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2007年10月14日

《審きの日》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書17:20〜37、

北のほうでは、雪の便りが聞こえます。急激に秋が深まっていました、と感じます。大阪だけが取り残されていたのでしょうか。そうでもないでしょう。着実に時は進んでいる、ということです。今日の午後は御堂筋パレードが行なわれます。大阪に来たからには、一度くらい観に行きたいなどと考えますが、テレビニュースで我慢。
 庭の樹木の手入れがなされました。日差しが弱くなる時期に刈り入れられ、大変明るくなりました。時期に合わせた営みが必要なことを、改めて教えられました。隙間から上を見上げていて気付いたことがあります。これまで、みかんがなるのは玄関に近い一本だけ、と思っていました。ところがぶどう棚のそばの木にもみかんがなっています。これは嬉しい驚きでした。皆様も御覧ください。植木屋さんはなかなかの方です。みかんと柿は実が成っているので、終わりの時期になったらもう一度来ましょう、それまで実りと色を楽しんでください、とのことでした。
 いつもこのようなことをお話して説教を始めていますが、「余計なことを言わんとさっさと始めんかい」、というお考えもあるだろうと存じます。しかし、世の中のことには無駄なことはありません。むしろ、この初めの部分が説教の本題とどこかで関わっているかもしれないぞ、とお考えになりながらお聞きいただければ幸いです。

本日、旧約聖書の日課は創世記6:5〜8。ここから「族長ノアの物語」が始まります。その大部分は洪水と箱舟物語です。7節までは、その当時、人間世界が非常に乱れていたことが記されます。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって・・・」。
創世記は、ある時代の人たちが告白した信仰である、と考えます。神に創られ、神が良しとされた人間が、時が経つにつれ、非常に悪くなったのだ、という信仰告白です。ある時代と申しましたが、今の時代、と言っても少しもおかしくないのは何故でしょうか。聖書が告げることは、時代を超えた妥当性があります。その故に聖書正典となるのでしょう。

この洪水物語は、メソポタミアに起源がある、とされます。同じようなことが重複して記されたり、矛盾することが記されたりすることが目立ちます。恐らく、かなり複雑な編集がなされており、それでも矛盾しないように整理することが出来なかったのでしょう。
 9,10節は、そうした矛盾の表れです。人が心に思い計ることは常に悪ばかり、といったばかりなのに、と言ったばかりなのに、その例外として、「ノアは神に従う無垢な人であった」と記します。
この間の矛盾を薄め、調和させようとした形跡が8節、「しかし、ノアは主の好意を得た」
という一文です。皆悪いことばかりだった、しかしノアだけが神の恵みを受けた、ああそうか、良かった。好意を受けたから正しい人になったのか、と納得します。しかし、好意は、この後の救いの関わることではないでしょうか。
 この部分は、ノアも当然悪いことを思い計る世人の一人であった。しかし神の恵みによって箱舟へと導かれる、と考えるのではないでしょうか。これが正解です。

 新共同訳は8節と9節に行間を空けました。これはその間に長い時間があり、伝承の違いがあり、乗り越えがたい溝があることを表していると感じます。人の悪を表すのは紀元前10世紀頃のヤハウェ資料とされます。5節から7節がその中に入ります。
8節から10節は、神の恵み、創られた人間の尊厳を表す祭司資料の特徴を示しています。
これは紀元前6世紀頃でしょうか。

 人の悪に対して、神はどの様にされるのでしょうか。創造主がその業を後悔し、心を痛められます。御自分の作品である、「すべて肉なるものを終わらせる」ことを決意されます。
哀しい決心であり、痛みに痛みを重ねることです。
日本相撲協会の問題で、北の湖理事長と時津風親方が批判の矢面に立たせられました。
相撲界の常識として許されてきたことをしただけなのに運悪く死に至ってしまった、と考えているようです。彼らには、心を痛めるというところが見えません。お二人とも健康とは思えないような状態です。それは、批判に曝され、身の置き所がないため、対処の道が見えないから辛くて、心身症になっているのでしょう。朝青龍と一緒です。
指導的立場の人は昔なら、悪うございました、と言って出家されたと思います。亡くなった弟子の後生を弔うためにも出家遁世されて当然、の世界なのです。古風な相撲界です。髷があるのです。わざわざ髷を残したことに意味があります。相撲の心は消えてしまったのでしょうか。相撲には、なくなって欲しくありません。

 創造主にとって、その創られた人の罪を、悪を裁くということは、楽しいはずはありません。むしろ、大変心痛むことなのです。哀しいことなのです。ミサ曲などでは、よく裁きの日、怒りの日という楽曲があります。聴いていても決して単純なものではありません。分厚いハーモニーの中から、怒りと哀しみが同時に表れ、聞こえるように感じます。

 漢字の世界では、哀も愛も「かなしい」という意味がある、と学びました。神の裁きは、そのうちに怒りと哀しみを、同時に併せ持っているのです。
 
  使徒書の日課は、フィリピ1:1〜11です。この手紙はよく出てきます。パウロにとって大変親しい教会へ、お礼状を書こうとして、その冒頭で心を込めた挨拶をしています。慣習的な形を踏襲していますが、その中身は、恵みと平和に共に与ろうとする意欲に満ちています。
そしてそれを更に具体的に示すかのように、祈りを記します。
共に恵みの福音に与ってきたことを感謝し、更に、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、・・・神の栄光と誉とをたたえることが出来るように」と祈ります。そのためにパウロはこのように祈ります。
豊かな愛によって、知る力、見抜く力を身に着けて、何が重要であるか見分けることが出来るように、と。
パウロは物事の本質を知り、そこに立って、ことの実態を見抜くことを指示しています。
 
私たちのことに関わらせるなら、私たちが時の流れに身を任せ、流されるよりも、物事を判断する基準を身に着け、キリストに在って大胆に歩みなさい、と語るのです。その基準が愛です。私たちを愛したもう神の愛を、キリストの恵みを、私たちのうちに生かすことです。

本日の福音書は、先ほどお読みいただいたルカ福音書17:20節以下です。新共同訳の小見出しは「神の国が来る」です。翻訳者によっては、21・22節は、神の王国の到来、23〜37節は「人の子」の来臨、と別ける考えもあります。
神の国が来るのは何時だろうか、という疑問があります。主は先にお答えくださいます。
それは全く判らない、突然のことです、と言われます。これまでノアの時(創世記6〜9章)、ロトの時(創世記18:16〜19:29)、ロトの妻の時(創世19:26)が例に挙げられています。例は、皆が良く知っているものを挙げなければ意味がありません。主イエスの教えの聴き手にとっては、これらが良く知っている共通項であったのでしょう。34,35節も同様です。私たちも経験することです。

審きとは何か、その日まで以下に過ごすか、それは何時のことか、日課は教えてきました。滅ぼされるから、そうならない様に慎重に生活しなさい、というようには語られません。そのとき、神の怒りと同時に愛と恵みを知ることになります。審きは、有罪宣告と同時に赦しの時、赦免宣告の時なります。

私たちの気付かないうちにも着実に終わりの時は近付いています。この世界が、地球が、とは申しません。私たち一人一人の終わりの時です。そのときは、いたずらに恐れる時ではありません。神の怒りのときであるなら、同時に哀しみの時です。恵みと愛が表れるときです。