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2006年12月3日

《主の来臨の希望》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
ルカ福音書21:25〜36

今日は、教会暦の新しい一年の始まりの日です。

待降節、典礼色は紫、これはレント、受難節(四旬節)と同じ色です。
紫色は、ギリシャ・ローマ時代には、その貴重さの故に尊重され、高位高官の象徴とされました。仏教でも同じように高位僧職の袈裟の色とされました。しかしキリスト教会の伝統は、それと異なります。紫色を受難と受苦を覚え、謹慎することを表すものとしました。
ここに待降節の意味が表されています。漫然と待つのではありません。この期間に、キリスト降誕の意味を学び、降誕と受難の結びつきを理解し、その故に慎みながら待ち望むのです。

さて今朝も、旧約の日課から読みましょう。
エレミヤ書は、南ユダがバビロニア軍に攻められ、存亡の危機に陥った時代の預言の書とされます。即ちその1:2以下にある通り、ヨシア王の治世13年から始まりその子ヨアキム、更にもう一人の息子、ゼデキヤの治世11年の終わりにまで至ります。
この年5月、エルサレムの住民は捕囚となり、バビロニア帝国へ連れて行かれます。
北王国イスラエルは、前721年に滅亡、南王国ユダは前587年に滅亡します。

エレミヤは、アナトテの祭司の息子でした。一般的に祭司と預言者とは対立することが多く、互いに批判し、非難を投げ合うような関係でした。祭司の家系に生まれながら預言者として活動するためには、かなりの葛藤があったと推測されます。決して自ら望んで預言者になったのではなく、神に強いられて、止む無く預言をさせられたものでしょう。

エレミヤの預言は、他の多くの預言者たちとは反対のものでした。彼らはバビロニアを恐れることはない、神が助けてくださる、と告げました。それとは反対に、エレミヤは、イスラエルの罪がある、神は厳しい審きを下される。悔い改め、バビロニアによる懲罰を受け入れるように語ります。当然のことでしょうが、これは喜ばれません。
それに対しエレミヤは、偽預言者は「平安」を語り、「その傷の癒やし」を語ることで歓迎される、と告げます。そして本物の預言者は、今の時には神の裁きを、ユダの滅亡、エルサレムの陥落を預言する、と語ります。5:31はこのように記します。
「恐ろしいこと、おぞましいことが起こっている。
預言者は偽りの預言をし 祭司はその手に富をかき集め 私の民はそれを喜んでいる。」
あるいは8:10〜11も良く知られています。
「身分の低い者から高い者に至るまで  皆、利をむさぼり 
預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
彼らは、おとめなるわが民の破滅を  手軽に治療して
平和がないのに『平和、平和』と言う。」

エレミヤの預言は、その背後にイスラエルの罪、神への背反を忍ばせています。
ですから、イスラエルが神に帰る時が来れば、イスラエルは回復される、と語られるのです。それが傷の治療であり、回復となるのです。
 エレミヤ書には興味深い言葉が溢れています。繰り返しお読みになることをお勧めします。たとえば31:22.
「いつまでさまようのか  背き去った娘よ。
主はこの地に新しいことを創造された。  女が男を保護するであろう。」
50:6「わが民は迷える羊の群れ。
羊飼いたちが彼らを迷わせ  山の中を行きめぐらせた。」

 今朝の聖句は、このユダの民の罪が裁かれ、その滅びの後に、神はそれを回復される、という預言です。ゼデキヤ王の第10年、エレミヤは獄に拘留されながら預言しました。
33:6、「しかし、見よ、私はこの都に、癒しと治癒と回復とをもたらし、彼らを癒やしてまことの平和を豊かに示す。・・・9節、この都は私に喜ばしい名声、讃美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、私がこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。」
14節以下は、この流れの中で正しく理解されるでしょう。
イスラエル・ユダは神に背き、審きを受け、その都エルサレムは陥落、多くの民が捕囚として連れて行かれました。その中でも神ヤハウェは、ユダの民が立ち帰るなら赦し、その傷を癒やし、繁栄を回復しよう、と約束されました。その日、その時には、「正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。救い主がやって来る、という預言です。

これは、イザヤ書11章の預言と一致します。イザヤ書は、39章まではアモツの子イザヤの預言を集めたもので、前721年頃のものです。アッシリアの脅威に曝されたイスラエルにあって、イザヤは静かにして神の救いを待つことを教えました。確かに、奇跡的にアッシリア軍は崩壊しました。イスラエルはそのことによって何を学んだでしょうか。何もしないでいても大丈夫。いつでも神がその民を救ってくださる。その社会に不義、不正、不公平が漲っていても、溢れていても大丈夫、と考えるようになったようです。ちょうどある時期の日本が、「神風」を信じたようなものでしょう。
エレミヤは、明確に語りました。7:23、
「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る」。
実はイザヤも同じだったのです。神だけを主と崇めるならば、幸いを受けるのです。異国の政治、軍事、経済の力を頼るようではならない、と教えられたのです。そして、やがて、エッサイの株から一つの芽が萌え出で、正当な裁きを行い、公平に弁護する。

 エレミヤも同じことを預言しました。
それが14節、「イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」と記される意味です。その民が背いている最中に、神は尚その民を信じ、立ち帰ることを確信しておられるのです。救いの約束は成就することを信じ、待ち望む者は幸いです。
 何と大きな愛でしょうか!これが福音です。

 今朝の福音書ルカ21:25〜36は、時代こそ異なりますが、同じ神の愛を、救いを告げています。主イエスは、この黙示録とも呼ばれる箇所で、先ず世界の終わりが来ることを語ります。終末の考え方です。ヘブライの思想は、初めがあるから必ず終わりが来る、というものです。しかしそれは時間の流れのように自然にやってくるものではありません。この世界の様子を見た、主なる神の意志によって来たらされるものです。
 この世界が、神を知らず、神にそむき、不義、不正、不公平を放置している時、突如、神ご自身がこの世界を支配するようになります。「神の国が近づいている」のです。

 アドベントは、この終わりの時を待つ期間でもあります。救い主キリストの降臨は、神の御支配の到来でもあるのです。恵みの約束の成就のときです。
その間の生活の要点として34節が語られます。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」
これをパウロは、ローマ13:12で待降を生きる信徒の心得として適切に薦めています。
「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けましょう」。アウグスティヌスの回心を誘った言葉として記憶されます。

恵みの約束が果たされる時を待ち望みましょう。