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2007年1月14日

《最初の弟子たち》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書5:1〜11

 常の年であれば、降誕節第四主日にこの「最初の弟子たち」という主題がおかれ、聖句が設定されるようです。本年度は12月24日が主日、31日が降誕後第一主日となりました。聖書日課は、年によってはサムエル3:1以下、サムエルに対する呼びかけが用いられます。
また、マルコ1章の弟子の召命が読まれます。ヨハネ1章もあります。
一週繰り上げられた形ですが、求められている、必要な学びを致しましょう。

 今朝は、先ず出エジプト18:13〜27を読みましょう。
これは、出エジプトを果たしたモーセを、そのしゅうとであるミデアンの祭司エトロが尋ねて来たときのことです。大群衆と共にいるモーセは多忙な毎日、全く休みなしの日々を送っていました。民は、問題が起こると、モーセのところに来て、神の掟と指示を聞こうとします。そのすべてを、モーセは裁いていました。エトロは、これでは行き詰まります。方法を考えなさい、と教えます。
 19節、「助言をしよう。神があなたと共におられるように。・・・21節、あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。・・・」
 これはモーセの部下として、さばきづかさ・士師の仕事をする人たちのことです。
神の掟と指示を与える、凄い仕事です。神の業、と言うべきでしょう。神を畏れる有能な人、不正な利得を憎み、信頼に値する人。ある人は言いました。
「私たちが罪を犯さないようになるために何をしたら良いでしょうか、それは罪を憎むことです。徹底的に憎むまでにならなければ、再度罪の虜になるでしょう」。
日銀総裁が過剰な利益を上げていた。合法的だから、問題にならない。
政治家が、家賃の必要のない議員会館を政治団体の事務所に貸し、団体は事務所費を支払っていた。これも合法的であって問題ではない。
李下に冠を正さず、瓜田に紐を結ばず。清廉潔白な人物をもって、神の業に当てなさい。
これが旧約の時代に求められていたことでした。

 さて次は主イエスの時代です。
弟子が選ばれ、用いられる、ということは、神の救いの業は人間を用いて展開される、ということをさします。いったい、どのような人物が用いられるのでしょうか。ルカ福音書5章、冒頭の箇所から学びましょう。

舞台は、ゲネサレ湖畔。ガリラヤ湖のことです。群衆が、イエスの周りに集まっています。神の言葉を求めています。近くに漁を終えて、上がってきた舟があります。一晩中の労苦は徒労に終わっていました。疲れていても、次の漁のために網を洗い、繕わなければなりません。その内の一艘、シモンの船を漕ぎ出させ、その中に腰を下ろして話し始められました。
話し終えると、シモンに言われました。「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」。
彼らはガリラヤの漁師。専門の知識を持っています。湖のことなら、なんでも知っています。何処が深いか、浅いか、何処に魚が集まるか。それでも、何時でも魚が取れるとは限りません。
まして、大工のイエスが、魚取りのことなど判るはずがありません。それが常識です。
 このときのシモンの態度は、長く語り継がれる値打ちのあるものでした。5節。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

 するとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
もう一艘の舟に合図して、手を貸すように頼み、網を引き上げますが、舟は沈みそうになりました。これを見たシモン・ペトロの反応は強烈です。
 「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」。
シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様でした。

 彼らは、何をもって自分自身の罪の深さを認めたのでしょうか。
不思議な漁獲量によってである、と記されます。この時代の人々にとって、魚がたくさん取れることは、神の御力の現れでした。とりわけ恵みの力の顕現というべきでしょう。
大きな神の力に触れるとき、人間は自らの卑小なる事を認めざるを得ません。それは現代でも同じです。最先端の科学技術の成果は、宇宙ロケット、衛星でしょう。その衛星で地球を観た少数の人の中から、宗教に帰依する人が絶えません。宇宙船に乗って、空間に乗り出した彼らは、人間の技術力に感心し、その崇拝者となるのではなく、この宇宙のすべてを創造した神の力を感得するのです。そして神の力を語り継ぐ伝道者になりました。
 シモン・ペトロとその仲間に起こったことも、全く同じことでした。
偉大な神の力に触れた時、自分が、どれ程小さい存在であるか、汚れ、醜い、罪人であるか、を告白せざるを得ませんでした。これが本日の主題、「最初の弟子たち」の始まりです。
最初の弟子たちは、掟に通暁し、神のご計画を示し、人に指示できるような人ではありません。確かに、当時のユダヤ人として恥ずかしくないだけの教育は受けています。それでも彼らの生活の場は、ユダヤ人たちが、サタンの住むところとして忌み嫌っていた水の上です。異教的な人々の多いガリラヤです。その直ぐ北にはサマリヤも展開します。ユダヤ教徒にとって好ましくない所に住む者たちが、選び出されました。イエスの言葉、行動に依って罪を知り、ひれ伏すものは神の業に派遣されます。人を獲る漁師とされます。
次に言行録を見ましょう。16:6から19:20はパウロの第二次伝道旅行です。
言行録16:6〜10は、パウロの前に、一人のマケドニア人が立って、マケドニア州へ渡ってきて、私たちを助けてください、と慫慂する箇所です。
この部分から、言行録は「我ら章句」と呼ばれる部分に入ります。
そして11〜16節では、マケドニア第一の都市フィリピで、ティアテラ市出身で紫布の商人、神を敬うリディアという婦人との出会いが記されます。
この時代、紫布は特別高価な商品でした。ムラサキイガイと呼ばれる小さな貝の腺から僅かばかり取れる原料を集め、ムラサキの染料としました。紫布を使うのは、富裕な人だけです。当然のように、それを扱う商人も裕福な男性であったに違いありません。
 リディアは夫と死別した後、その事業を引き継いだ人なのでしょう。ティアテラ市出身ですから、小アジアの人です。「神を崇める」という言葉は、敬神家、神を敬う人、という意味で、ユダヤ教徒ではないが、ユダヤ教に心を寄せる人たちを指します。異邦人です。
彼女とその家族は、パウロの話を聞いて、信じる者となり、バプテスマを受けて信徒となりました。そして、パウロはその家に招かれ、泊まることになります。
 ユダヤ人は、どうしても外国人の家に泊まる、ということは難しいのです。ユダヤの律法、掟があります。しかし、その事を承知の上で、リディアはお泊り下さいと招きました。
イエスを主と信じる者には、もはや古い律法は拘束力を持たない、と知っていました。理解していました。こうしてこの女性も最初の弟子のグループに入りました。

 モーセの時代は、イスラエルの中でも立派な人が選ばれ、神の業に任じられました。
イエスの時代、ユダヤ社会の中で、決して良い環境で生活しているわけではない人が神の業のために選ばれました。
パウロの時代、あまり歓迎されなかった外国人が弟子の群れに迎え入れられました。

 弟子の選びは、今ではもっと先端的な形、内実を持ちます。
神の業のために用いられるのは、最も相応しくないような者です。それは、自分の力で事を運んでいる、と誤解しないようにとの計画です。誰も自らの力を誇ることのないように、神は計画されました。
 あなた方の中に、自分はそのような神の御計画に相応しくない、と感じ、考える人がいるなら、その人こそ、神に用いられるのです。その意味ですべての私たちは、神に召された、イエスの弟子なのです。
 あらゆる領域で、分野で、キリストの弟子となることが求められます。 また、なることが許されます。教会だけではありません。あなたの職業で、家庭で、趣味の世界でも。
海で、空で、海岸で、道で、街角で、野原で、山で、森で、川で。
感謝しましょう。