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2006年6月11日

《神の子となる霊》

説教者:
牧師 持田行人
聖書:
マルコ福音書1:9〜11

日課 申命記6:4〜9、ローマ8:12〜17、詩篇97:1〜12

子どもの日、花の日は、教会暦ではなく、教会の行事として守られます。
これは戦後日本では、事情がそぐわない、と考えられる、というよりも日本社会の実情に合わない、と考えられてでしょうか、あまり守られなくなりました。恐らく欧米の社会ではこれらを必要とする事情があったのでしょう。
日本社会は、昔から5月、3月に節句という子ども忠信の時を持っていました。欧米は、それを教会によってもたらされたのでしょう。花の日も、欧米では6月が花盛り、というところが多いのでしょう。しかし日本では6月は入梅。花もアジサイだけとなってしまいます。日本社会の子どもの日、花の日は5月が相応しい、ということになります。
そうしたことを考えながらも、この行事には何か心惹かれるものがあります。教会として子どものことを考えるときを持ちたい、と考えるからです。美しい自然界の営みを考えたいと考えるからです。
子どものことを考えるとき、当然、最近の殺人事件のことを考えるでしょう。教育基本法に思いをはせるでしょう。少子・高齢化問題を考えるでしょう。人間の生存権を憲法に照らして考え、生活保護のこと、年金制度、社会保険庁のことなどに至ります。平和憲法を改定する主張を問題にします。
自然界について考えれば、当然のように、創られた世界を考えることになり、神によって創られた世界を見つめ、創造の秩序への信仰を確認しようとするでしょう。死前回でも、人間界でも、あらゆる世界で、この被造世界の最初の秩序が崩壊しつつあることが見えてきます。現代世界の抱える最大の課題は、創造されたこの世界の最初の秩序を回復することです。

教会の暦は、この日、聖霊降臨日の次の主日を三位一体主日と定め、守って来ました。
先週木曜日には、ホームページ委員会が開かれました。その席上、ペンテコステが終わると教会暦はほとんど空白になって、ページに載せるようなものも無くなってしまう、ということが話されました。長い歴史の中で変更もされず、これで良し、とされてきたわけです。何故でしょうか。そもそも三位一体とは何でしょうか。
 実は、そのことを長い時間を用いて学ぶことこそ、この期間を三位一体主日と呼ぶ理由ではないでしょうか。長い期間は、理知的な学びだけではなく、体感的に、生活的に学ぶことも可能にします。
 聖霊は、私たちを神にあって生かす神の力です。私たちは不思議に、生かされて生きています。決して自分の力ではありません。

 マルコ福音書1:9以下は、通常ならば、バプテスマ受領と荒野の試みを語るもの。
今朝の日課とされると重点は異なる。主イエスが水から上がった後、聖霊を受けて神の子とされたことが、今回の中心なのです.神の霊の力が、イエスを神の子とします。
前回お話した霊の働きとは別に、イエスに対して霊がどの様に働かれるか、ということも示されます。
神は、天地の創造に際しては、自らを父として顕されました。
救いのときに当たっては、自らを子として顕されたのです。
そして、今私たちを生かすときには、聖霊として自らの力を顕し、示されました。
これが三位一体の神です。三位三体では多神教になります。
三つにして一つの神、これがイエス・キリストを主と仰ぐキリスト教の神です。

この三位一体説に関しては多くの学者が、様々な説明の仕方を考えました。わたしは、その中でも、二つの説明を面白い、と感じています。
ひとつは、一人の神の歴史における現れ方が違うのです、という言い方です。
もう一つは、三角錐のようなものです、という説明です。
自分が何処にいるか、何処から見るかで、同じ一人の神も見え方が変わってくる、ということでしょうか。

長い三位一体主日の間に、このような神の顕われを実感的に、体験的に学ぶことが期待されています。

旧約の日課は、申命記6:4〜9です。これはシェマーと呼ばれるものの一部です。
「イスラエルよ聴け、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。     シェマー イスラエール
「聞け、イスラエルよ」という呼び名は、この冒頭部分に基づきます。ユダヤ教を信じる者は、毎日、朝晩、祈りのたびごとにシェマーを唱えます。もっと長いものです。
申命記11:13〜21、民数記15:37〜41などが加えられます。主の祈り、または使徒信条ほどのものを暗誦することのなります。私たちは、このようなことはそれぞれの能力もあり、忙しい生活の事情もあるから、各人の自由にするべきだ、と考えるのではないでしょうか。しかしユダヤ教徒は、頑固なまでにこれを守り続けていま巣何故でしょう。
 彼らは、自分たちの神を知ったとき、これはじんせいのおおきなbゥ分を費やして学び、知り、伝える値打ちがある、と確信したのです。そのために、子どもの時からこれを教え、繰り返し暗誦させました。骨の髄まで染み込ませようとしたのです。
 ユダヤの民は賢い人々だと感服します。
アフリカの聖者と慕われ、仰がれたアルバート・シュヴァイツアーは、医学、音楽、神学、哲学を修め、伝道者、牧師、医師、オルガン演奏家として活躍しました。
世界平和のための活躍もありました。ある時、彼は、「宗教教育の目的は何でしょうか」と問われて答えました。「それは、来るべき無宗教への誘惑に対抗できるようにするためです」と。
シュヴァイツアーは、多少の違いはありますが、「シェマー」が求めるところを見事に理解していたのでしょう。


新約からもう一箇所、日課があります。ローマの信徒への手紙8:12〜17です。
ここでは、み子イエスの事ではなく、私たちが神の霊によって導かれているなら神の子である、と記されています。しかも、肉によらず、神の霊によって生きる者は、キリストとの共同の相続人になっている、とも記しています。
 これにより前回説教の続きが生まれます。聖霊の賜物は、イエスを神の子とし、更に私たちを神の子、養子とする、ということです。

詩篇は97:1〜12です。ここでは「偶像に仕える者、むなしい神々を誇るものは恥を受ける」、と語られます。そして「主を愛する人は悪を憎む」と。
まさに「シェマー」が指し示す信仰を生きるものは、神の祝福をいただき、光を受け、喜び楽しむことが出来るのです。その種が蒔かれます。

 この時代の問題、課題を考えるときにも、この世界の主は誰であるか忘れることなく、考える人こそ、この詩篇のように祝されるでしょう。それは完全な信仰者を指すものではありません。常に求道する人です。
戦前の日本基督教会で『福音新報』の編集に携わった駒込教会牧師、日高善一がいます。
彼は、講壇を降りると、今日も失敗、今度もやりそこない、どうして、思うように行かないのか、毎週泣きの涙だったと伝えられます。「どうかして、福音の能力を握りたい。本当の福音に触れたい」、これが彼の願いでした。その時代の流れの中で思うように語れないことを悩みました。1956年6月10日、77歳で召されました。今、埼玉の越谷教会石橋秀雄牧師は、その孫になります。
 聖霊降臨の恵みは、私たちが三位一体の神を知ることを得させられました。ある説教者は、この日の説教に《教会の使信》と題されました。それこそ三一の神である、と伝えるためです。今は聖霊が働くときです。この教会にも聖霊が豊かに働いています。
自己満足、自己完結するのではなく、絶えず求道してゆくことこそ、神の子とせられた者の歩む道です。
三位一体主日は10月末まで続きます。20週あります。三一の神の働きに親しくまみえて行きましょう。