエルが神を忘れ、神を棄てたのです。それでも神は、イスラエルを忘れず、棄てる事をせず、今、救いの手を差し伸べているのです。神に背く者たちへ。
裁きが執行されている唯中で、赦しの時が預言されました。打ち倒されている最中に、立ち上がらされることが語られました。異国で生活する中で、故郷への帰還が示されました。何と喜ばしいことでしょう。わたしたちは、その一つ一つが実現された事を知っているのです。最終の勝利は、主イエスの甦りです。

主イエスの十字架は、世人の罪の裁き、闇の時でした。しかし神は、それを救いに変えられました。新しい命への復活という光の時とせられました。

 本日の福音書は、ルカ24:36〜43です。
36節の冒頭は、13節と同じ カイ という言葉です。普通「そして、それから」など訳されます。ある時には、「さて」という訳も使われます。ルカ福音書には使用例が多いといわれます。
エマオから帰って来た二人とエルサレムにいた弟子たちが話し合っていた時のことです。
墓に葬られた主イエスが、甦った事を話していました。それも噂話ではありません。彼らの何人もが直接経験したことの報告会のようなものです。主イエスにお会いした、自分の内で何かが変えられた、と話していたことでしょう。そのうちの半分以上はまだ経験していません。主イエスにお会いしていません。他の者たちの話を聞きながら、何故彼らだけ、この自分は無視されているのだろうか、見棄てられたのだろうか、と不安を感じていたことでしょう。
 するとそこに、突然主イエスが現れます。この部屋、この家にも入り口があり、扉があるはずです。それを開けたてした様子はありません。「ご自身が彼らの真ん中に立ち」と記されます。それがどれほど大きな驚きを惹き起こしたか、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と書きとめました。うろたえた、とも記されます。周章狼狽なすべきを知らず、というところです。それに恐怖も加えられています。
主は言われます。「あなたたちに平安」。ギリシャ語でエイレーネー。平和と言う言葉です。
驚き恐れ、うろたえている人たちに対する言葉です。波立つ心を鎮めようとされたのでしょう。平安がありますように。ヘブル語では、シャロームとなります。
新共同訳は平和と訳しました。それでも良いでしょう。不安に対しては平安、対立抗争に対しては平和を宛てるのかな、と感じます。
 更に手足を見せ、触ってよく見るように諭します。ご自分が血肉を備えた体であり、亡霊ではない事を確認するように求められるのです。

シャロームという言葉が?編讃美歌202番に出てきます。三部の輪唱曲です。
シャロームは、イスラエルでは、今日に至るまで日常の挨拶の言葉です。
朝昼夕、お早う、こんにちは、さようなら、おやすみ、これひとつで間に合います。
 中東のアラブ系諸民族の間で、同じ言葉が挨拶に用いられています。
サレーム、シャライム、サライムなど多少の発音の違いはありますが、同じです。
わたしたちは言葉が通じれば、コミュニケーションも良く、平穏な関係を保てる、と考えます。同じ言葉でも、同じ民族でも、互いに争い、憎み合い、殺し合います。平和がありません。それだけ、「平安・平和があなた方に」というイエスの言葉を深く受け止めたいものです。

シャロームは、確かに平和があるように、と言う意味です。しかしその背後にあるものを忘れないようにしたい。平和は、戦争が、争いがない、と言う状態ではない。神が共にいて守ってくださる、ということ。状態がどれほど厳しく、不如意であっても、平和はある。平安はある。主イエスのシャロームは、その事を言われるのです。甦りの主は、私たちの唯中で、平安がありますように、と語られるのです。
どの様に恐ろしく、悲しい状態であっても、神共にいます、と言われるのです。
それこそ、甦りの主イエスからのご挨拶、メッセージです。