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2005年5月22日

《何処にいるのか》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
創世記3:1〜19

何時の間にやら、其方此方から真夏日と言う声が聞こえて来たりしています。
庭のみかんの木は、葉を落としているのですが、新しい若葉が出てきません。昨年の収穫から枝の一部が枯れています。ことによると、全体が駄目になるのかもしれません。十分に生きたのでしょうか。決してそうではない、何かの病気かも知れません。何方かに聞いてみたいものです。知らないこと、判らないことは知らないし、判らないのですから、誰かに聞くのが一番です。
その事情は聖書についても同じです。個人で読むことも大切、然しそれだけでは自己流の理解をするか、わからないままになってしまいます。教会で読むことを並行して進めたいですね。

さて創世記も第3章になりました。有名な失楽園の記事です。
だいぶ前から、気になることが残っていますのでお話しましょう。
相応しい助け手を作った時ですが、あれは知恵の木の実を取って食べてはいけない、と禁じられた後のことでした。したがって、女はその後で男からそのことを伝え聞いたことになります。伝言ゲームという面白い遊びがあります。ご存知と思いますが、一つの文章を次々と伝えてゆくと、次第に文の内容が変わってしまう。全く違うことになったりします。辛うじて良い成績である場合も、検証してみると、途中で間違って元に戻ったりしています。アダムはエヴァに、あの神との約束を正しく伝えたでしょうか?
裁判でも伝聞は証拠になりません。ここでも、その不正確さがすぐに問題になります。
相応しい助け手の関係のはずが、実際は不十分であることを2,3章の編集者たちは知っていました。その意味からすれば、このところは、人間の現実を告発するものです。軽やかな物語の運び、語り口の背後に、人間の隠しようもない現実の重さが見えてきます。

ここで登場するのは「蛇」です。造られたすべてのものを見て、創造主は「すべて甚だよろしい」と言われました。ヘビもその一つでしょう。造られたものの内で「最も賢い」、これは「ずるがしこさ」を意味している、と言語学者は説明します。
ヘビは、女の知識の不正確さを利用して、罠を仕掛けます。2章の神の言葉と、このヘビの言葉を比較すると良く分かります。
2:16「園のすべての木から採って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。
3:1「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。
言葉は恐ろしい力を持っています。少し変えるだけで毒が入り込むような力を発揮します。
紀元前10世紀の人々はそうしたことにも通暁していました。人間通なのです。
どの木からも取って食べなさい。どの木からも取って食べるな。これははっきり違うと言えます。それだけで良いのですが、自信のない人間は、自分の賢さを証明しなければならないと感じているのです。余計なことまでしゃべってしまいます。その中に、間違いや嘘が混じってしまいます。女の答えは、始め神の言葉を繰り返します。その後があるのです。「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。本来の言葉が拡張されていることに気付きます。これは男が、女に強調したものかもしれません。間違うことがないように,と。善意の言葉も、それだけ取り出してみると、不満と疑いの印象が強くなります。
ヘビはその中の事実に注目するようです。とりわけ未知の事柄、誰も知らないことについて、自分はすべて知っている権威者であるような発言をします。「決して死ぬことはない」。
誰も経験のないことについては不安があるものです。現状を変えてしまう可能性については、誰でも漠然たる不安と疑いを持つものです。時には恐怖さえも。お喋りになります。
神は、「必ず死んでしまう」と言われたのです。女は自分の恐怖を、他の多くの言葉の中に、覆い隠そうとしています。言葉の洪水の中に流そうとしているのです。

ヘビは、最も賢いので、すべてを知っています。神の言葉も、その意味するところも判っています。同時に、女が求めている言葉も知っています。それは安心です。
食べても大丈夫、決して死にはしない。却って目が開け、神のように善悪を知るものとなる。それを神様はご存知なのです。
ゆっくりと考えてみてください。現代世界でなされる詐欺事件の要素が全部入っている野江はないでしょうか。
約束事があります。でもそれは破ってもいいのです。そのほうが相手にも喜ばれますよ。
神様のように善悪を知るものになりますよ。
いかにもそうなりそうなうまい話、美味しい話ではありませんか。

大丈夫、という言葉はどんな時でも、他者を導く力があります。事故,地震,火災その他恐慌を来たしそうな時に、この一言があると何人の命を救うことが出来るか。
聖学院大学の学長、亡くなられた安倍北夫先生は災害時の心理学を研究されていました。礼拝の説教でしょうか。このことを聞いたことがあります。「大丈夫、此方へ来なさい、落ち着いて」、この大きな、はっきりした声、言葉は人を導きます。
同時に、それが間違った方向へ導くことにもなるのです。
この場合、女はだまされるのです。男も同じです。世の中にうまい話が転がっているはずがありません。それなのに日本中が、美味しい話がないかなーと昼寝をしている。
「まちぼうけ」


清潔と勤勉さは、わが民族の美風でした。ハインリッヒ・シュリーマンも賞賛しています。然し、いまや努力しないで金持ちになる方法、有名人になる方法、異性にもてるようになる方法を探しているのです。いや、捜す努力も惜しんでいるかもしれません。一攫千金を夢見ているのです。現実と空想の区別が付かなくなって、ゲーム感覚でさまざまなものを獲得したかのように感じている人すら出てきているようです。それが殺す力だったりしているのではないでしょうか。
「夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬、野の小道、・・・夢見て咲いている水の面?」

女はヘビの言葉に動かされました。また木を見るといかにも美味しそうなのです。食べれば賢くなれそうなのです。
本当に食べてはいけないなら、まずそうな外見に造ればいいじゃないか、とは言いません。
男を誘って一緒に食べます。順序はなしです。あくまでも一緒に食べたのです。同時に裸であることに気付き、腰の周りを隠すようにイチジクの葉を巻きました。
これが最初の衣装です。罪の恥を隠すものが衣装だ、という考えです。衣装哲学です。
現代はファッションです。自分の美点や強さ、誇りを強調するためのもの。隠すべきものを隠し、体型を補正する。実際的には、暑熱から身を守り、寒気から身を守るもの。あるいは他の人に自分を美しく、立派に見せるためのものとも考えるでしょう。
ある人は言いました。着飾ることは、自分ひとりではなく、他の人も喜ばせるから一番良い趣味趣向である、と。
聖書の信仰ははっきりしています。罪の恥を隠すのです。そのために、プロテスタント教会は、立派な祭服を棄てました。司祭の階級を示し、それに気付かせ、敬意を払わせるためのものだからです。社会一般の立派な衣装も棄てました。ある先輩牧師、社会的に公的な地位についておられます。オーダーメイドの洋服屋の前で「僕も場合によってはちゃんとしたものを着ていなければならないのでね」と言われました。やはりスーツ一着でも、その人の社会的地位を示すものになるのです。牧師はそれらと無関係な、ガウンを着用するのが一番いいように感じています。ゆったりしていて、下のものを隠せますので。

また長くなりました。この位にしましょう。本題は次回になりますが,ここでもその声を聞くことが出来ます。ふさわしい助け手よ、お前は何処へ行ってしまったのか、と。
助け手になるどころか、なんと、相手の足を引っ張り、罪に誘い込もうとしていました。一緒に、神が禁止したことを破りました。これがふさわしい助け手なのでしょうか。共に罪を犯すほどに助け手である、と言えるでしょうか。
ふさわしい助け手は、共に神に向かって讃美と感謝を捧げることにあります。